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2008年10月31日金曜日

外国で、僕は途方にくれる (mixi05-u459989-200810312331)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
外国で、僕は途方にくれる
2008年10月31日23:31
というわけで、ブログからミクシに戻ってきたおかあつです。

いきなりですが、つまり、外国に住んで、語学を目指して語学をどんどんと極めていく、すると、どんどん自分の国の文化から遠ざかっていくわけです。 で、気がつくと、自分の文化から離れて、他の人の文化がまるで自分の文化みたいにここちよく感じられる点が近づいてくる。

これって山みたいなもので、山のふもとの右側からどんどんと語学の山を登っていくと、上り坂で非常に苦しいわけですが、気がつくと頂上を過ぎて、左側の下り坂に入る。 するといきなり語学が楽になってしまう。 これを下りきると日本文化から離れて完全な外国の文化になるわけです。

僕はちょうど頂上をちょっと超えた辺りにいる。 全部タイ語で片付けるなら、そっちの方が楽だと感じている自分がいる。 日本語を話さないほうが楽だと感じている自分が居る。 まだ全部日本語をやめることはできないけど、それでもかなり完全に止めるレベルまで近づいてきている。

で、日本人と会うと、逆の向きのカルチャーギャップがあることに気がつく。 日本人に、自分が感じているその国での普通のことをいくら説明してもわかってもらえなくて苦しい。 もちろん相手がただの日本人ならそういうことはいわないんだけど、相手がその外国文化を志している日本人であれば、同士なわけだから、やっぱりそれを言いたくなることがある。

ところが。 彼らはまだ上り坂のとちゅうにいる。 僕にはそれが見える。 ところが登りつかれて「登らないでもいいや」って言い始めてる。 頂上を越えてしまえば楽なんだけど、そこまで来る気力が無い。

僕は、頂上の、右側から見た左側の人と、頂上の左側から見た右側の人の両方が見える。



とりあえず、僕はタイに居るわけだから、タイ側の山のふもとから見たほうの考え方に合わせるべきだって感じてる。 もちろん全部合わせる必要は無いけど、少なくとも、この国ではそうするのが当たり前、っていう共通認識を自分のなかで作り上げることが大切と思う。 これを知っているのと知らないのでは大きく違う。



ところが、タイ文化って外国人にとってすごく特殊な性質がある。 極端に柔軟なのだ。 まるでロシア映画「惑星ソラリス」に住んでる未知の生物みたいに、相手に合わせてすっと変化してしまう。 だからこそ、バンコクは誰でも滞在でき、誰でも仕事が出来る。 だからこそバンコクは「人種のルツボ」って呼ばれたりもするんだと思う。

だから、いろいろな人が思い思い好き好きにタイ文化を感じている。 それが実際のタイの姿と一致していることは極めて稀だ。

僕はタイ以外にも色々と滞在した経験があって、一番一生懸命勉強したのは、アメリカ文化だ。 あたりまえだけど、アメリカ文化って、タイ文化と全然違う。 外国人は100%、アメリカ式に変化するのが当たり前と社会が要求する。 こういう場所だと、そういう文化の差異に対してかなりシビアなセンスが求められる。 これが出来ないと、社会からはじき出されてしまう。フランスなんかなおさらシビアだ。 ちょっとの差ではじき出されてしまう。

そういう厳しさを経験したことがあると、タイってずいぶんと楽だなぁと感じるものだ。 しかし、その楽さに頼らないでいくことは大切だ。 そうするのが、他の国では当たり前だし。

タイには、そんな優しさがある。

だから、タイは、外国人に「自分はタイ文化を理解したのだ」っていう錯覚を与えることがすごく多い。 これは語学学習者にとっては、すごく毒だ。



タイにいる外国人は一様にタイ人のことをバカにする。 なんでもかんでも「マイペンライ」(気にしないでいいよっていうタイ人の常套句) か! ビジネスもマイペンライでうまく行くか!とバカにする。 僕もタイで仕事をしていたので、マイペンライシンドロームはよく知っている。 このタイ人の「死ぬまでマイペンライ」に付き合うのは、大変なストレスなのだ。

