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2008年6月15日日曜日

デジタルプリンさんへ (mixi05-u459989-200806152308)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
デジタルプリンさんへ
2008年06月15日23:08
今日の日記読んだ。

言っていることは凄くよくわかる。 というか僕もほとんど同じことを考えてネットを使っている。

1つだけ違うのは、僕にとってネットというのは、他人から与えられたコントロールできないものじゃなくて、自分で自分の考えに沿って作って変えていけるものだということだと思う。 だから、デジタルプリンさんが、同じことを考えていると同時に、反対意見も持っている。

僕は小学生の時からずっとパソコンをやっている。 だけど、実は二度ほどパソコンを止めてる。 子供の頃、僕にとってパソコンというのは、現実逃避の道具だった。 自分がやりたいと思ったけど出来ない夢... 空を飛ぶとか、ライトセーバーで闘うとか、高いビルからビルへと飛び歩くとか... 宇宙を旅するとか... そういうことを実現するための道具だった。 そう思っていつもゲームプログラムを作っていた。

でも、その後大きくなって... 高校に入る時に考えが変わった。 なんというか、夢をパソコンで実現するのではなくて、現実で実現すればいい、と思った。 要するに、彼女が欲しければ、彼女を作るゲームを作るのではなく、現実に彼女を作ろうと、そう思った。 それ以降僕は、バイクの走り屋や、バンドマンになった。 水産埠頭でコーナーを攻めたりW大学のジャズ研にもぐりこんだりしていた。

そんな僕がパソコンの世界に戻ってきたのは1995年の22歳の時だ。
それもなりたくてなったわけではなく、単純にお金がなくて仕方がないからなった。

===

今も混沌としている。 たまにネットを止めたいと僕も思う。 止めたらすっきりするだろう。

だけど、僕は今はネットを止めようとは思わない。

1982年と今とでは1つだけ違うことがある。

1982年、パソコンは孤独な道具だった。 なぜなら、1982年の時は、ネットがなかったからだ。 パソコンといえばスタンドアローンでしかなかった。 つまり、パソコンマニアというのは、今と違い、完全に孤独なオモチャだった。 しかも、当時、OSというものすらなかったので、プログラムを組んだとしても、友達のパソコンで動かすことは出来なかった。 プログラムを組んでも他人に見せるということは無理だったのだ。

しかし、今は違う。

時代は2000年も大分過ぎた。 ネットもある、OSもある。 Javaもある。 1982年と比べて、パソコンは、比較にならないほど高い互換性を持っている。 正に 一人だけのものではなくなった。 僕は1982年を知っているので、それがいかに貴重な違いなのか、ということがよくわかる。 1982年には、夢の様なことだったこと... プログラムを作って他人に見せるということが、今では簡単に出来る。

いまや、パソコンは現実世界への扉なのだ。



だが、そういわれても、どことなく漠然と違和感は残る。 パソコンが世界への扉になった ... なったはずなのに、何かが違う。 昨今のひきこもり、ネット住民・ネットカフェ住民は、明らかになにかの不健康に感じる。 僕も、実際にネットを使っていて、漠然とした閉塞感を感じる。 一体、この閉塞感はどこからくるんだろう。


それは大きく分けて二つの原因からなると思う。

1つはソフトウェアの不足だ。 大分マシに成ってきたけど、やっぱりまだ足りない。 1982年に夢の様なことだったことは、いまや簡単に出来る。 しかし、簡単に出来るはずなのに出来ないことって思いのほかたくさんある。

例えば、送金することとかは、まだ出来ないことのひとつだ。 もちろん、大分便利にはなってきた。 だけどまだ完全じゃない。 まだ、ネットを使ってできることが全部出来るようになってはいない。 折角送金システムが出来上がっても、システムエンジニアの意識が低いので実用に結びつきづらいのだと思う。 では、一体 彼らに何が足りないというのだろうか。

例えば、システムのオープン性の重要性に対する知識の欠落なんかが典型的な例だと思う。 つまり、せっかく新しい送金システムができあがっても、そのシステム設計者がオープンシステムの重要性がわかっていないと、そのシステムは「キラーアプリ」にはなれない。 結局、つぎつぎと出ては消えていくゴミシステムの1つになるだけだ。 しかし、システムエンジニアの意識がまだまだそこまで到達していないので、毎回毎回、同じ問題にあたって失敗しているように僕には感じる。

