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2008年12月6日土曜日

人の感情がわかる (isaan05-c987254-200812061904)

おかあつがミクシコミュニティータイ東北イサーン語研究会として著した記事を紹介します。
人の感情がわかる (おかあつ)
2008年12月06日 19:04
昨日まで二泊三日でウドンタニーに旅行に行ってきました。 前ウドンタニーにすんでいたときの荷物が一年以上ほうってあったままで、それを片付けたりもしたのですが、そのとき、数学者の岡 潔のエッセイ集が出てきました。 実は、僕はこの本をまだ読んでいないのですが、本のはじめの方をパラパラっとめくってみて、ああ僕が思っていることとまったく同じことを思っていた人がいたんだな、というようなことを思いました。

この文章には当然ウドンタニーやイサーンのことなどは一切出てこないのですが、日記に代えて、冒頭の一説をここに転載します。

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「人の情緒と教育」 岡 潔著・光文社文庫・春宵十話より

私はなるべく世間から遠ざかるようにして暮らしているのだが、それでも私なりにいろいろ感じることがあり、世間の人に聞いてほしいと思うこともある。 それを中心にお話してみよう。

これは日本のだけのことでなく、西洋もそうだが、学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。 実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人を生理学的に見ればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。 しかしこんな学問はまだないし、医学でも本当に人を生理学的にみようとはしていない。 それをめざしているのかもしれないが、それにしては随分遅れている。

人に対する知識の不足がもっともはっきり現れているのは幼児の育て方や義務教育の面ではなかろうか。 人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだような物、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。 それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのが今の教育ではあるまいか。ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く成育するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。 すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎるほうがよい。これが教育というものの根本原則だと思う。

戦後、義務教育は延長されたのに女性の初潮は平均して戦前より三年も早くなっているという。 これは大変なことではあるまいか。人間性を押さえて動物性を伸ばした結果にほかならないという気がする。 たとえば、牛や馬なら生れ落ちてすぐ歩けるが、人の子は産まれて一年間ぐらいは歩けない。 そしてその一年の間にこそ大切なことを準備している。 とすれば、成熟が三年も速くなったのは、人の人たるゆえんのところを育てるのをおろそかにしたからではあるまいか。 ではその人たるゆえんはどこにあるのか。 私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。 人がけものから人間になったというのは、とりもなおさず人の感情がわかるようになったということだが、この、人の感情がわかるというのが実に難しい。 赤ん坊の心の大きくなり方を観察しても、もっとも難渋をきわめるのがここのところで、なかなか感情がわかるまでにならない。 人類が人の感情がわかるようになるまでには何千年どころではなく、無限に近い年月を要したに違いないと思われるくらいにわかりにくい。 数え年で三つの終わりごろから感情ということがややわかるが、それはもっぱら自分の感情で、他人の感情がかすかにわかりかけるのは数え年で五つぐらいのころからのようだ。 その間二年ばかり足踏みしていることになる。 しかし、そのデリケートな感情がわからないうちは道義の根本は教えられない。

私も最近、最初の孫を持って、無慈悲を憎む心や思いやりの気持をもたせようと思い、感情がいつわかるようになるかと手ぐすねひいて待っているが、なかなかわからない。 といって、いわゆるしつけは一種の条件反射で、害あって益のないものだからやりたくないが、あまり気ままの雑草が生い茂っても困るのでしつけをせねばならないのだろうかと悩んでいる。 やはり心を育てる時期はあるに違いない。 それは植物でも茎、枝、葉が一様に平均して育つのではないのと同じことである。 ある時期は茎が、ある時期は葉が主に伸びるということぐらいは、戦時中みんなカボチャを作ったから知っているはずだが、人間というカボチャも同じだとは気がつかず、時間を細かく切ってのぞいて、いいとか悪いとか、この子は能力があるとかないとかいっている。

どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。 そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲なことにあると気づく。 これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う。 学問にしても、そんな頭は決して学問には向かない。 夏目漱石の弟子の小宮豊隆さんと寺田寅彦先生の連句に、小宮さんが「水やればひたと吸い入る墓の苔」と詠み、寺田先生がこれに「かなめのかげに動く蚊柱」とつけたのがある。 小宮さんはこれを評して寅彦のつけ方のふわっとしていることは天下一品だといっているが、それはともかく、ちょうどこんなふうに、乾いた苔が水を吸うように学問を受けいれるのがよい頭といえる。 ところが、動物的発育のためにそれができない頭は、妙に図太く、てんで学問なんか受け付けない。 中学や高校の先生に聞いても、近ごろの子はそんなふうに教えにくいといっている。 いま、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。 人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。 粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象の細かいくばりがないということだから、緻密さが欠けるのは一切のものが欠けることにほかならない。 長岡半太郎さんが寺田寅彦先生の緻密さについてふれていたが、文学の世界でも、寺田先生の「藪柑子集」特にその中の「団栗」ほどの緻密な文章はもういまではほとんどみられないのではなかろうか。

