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2008年9月7日日曜日

読み過ぎと聞き過ぎ (mixi05-u459989-200809072211)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
読み過ぎと聞き過ぎ
2008年09月07日22:11
7:37 AM 9/7/2008

今日はあきれるほどいろいろなことがあった...。

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読み過ぎと聞き過ぎ

○ 読み過ぎ

マイミクの「まはヴぃーら」さんは、僕が好きな人の1人だ。 タイ字の読み書きに強くてタイ事情に明るい。 歴史に詳しく博学で知的な話の出来る頭のよい人だ。

ただ日本の頭の良い人の多分にもれず、格差や差別を理解できない。 僕は格差や差別が理解できない人が嫌いだ。 だけど、格差や差別を理解できない人を嫌い始めると世の中の99.99%以上の人は僕の嫌いな人になってしまう。それどころか、僕が尊敬している人のほとんどがこの格差や差別を理解できない。 だからいちいち嫌って避けるわけには行かない。 僕はこのことで随分悩んでいる。

僕は、自分が持っているタイのイサーン文化研究コミュニティーでどうしてもこの差別の話が関わってくることが多く、この差別に対する認識の落差で悩むことは少なくない。 差別を正しく認識できない人はクビだ、という風にするとメンバー数は多分今の0.1%くらいになってしまうだろう。 共存は避けて通れず、同様に説明責任も避けては通れない。

ところが、体験に頼らず文章のみで、差別が何なのか何故差別はよくないことなのかを説明するのは、極めて難しい。 ましてや被差別グループの心情を差別グループに文章だけで伝えることはほぼ不可能だ。 厳密に言えば不可能ではないのだけど、明らかに相手を不愉快にしてしまうので、現実的に難しいのだと思う。 要するに、どうしても「あの、すみません、今あなた僕の足を踏んづけてること気がついてないみたいですが、どけてくれません?」という話になってしまうので、ケンカになってしまうのだと思う。

特に、日本だと自分に不利な話を素直に聞く風習がないので、こういう話をするのはとても難しいと感じる。 何故だろうか。 このことを考えるとき、いつもあるアメリカ女性のことを思い出す。

前、アメリカに居たとき、非常に混雑している電車の中で座席に横を向いて体育座りしている女の人を見たことがあったのだ。 1人で2人分の座席を使って非常に迷惑だった。日本だったら「なめとんのかゴルァ」という感じの人だった。 で、どうするのかなと思ってみていたら、サラリーマン風の人が近づいてきて、あっさり「すみません、そこすわってもいいですか?」と聞いたのでびっくりした。 日本だったらケンカに成り兼ねないシチュエーションだと思う。 ところが、女の人はあっさり「あ!すみません!」といって座りなおしたので、二度びっくりした。 自分に不利な意見でも合理性があれば素直に聞く風習があるのだな、と変に感銘を受けたことを覚えている。

日本にはこういう風習がなく、相手に合理性があるときでも素直に謝ることは少ない。 なぜなら素直に謝ると相手に攻撃する隙を与えてしまう危険性もあるからだ。 素直に間違いを認めることが出来る為には、素直に間違いを認めた人をそれ以上不要に追撃しない土壌が必要だ。 間違いを認めたということは彼が合理性に基づいて行動している証拠である、彼は合理的であるという、間違ったことに低い評価を与えるのではない、むしろ反省できる能力に高い評価を下す懐の深い一般常識が必要だ。

ところが、日本では合理性ではなく懲罰に基づいた行動をとるため、素直に間違いを認めると、懲罰の対象として捕えられてしまう可能性がある。 だからこそ、合理的に見て間違っていてもそれを認めることが難しい。 だからこそ、相手に不利な話をするのが難しいのだと思う。