僕は思うのだけど、インターネットというのはTCP/IP というプロトコルを使って、誰でもどんなシステムでも構築できるというところが魅力だ。 なのに、 誰もその重要性に気がついてないのではないかと思う。



僕はたまに思うんだけど、日本のシステム屋は特に意識が低い。 ネットというものを「神が与えたもうたお恵み」のように感じている。 自分で作るものだという意識がない。 僕は 2ch の管理人の話とかを聞いていても凄くそういう無責任さを感じる。 彼が「最新技術というのはいつも大企業の手の内にあって自由に使えない... そうやって企業が作ったものが日本に落ちてくる... そういうおこぼれを使って僕らは物を作る」って言うようなことを言っていたのを聞いたことがある。 確かにひとつの現実を表した言葉だとは思う。 だけど、意識は低いと思う。



もう1つは、日本の文化的な限界だと思う。

日本は今、急速に多様化している。 色々な人がいろいろな価値観を持って色々な人生を送ろうとしている。 それはもう始まってしまっている。 待ったなしで、日本がどんどんと多様化している。 ところが、問題なのは、その急速な変化に、日本のコミュニケーション様式がまったく対応できてないんだと思う。

例えば、ヨーロッパだと、まず誰かにあうと、最初に「こんにちは! 私は○○です! ○○県から来ました。 これまでどういう仕事をして、何が好きです。」 というような 私は誰なのか、ということを説明する。 だから、知らない人と会っても、取り敢えずはコミュニティーを形成できる。

これは、日本だと学校に入学した時ぐらいしかやらないが、ヨーロッパでは、コンビニの店員だろうが、清掃屋だろうが、相手が誰でも自分が誰でも気にせずやる。 だから、誰でも友達になれる。

ところが、日本だと、自分が誰なのかを説明する・あるいは説明を求めるのが失礼に当たることが多い。 だから自己紹介したくても出来ない、自己紹介してもらいたいのに、できないということがよく起こる。 というか、いつもそうだ。

だから、結果的に日本人というのは、いつも孤独だ。 いつも、日本人同士なのに、一定以上仲良くなれない。

例えば、日本人はヨーロッパに行くと友達がたくさんできる。 ヨーロッパの友達がたくさんできるのにたいして、日本人同士はどんどん疎遠になっていく。 これはものすごくよく見かける現象だ。 日本人は日本人が嫌いだ。 日本人の面倒くさくて、表面的なコミュニケーション形式にうんざりしている。 だから、日本人同士がなぜか疎遠になってしまう。

日本人のコミュニケーション方式というのは、もうすでに破綻しているんだと思う。

僕には漠然とだけど、ネットの閉塞感と、こういう日本人の性格がダブって見える。



ネットというのはある意味、新しいコミュニケーションの形を考えて試すことが出来る点で凄くエキサイティングだ。

日本人にとって匿名って特別な意味がある。 日本文化はホンネを出す人を子供っぽいと見るからだ。 だから日本人は匿名という隠れ蓑がないとホンネを出すことが出来ない。これは匿名のよい点の一つだ。 しかし、匿名という風になるととたんに悪いことばかりする人も居る。 掲示板の荒らしとかがそうだ。 これは匿名の欠点の1つだ。

匿名でありながら、社会的信用を築くことができる... そんな矛盾したようなシステムがあればとても便利なはずだ。 それは一瞬夢の様な気がするが、そんなことは実はない。 RSA とか 一方向ハッシュ関数という技術を使うと、それは案外簡単に実装できる。


ネットには、本来そういう新しいあり方を模索することが出来るなんていう、現実ではまったく考えられないような自由な発想を実現できるパワーがある。 ところが、みんなそれに気がつかない。



外国文化に触れるチャンスが圧倒的に増えたのも、ネットを使ったコミュニケーションの利点の一つだ。 昔、ネットが無かったころ、日本はとても閉塞していた。 今も閉塞しているが、昔はもっと閉塞していた。 そういう閉塞した状況を脱出するためには、外国に行く以外方法が無かった。 ところが外国に行くというのはとても敷居が高い難しいものだった。 外国でなくとも、知り合いも居ない、見ず知らずの土地に単身乗り込むのは大変なものだ。 これが外国となると、更に大変なのだ。