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以上です。

なかに 「ではその人たるゆえんはどこにあるのか。 私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。」 「人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。 人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。」 という一節がありました。



僕がいつも思うのは、日本人がタイ人を、まるで人間ではなくて物のように見ていることです。 それに対して、タイ人は人を人としてみることを一番大切にするように思います。

今回、ウドンタニでみんなといるとき、遠くの方で子供がドアを開けて家に入っていくのが見えたことがありました。 そのとき、あるおじさんが 「ほら見えるだろ、あいつ、今ドアから右に曲がって、うらにいるよ、立ち上がって、いま家から出てくるよ」っていったんです。 みんな「家の中にいるんだからみえるわけないよ」っていって笑ったんですが、実際ちょうどその子供は家から出てきたんです。

僕は思ったんですが、このおじさんは普段から人をよく見ているので、見えてなくても誰が何をしているか、想像がつくんじゃないかって思ったんです。 これは何も特殊なことではないような気がしました。 例えば、イサーン人でなくとも、プロのバスケットボールの選手は、よくうしろを見てないのにうしろにいる選手に正確にパスをしたりします。 バスケットボールの選手は普段からチームメートの動きのクセをよく観察しているので、ゲーム中、わざわざみていなくても、どこに誰がいるのかわかるのではないでしょうか。

イサーン人を見ていると、普通の人でもまるでバスケットボールの選手みたいにふだんから、すごく人をよく見ていることに驚きます。 顔を覚えるのも早いし、人の気持を察するのもすごく早いように思います。

こういう細かな心の動きが見えない日本人は、まるで機械のように決まりきってイサーン人をバカにします。 しかも日本人はイサーン人とタイ人の区別すらついておらず、イサーン人ではなくタイ人をバカにします。 何もわかっていないのは日本人の方なのにです。



昔は、日本もイサーンの様に心の動きを大切にしていたはずだと思うのです。 それがいつからか、お金のみが価値観の中心に来て、気持を尊重しないように変わってしまったことを思います。


数学のパターン認識力をはかる「知能指数」とおなじ様に、「心の知能指数」というものがあるのではないか、と僕は思います。 もちろん、数学のパターン認識力もひとつの人の能力です。 しかしそれが全てではないと思うのです。 ウドンタニーのおじさんのように「見ていなくても人が見える」能力というものがあると僕は思うのです。

僕は幸か不幸か中卒です。 だから、日本の教育をまったくまともに受けていません。 受験戦争ともまったく無縁でした。 だから、僕はあまり普通の日本人と考え方が同じではないんだと思います。そんな僕ですが、心が発育不良のまま大人になって、行き場を失っている現代の日本人のことをよく思います。 そんな日本人がタイに来て自分を棚に上げ「バカ」な「タイ人」を見て安心しているのをみると、とても心配になります。 現代日本人は何かをどこかにおいてきてしまっているんだと思うのです。

フランス文学「星の王子様」の一節に 「人は心なしでは物が見えない。本質は目には見えないからだ。」という言葉が出てきます。

  日「人は心なしでは物が見えない。本質は目には見えないからだ。」
  仏"On ne voit bien qu'avec le cœur. L'essentiel est invisible pour les yeux."
  英"One cannot see well except with the heart, the essential is invisible to the eyes."

この一節は、日本語版「星の王子様」では「大切なものは、目に見えない」と訳されており、多くの人に親しまれています。 しかし、本当の意味は全然違います。 原文はこんなあいまいでは全然ありません。 認識の本質について鋭く切り込むようなはっきりした言葉です。 それをこんな「大切なものは、目に見えない」なんてあいまいに翻訳した人は、大変な罪を背負っていると、僕は思うんです。

地球が村の様に小さくなったインターネット全盛の現代を生きる日本人ですが、心を失った日本人はそんな国際社会の中を、まったくの盲目でウロウロしているような気がしてならないのです。
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出展 2008年12月06日 19:04 『人の感情がわかる』