また、日本人は、極めて知識に偏重した民族だと思う。 あらゆる物事を物凄くよく知っているが理解はしていない。

読み書きというのは、比較的、量的なスキルではないかと思う。 経験によらず量をこなせばこなすほど確実に上達する。 ところが、説明力・理解力というものは質的なものではないだろうかと思う。 つまり、量をこなしても決して身につかないが、いろいろな経験を通じあがきもがくうち、ある瞬間が来ると瞬間的に身につく。 その「ある瞬間」とは練習を始めてすぐに到来することもあれば、練習を始めてから長い年月を経て到来することもある。このスキルを身につけるのは一筋縄ではいかない。

これはいってみれば運転免許みたいなものではないかと思う。 勉強家で法規も運転のセオリーもバッチリ覚えたからといって、運転が上手く出来るかと言えばそうは行かないのと似ているように思う。 運転は運転で慣れが必要でいくら机上で勉強したとしてもそればかりは身につかない。 危険を冒してあちこちに車をぶつけて痛い目にあうなかで上達していくように思う。

こういう知識偏重の傾向は僕も多分にもれない。 前、アメリカで語学留学していた時、ドイツ人ばかりのクラスに紛れ込んでしまったことがあった。 この人たちは実に会話が達者でベラベラひたすら喋りまくるので、僕はまったくついていけず辟易していたのだけど、文法テストをすると、意外や意外、僕の方が点数が高いのだ。

これは、日本が海に囲まれた国であるということと非常に大きな関係があるように感じる。 日本は海に囲まれた国で、外国人は必ず船や飛行機を使って入国する必要がある。 これは日本に居れば実に当たり前なことだけど、これは世界的に見るとかなり特殊な環境ではないだろうか。 普通の国は外国と陸続きで国境も当然陸の上だ。 外国人は高価な飛行機や時間のかかる船など使わず、歩いてどんどんやってくる。 その点、日本は海によって平和が守られているともいえる。

しかし逆に見れば日本人はおいそれと簡単に海外に出ることが出来ないともいえる。日本人は外国に行くためには高価な飛行機や時間のかかる船を使っていく必要がある。 だから、日本人は外国での出来事を文章を通じて知ることが多い。 出来事を実体験として知ることは少ない。

ところが、実際には文章になる物事というのは、現実のごく一部だ。 殊にそこに住む人が当たり前だと感じていることは文章になりづらいものだ。 あるいは文章にしたくないものは文章にならないだろうし、文章にしたいものは美化された現実かもしれない。 人間である以上、そういう偏りはあらわれるのだと思う。

本来であれば、出来事を実体験として知っていれば、当然、文章に書かれていることが間違っていることはすぐにわかる。 その文章に書かれていることを直接実体験として知っていなくとも、関連する出来事の実体験を通じて推測しながら感じることも出来る。

ところが日本人であるとその実体験を得ることがとても難しくなるのではないかと思う。つまり文章に書かれていることに極端に依存しすぎ理解が現実から解離してしまいがちな傾向があるのだと思う。

この知識に偏重し易い傾向は、日本人の非常に大きな特徴のひとつだと思う。

僕は最近日本のニュースや日本人が書くあらゆる記事が気持ち悪くて仕方が無い。 僕が普段体験していることと比べると、あまりにも極端にかけ離れすぎている。 彼らは実体験に基かず読んだものを基いて考えているのだと思う。 彼らは「読み過ぎ」なのだ。

僕は日本人である以上、そういう「読み過ぎ」の危険というものが常に存在するのではないかと思う。

日本人は理解力を軽視し知識量のみを競う傾向が強い。 自分の論理の正当性を知識量で証明しようとする傾向がある。 討論する時も、具体的な合理性を検討することをせずに「君はそんなことも知らないのか」的な不毛な知識量戦争になりがちではないかと思う。

書かれた物が全てではない。だから書かれた物を全て知ってその矛盾点を挙げていくことに意義は少ない。むしろ自分自身の手によってまだかかれていないことを調べ、自分で考えて自分の手で書いていくことが大切ではないだろうか。

