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2008年8月30日土曜日

バンコク来た(イサーン語勉強会に書いた日記の転載) (mixi05-u459989-200808302011)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
バンコク来た(イサーン語勉強会に書いた日記の転載)
2008年08月30日20:11
イサーン語勉強会に書いた日記の転載で、ちょっと専門的といえばかっこいいのですが、なんというかちょっと内輪な話も書いてあるのですが、一応日記っていうことで、転載します。

よろしければどうぞ...!

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月曜日にバンコクに来ました。 おりしもタイは大騒ぎになっているみたいです。 みたいです、って書くのは何故かというと、大騒ぎになっているのをみたことがないからです。 僕は今、大騒ぎになっているらしい街まで1キロはないところにいますが、そういう感じです。

久しぶりにタイ語を話したら、ムチャムチャ上達しているのを感じました。 時間がたっていろいろなことが定着したみたいです。 また、僕はタイ語をほとんどウドンタニーでしかしゃべったことがないっていうこともあります。 今までなんだか疑問だったところが、面白いようにスラスラ解決していくのを感じます。

僕が知っているタイ語の中には、タイ語ではなくラオス語(イサーン語)だったものもたくさんあるのですが、逆に僕がラオス語だと思っていたことの中に、かなりのタイ語があることにも気がつきました。  かと思うと、タイ語とラオス語の中で、混ざって意味が変わったものもあることに気がついてきて、暗かったところにだんだん明かりが差してくるような感じがします。

なんというか、いろいろ思ったんですが、日本人って読み書きが無敵に得意な人って結構いるんだと思います。 大使館に行くとそういう「ムチャムチャタイ語がうまい」日本人がいっぱいいます。 でも、ぜんぜんダメダメなのです。 前、その大使館で一緒にいたタイ人に言われたんですが「どんなにタイ語がうまくてもサワッディーってひとこといえば、タイ人じゃないってわかる」っていうんです。 簡単なようで意外と難しいこのサワッディーの発音が間違っているっていうのは、ある程度しかたがないことでもありますが、それ以上に「言い方」とか「タイミング」とかから伝わる、その人の文化への理解感覚が大きいように思います。

ボキャブラリーとか発音とかそういうものは、はっきり見える「形」であって、努力しだいでいくらでも知ることができます。 しかし、文化というものは、そんな目に見える形ではなく、ぼんやりとしておりはっきりとみることはできません。 いってみれば、それは透明なものなんだと思います。

言葉って目に見える表面上の形の代表みたいなものですが、知ってのとおり、ほとんどの場合、ウソだったり、真実とはかけ離れていたりするものです。 それに対して、その人の本心というものは目に見えません。

文化も、そんな透明ガラスのようなものじゃないでしょうか。

ガラスは透明だから直接見ることはできません。 よくファミレスとかで、透明なガラスの扉に激突して怪我している人がいます。 しかし、普通の人はぶつかりません。 普通の人が透明なガラスに激突しないで歩くことができるのは何故でしょうか。

ガラスって直接見ることができないものですが、そこに周囲の物が反射してうつっていたり、汚れがうっすらとついていたりするところから、間接的にそこに見えないガラスの存在を知ることができます。 時として見えにくいこともあります。 そういう時は、頭を見る角度を変えたりして、多角的に観察することでそこにガラスが存在することを知ることができます。

しかし、直接見えないものですから、そこにおそらくガラスがあるだろう、ということを推測する必要もあります。 人は「建物の境目だから」とか「そこにドアのノブが浮いているから」という周囲の文脈から、そこにガラスがあるかもしれないと推測します。 そこにあるだろうという仮説したからこそ、そこを重点的に観察したりもできるわけで、そこにあるかもしれない、ということ自体に気がつかなければ、最期までガラスをみることはできません。

ガラスは時として非常に見えづらいものです。しかし、そういうときであっても、水をかけてみたり、直接触ってみたりすることで、その存在を知ることができます。 こうやって、観察するだけでなく、自分から直接行動を起こさないと見えないものでもあります。

そして、一番忘れてはいけない大切なことは、ガラスの形は最終的には直接触ることでしか知ることができないということです。



僕はタイ語の読み書きがいまいち不自由で得意でないのですが、しかし、日本のあらゆるタイに関する記述をみていると、恐ろしくなってくることがあります。 ただひたすら事実とかけ離れているからです。

それは、なぜかというと、読みすぎなのです。

タイの新聞はほとんどプロパガンダの道具でしかなくて、相当ムチャなことがたくさん書いてあります。 それは、タイの人すらよく知っていることです。 誰もがそのムチャさを知っており、ある程度割り引いて読むのが常識化しています。 しかし、日本人は、びっくりするほど素直にそれを信じてしまうのです。 まるで、テーブルの上の食事も道端に落ちた食べ物も等しく食べてしまうのと同じです。 そういう汚れになれていなさすぎるのではないかと思います。

新聞に限らず、ブログや日記・何でもかんでも、日本語の記事はほとんどその傾向があります。
恐ろしいことではないでしょうか。



僕は幸か不幸か、イサーンの文化をよく知る機会に恵まれたというか、知らないとどうにもならない窮地に落ちたというか、そういう感じで、イサーンの文化に直接触れる事が出来ました。 だから、イサーン語に関しても普通の人よりは、ずっとたくさん知っていると思います。

しかし、それは重要ではないのです。

それ以上に、イサーンに確実に存在する「見えない透明なもの」に対する理解が必要なのです。

タイの日本大使館の職員のように、「言葉は知っているが文化は理解してない」では、話せないのと変わりません。

イサーン語では、タイ語以上にその「見えない何か」が大切です。

いくら言葉を知っていても、それが見えていなければ、コミュニケーションが成り立たないだけでなく、人間として大切な何かを壊してしまうからです。



日本人はとかく、知識量に偏重しており、知ればそれで終わりになりがちです。 更にはそういう透明な存在を探っている「知らない人」を馬鹿にする傾向があります。 それでは、いつまでたっても、世界一の裸の王様、世界一の国際オンチ、日本人のままです。

僕は、知らなくてもひたすら考える努力を放棄しない人が好きです。

そんな、透明な存在をきちんと確かめし柔軟な日本人になりたいものです。

コメント一覧
ねこ☆ミ。   2008年08月30日 20:33
にゃるほど。
竹風鈴   2008年08月30日 22:33
タイにいらしていたんですね。

ガラスの例え・・うまいこと言いますね。
非常に共感、かつ教えられました。

海外の文化をクイズ形式で紹介する番組ってよくありますよね。
実感や経験を伴わない、身体ごとぶつかって理解しようとしてない人の「知識」って、なんかあのクイズの答えをペラペラ並べたててるような気がします。
知識とは、理解のためにどのように生かすかが大切なのであって、抱えること自体が目的ではないと思います。「知る」と「解る」はちがいますね。

>僕は、知らなくてもひたすら考える努力を放棄しない人が好きです。
>そんな、透明な存在をきちんと確かめし柔軟な日本人になりたいものです。

これはわたしにとっても座右の銘です。
世界中のあらゆることに精通することは不可能ですが、常に理解しよう、という努力は放棄したくないし、理解できないものに出会った時の胆力とか応用力を身につけたいと思います。
 
出展 2008年08月30日20:11 『バンコク来た(イサーン語勉強会に書いた日記の転載)』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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