しかし、そうやってタイ人をバカにする外人は、実は、国に帰ればただの無能なプー太郎である人がほとんどだ。 そういう「不良外国人」をバカにせず、タイ人はやさしく「マイペンライ」の精神で迎えてくれる。 そう、つまり外人だって、タイ人の無数のマイペンライによって支えられているのだ。

それを忘れた外人はタイ人に実にいいように扱われてしまう。 タイ人は人の気持ちをコントロールするのが魔法の様に上手いからだ。



しかしね。

僕は色々な文化を見てきたけど、いちばん理解が難しい国は日本だと感じる。 これは絶対に間違いない。 日本人すら理解できないことも珍しくない。 だいたいね。 会議なんかがあると、会議に出席している人全員、その会議で何が起こっているかわからない、なんていう国は稀だと思う。

僕は、無数の日本人から「他人の考え方は究極には理解できない」っていう言葉を聞いた。 これは実はそんなこと無い。 これは実はとても日本独特な意見だ。 しかし、この独特さに日本に居ると気がつかない。

これは僕個人の感想ではない。 多くの国では「他人の考え方は究極には理解できない」とは言わないように思う。 他人の考え方が究極的に理解できないものなら、ユーミンはいないと思う。 他人の考え方が究極的に理解できないものなら、バイリンガルというものもいないだろう。

多くの国では「他人の考え方は理解できない」という言葉を発する代わりに「自分の意見をいかに説明するか」とか「いかにグッドリスナーのスキルを身につけるか」とかいう言葉をいうように思う。

そういうコミュニケーションの具体的な努力を完全に放棄してしまった国が日本だ。



実は今日はタイ人と大きなケンカをしてもめているんだけど、それは実はあんまり苦では無いようにも感じる。 よくあることだし、それはそれでタイでは対処の方法が用意されていたりするし。




一番キツイのは、2つの文化の間に立たされる時だ。 そのどちらも、自分が正しいと思って譲らない。

このとき僕は、必ず、その時いる場所に合わせるべきだ、と思う。 タイに居るならタイの普通に合わせるべきだと思う。 そうでなければならない。 日本に居る時にタイ流で合わせられると物凄く困るわけだから。

日本人が、タイにいて、罵られて当然な非常識をやっているのに逆ギレしていて、その人がその状況をどうやっても理解しない時、僕は、すごく途方にくれる。



いや、でもまった、よく考えると、こうも言える。

自尊心だ。 そうだ。 普通の国だと自尊心を得るのに非常に大きな障壁を乗り越える必要がある。 ところが、色々な事情があってこの自尊心を得られなかった場合に、色々な心の問題が起こる。

気持ちを大切にするタイでは、この自尊心を無条件に与えることが一番大切なことだと考えられている。 その点非常に母性的な文化だと僕は思う。 この点、他の国はとても父性的だ。 他の国では自尊心とは、実力に応じて与えられるよう社会的な機構が備わっている。 だけど、タイはこの点、凄く特殊だ。

そういう父性的な文化からくる多くの外国人は、母性的なタイに来て失われた自尊心を回復するのかもしれない。

だから、タイに居る外国人は現実を客観的に観察できないのかもしれない。


コメント一覧
クレ   2008年11月01日 01:22
>多くの国では「他人の考え方は理解できない」という言葉を発する代わりに「自分の意見をいかに説明するか」とか「いかにグッドリスナーのスキルを身につけるか」とかいう言葉をいうように思う。

>気持ちを大切にするタイでは、この自尊心を無条件に与えることが一番大切なことだと考えられている。 その点非常に母性的な文化だと僕は思う。 この点、他の国はとても父性的だ。 他の国では自尊心とは、実力に応じて与えられるよう社会的な機構が備わっている。 だけど、タイはこの点、凄く特殊だ。

すごく参考になりました。目からうろこです。

 
出展 2008年10月31日23:31 『外国で、僕は途方にくれる』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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