僕はそういう読み過ぎな人たちがもどかしくて仕方が無い。

でも以前こういうことがあった。 (マイミクでポンラン楽団・ケーン吹きの)ムリさんとお会いした時の話だ。 僕は思っていることをムリさんに話してみた。 ムリさんは一言「知ろうとしているだけマシ」と言った。 それでハッとしたのだけど、普通の人はそれに気がつくどころか、知ろうとすらしないものだ。 僕がしているのは断崖絶壁を素手で登ってくる志あるツワモノを北斗の拳のラオウ、よろしく「甘いわ!」と一蹴して奈落のそこに落としているようなものなのかもしれない。

ただ、このことは多くの人が書かないことだと思う。 書いても相手にその事実を理解させることは不可能で、更にはあらゆる人を不愉快にするからだ。 でも、僕はそこを敢えて、あるグループが感じていることを、事実ありのままに書きたいと思う。



○ 聞き過ぎ

今日ブラブラと歩いていてふと思いついた。 それと同時に「聞き過ぎ」という問題もあるのではないか。 世の中のほとんどの人は、自分が何を感じて何を考えたからそれ言っているのか、気がついていない。 だから人の話をききすぎてはいけない。

僕は読書家では無いので読みすぎの危険はあまりなさそうだけど、人の話はものすごくよく聞くので「聞き過ぎ」はありそうだ。 僕の場合、相手がイライラしているときなど、相手が言っていることをいちいち真に受けすぎて、相手に合わせて反応しすぎて逆に状況が悪化することは少なく無いように思う。

相手が興奮してベラベラといろいろ話し始めた時こそ、ちょっと間をおいて、遠めに見回して、その人が本当は何が言いたいのか本当は何を考えているのか、本当は何がしたいのか、その人が言葉にできなくてもがいていることを洞察力を使って察してあげることが必要なんじゃないかと思った。

9:12 AM 9/7/2008


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コメント一覧
クレ   2008年09月07日 22:54
真実がどうかより、常に勝ち負けが重要な男社会ほどは女社会では知識は偏重されていないような気がします。知識型の人は別世界の人として仲間ではないとみなされているような・・・。それとも私の所属している生活の中に知識型人間がほとんどいないのか、そもそも女性は被差別的存在なのか。女性の会話は原則「あなたと私はおんなじだよね♪」からスタートしなければだめですし。w
確かに、世間的評価そのまま以上の評価は人に与えない人は多いかも。自分に長いものさしのない人に人間を測れと言っても無理だから仕方のないことなんでしょうが。
聞きすぎにも読みすぎにも縁がなく、動物的勘がステキな女性に日々包囲されているような感じです。ほんの少し読み多少聞く私も、実はほとんど勘で判断しています。勘を洞察力に進歩させるには、観察力と想像力と客観性が必要ですが、残念なことに女性には客観性が欠如していることは多いです。
まはヴぃーら   2008年09月07日 23:49
まあ、「白人でスキンヘッドだからネオナチ」「ネオナチだからいいや」
っていうのは若い時の話とはいえ、差別かもしれない(逆差別?)。
でも「差別もしないし、そしてされない世界」を誰が保障してくれるん
だろう?と考えると自分しかないとたまに思います。
ねこ☆ミ。   2008年09月08日 02:46

自分は、読みすぎな人間ですが、(本当に読む人に比べれば、全然読んでいないわけですが、、、)
結局は、自分の頭で考えて、観察して、やってみたことしか、役に立たないと考えている。
(つうか、記憶力が強くないので、あまり知識を覚えられないという、個人的事情も在る。。。)


でも、公務員であれば、昇進のための試験に受かることが重要なので、
知識に対する考え方は、まったく違う。同じ日本の中でも、別の社会と
考えたほうがよい。


こみゅのほうを覗いたのですが、タイの政治情勢に絞れば、

タイの新聞のプロパガンダの文脈を、日本の新聞のいちおう事実を書く姿勢がある(?)
という文脈で理解するという過ちをおかしがち。

タイの新聞を読めば読むほど間違った情報より判断し、間違った理解をする場合が在る。

タイの政治情勢について、より理解をするためには、タイの新聞を真に受けず、、
実体験をもとに全体を俯瞰して総合的に考える必要がある。

こんな理解でO.K?


差別については、自分は、どこまで気づく人間なのか。よくわからない。


今日、眠れないので絡んでみました。時間の制約上、書きたいと思いながら、
書き逃げするかも。
ジャコビ   2008年09月08日 13:30
私は、日本人の中では数少ない体当たり、体で憶えるタイプの人間だと自負しています。だから、アメリカで生活してるんですけどね。
竹風鈴   2008年09月12日 14:56
何かをどれだけ知ってるかより、知ったことをどう感じたか、どのような栄養になり、どう乗り越え、または楽しんだか、っていう話の方がよっぽどおもしろい。
「こんなムダ話ばっかりつまってるしょーもない頭でござんす。」ってスタンスでの話ならまだいいんですけどね。

まぁ、知らないよりは知ってた方がいいのかもしれませんが、知識を得ることで心豊かな人になりたいものです。そのせいで人を見下したりするんじゃ、かえって小さい人間になってしまうってことで、それはさびしい。

今日その知識が正しかったとしても、物事は常に動き続けているわけだから明日にはもう全然通用しないものかもしれないですしね。だから何かを知り尽くすということも永遠にないでしょう。

会話が常に勝ち負けって人と話してるとほんとに疲れますが、おそらく本人が一番疲れていることでしょう。だって人生一刻一秒常に優劣気にして戦ってるんですよ。会話そのものを楽しんだり、テーマについてのみ真剣に議論する方が人生よっぽど楽しく過ごせるのに。

今の自分の仕事、たぶん社会的地位は低い方だと思います。
まぁ、漂白の民の末裔です(笑)。昔から日本の社会では定住しない者は被差別の対象です。(あっ、家はありますよ。)あからさまに見下してくる人もいますし、そのつもりなくても優越感が会話に滲み出たりすることも。
催事出店業者には、在日やいろいろな国籍の人が多いです。シングルマザーその他、国籍、資金不足など、就職や起業に不利な人たちがやはり多いように思います。かと思うと、国に帰れば結構なステイタスの人もいたりします。
私の場合芸術系の大学を出ているのですが、それを知った途端態度を変える人もいます。それを知ろうが知るまいが、私という人間になんの変りもないのにね。今あなたが見ている私が全てですよっ、て言いたい。
でも昔勤めてた頃よりおもしろい人たちが多いような気がします。
体当たりで地を這うように生きてる人が多いからでしょうか。でも世界がちがえばそれなりに戦いの材料というのはあるみたいですが。

しかし油断はできない。差別される側も、実は状況次第で簡単に差別する側にまわります。差別される状況はそのままに。もちろん自分もです。
自分で気がつけば一番いいのですが、これがなかなかむずかしいことです。
やはり気がついた人間に率直に指摘してもらうしかないのかもしれません。

で、ズバっと名指しで指摘されて、ちゃんとコメントに参加してるまはヴぃーらさんに一拍手。

長文失礼いたしました。
おかあつ   2008年09月18日 03:36
ま、僕もこういうことを書いていても、少なくとも英語に関してはどう考えても読み過ぎなのです。 人の読みすぎを断罪しつつ、自分自身が読みすぎなのです。 読んでいる量は10年以上、あらゆる文献を読んであらゆることを知っていますが、全く実地経験が無いのです。

知っていることが多いからいいじゃないか、というとそんなことはないのです。 現地に行くと、知っている量が多いという事実自体が、現地人にとって鬱陶しいというか、なんともいえない不快感を与えることがあるように思います。

これは... なんというか東京で例えると、普通東京人は東京タワーに何があるか知らないと思うのですが、いきなり日本語がかたことな外人が来て「えー東京タワーに何があるのかも知らないの?」とか言ったら、ちょっとヘンなのと似ているように思います。 だから、僕は英語で話す時、自分が知っていることだけを話題にする事は、ほとんど無いです。 僕の方が詳しすぎるほど詳しく、鬱陶しがられるのがオチだからです。

僕は英語で読み過ぎですが、この逆、日本語で読みすぎな外人と接した経験もあります。

インド人のプログラマーと仕事をしたときのことです。 このインド人は、インド10億人中3人とか4人とかいうようなエリート中のエリートで、彼の勉強量は凄まじく、その知識量はただひたすら感服するばかりでした。

ですが、とにかく日本語はいまいち上手じゃなかったんです。 漢字もたくさん知ってるし、異様なまでに単語もたくさん知っているのですが、どうやっても会話の流れに乗れないのです。 確かに、知識量だけを比較すれば、僕ら日本人よりもはるかによく知っているのですが、彼は日本文化を知識として持っているだけなので、実際に日本人の中に溶け込めないのです。

あまりにも馴染めないので、こまかな部分を指摘して修正してあげようとするのですが、
「僕は知っているから不要だ」と突っぱねて聞き入れないのです。 「ただ知っている」ということと「実体験として知っている」ということの違いを知らないからです。

知識が現実として乖離していくと、こういう風な感じに、いざ知識を使おうと思ったとき、思ったように効力を発揮しなかったりするように思います。 だから、海外ウォッチをする人は、しばしば、そういう「ズレ」を修正するために定期的に現地に赴くのではないかと思います。 現地で実体験をする事によりズレを修正するのではないでしょうか。

マニアックに何かを追求するからダメ、というわけではないと思うのです。 マニアックさは必要です。 ただ、マニアックに何かを追求すると、気がつかないうちに現実からかなり乖離してしまっている危険があるんではないかと思います。

(続く)
おかあつ   2008年09月18日 03:51
昔、大学のジャズ研にもぐりこんでいた時、ある有名なジャズドラマーの弟子と仲良くしてもらっていたころがありました。僕はまだ始めたばかりで、本やCDで調べた知識ばかりを持っていたんですが、彼は僕が始めた時点ですでに2年以上実地で叩かれた経験があったわけで、実力がありました。 彼は口が悪い人間で、僕が何か知っていることを話す度に「あそー。よく知ってんねー。で、何の役に立つの?」と小バカにされていたことを思い出します 実際ジャズの即興というのは、いくら知識を知っていても全く手も足も出ないものです。 難しいものです。

今考えてみれば、彼は、そうやって僕の現実とのズレを修正してくれていたわけで、実にありがたい嫌な先輩だったと思うわけです。

しかし、更に難しいところは、いくら実地が大切だと言っても、実地をひたすらやっただけでも奥行きのある演奏をすることはできないことです。 ジャズというのは本当に一筋縄では行かないものです。 両方大切なのです。 理論を知りそれをどうやって実地に生かしていくのか、実地をいかに理論にフィードバックするのか、という2つのことに常に同時にフォーカスを持っていなければいけません。 ジャズの演奏を習得する上でこのバランスはとても大切です。




だから、僕はこうやって何か僕が知っている知識に関する日記を書いたとき、文句を書く友達=そのズレを修正してくれる友達というのは、非常にありがたいのです。 特に英語に関してはジャコビさんにいつもいじめてもらっているのですが、本当にありがたいです。

ただ、多くの場合、「上達したい」と口で言っていたって内心本当は上達したいなんて思っていない人が多いのです。ただ幅を利かせたい、えばりたい、ちょっと格好をつけたい、とかそういう風に思っている程度の人ばかりです。そんな多くの人はアドバイスされると自尊心を傷つけられて怒り始めたりします。

またある人たちはわざわざ相手の自尊心を傷つけるためにアドバイスしたりします。
特に日本はこの傾向が強いと感じます。
だからある程度「密室性」が大切だと思ってます。


僕もこういう文章を書いていますが、まはヴぃーらさんじゃなかったら絶対に書いていないと思います。
 
出展 2008年09月07日22:11 『読み過ぎと聞き過ぎ』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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