ところが、今はネットがある。 簡単に外国の友達と知り合うことが出来る。 これで外国の友達と知り合って、日本を飛び出すことが実に手軽になった。 それどころか、日本に居ながらにして、外国に居るのと同じ様な自由を手にする事だって出来る。

これもネットのパワーの1つだ。

2008年、パソコンは、現実と直結したツールなのだと思う。 ネットは、現実の殻を打ち破る起爆剤にだってなる。 1982年、パソコンはただのハコでしかなかったが、今は違う。 それだけでなく、パソコンは、何かが違うと感じたら、粘土の様な手軽さで自分の思い通りに直すことすら出来る。 強力な武器だ。


これはなんというかくだらない一例かもしれないけど、例えば、僕はネットでかなりの数リアルで女性に出合っている。 これは1982年にはありえなかったことだ。



デジタルプリンさんは、現実に惑わされずに理想を見抜く思考力があるように、僕には見える。 これは今のネットには無くてはならない才能だと、僕は思う。 だから 是非、ネットを止めないで欲しいな、と思った。


ネットというのはあくまでも現実を打ち破る為のツールであって
叶わぬ現実の代替品では無いはずだと、僕は思う。

現実と向き合っている限り、ネットは心強いツールとして手元に残る様な気がする。

コメント一覧
退会したユーザー   2008年06月19日 22:26
この日記、見られるのぼくだけじゃないですか!こんなにも書いてくださって、ホントにありがとうございます。学校のレポート作成を本日終え、今 Mixiにやって来れたところです。

***

なるほど、と思いました。

おかあつさんは、ネットの利を「体感」なさっているんじゃないかと思います。昔から PC に親しまれていて、インターネットにつながらない「孤独な道具」であったことや、OSがなかったことに不便を感じられていた。その後OSが普及し、JAVA等の可搬性の高い言語が開発され、さらにインターネットに繋がったことで PCは「現実世界への扉」となったそのときを実体験された。

実は、ぼくが気づいたとき、ネットは開通していました(驚)開通前の不便は、書物から知ったのです。Windows 95 についても、それが老兵士となって部屋の片隅に眠っていたのを、高校時代の2000年以降に少しさわって、C言語で遊んでみただけでした。HTMLでホームページをつくるのを気に入って、PCをはじめました。少し経つと、賑やかに動くFlashのコンテンツが現れ、そのとき初めて、感動した覚えがあります。綺麗だな、あんなのつくってみたいなぁ...って。でも、Macromedia Flashって高価だったんですよね...。

>ネットというのは、他人から与えられたコントロールできないもの

苦労の体験がないと、こういう意識になりやすいのかも知れません。これは、黎明期からネットに親しんでいない人や、ぼくみたいな世代の傾向ではないかと思うのです。しかし、これは堕落した意識です。当事者なのに傍観者のようだからです。ぼくは、おかあつさんにご指摘いただいて助かりました。

ぼくの日記についてですが、今後の時期をみて、以上の意識変化の大枠を書き記しておこうと予定しています。マイミクは学校の同級生が多くて、ああいう多感な男の子たちはあのようなタイトルの日記に飛びついてくるようで、アクセス数は異常な数でした。彼ら、たいして読んでないはずですが、あの生兵法的文章を安置することは健全とは思えません。

>1つはソフトウェアの不足だ。 大分マシに成ってきたけど、やっぱりまだ足りない。 1982年に夢の様なことだったことは、いまや簡単に出来る。 しかし、簡単に出来るはずなのに出来ないことって思いのほかたくさんある。

システムが先進的すぎるのか、システムが人にあわないのかは、ぼくには非常に判断が難しいです。けれども、プログラマの視点でおかあつさんが次の箇所をご指摘されているのを読ませていただいて、やはり気鋭のかただなぁと思いました。

>そのシステム設計者がオープンシステムの重要性がわかっていないと、そのシステムは「キラーアプリ」にはなれない。 結局、つぎつぎと出ては消えていくゴミシステムの1つになるだけだ。

ぼくは就職活動を目前にしながら、プログラマーを職業とすることは、根性がいると聞いたことがあります。Mixiの広告等では、Webデザイナーや社内プログラマーが「年収○○万」というのを目にしますが、それで志を伴えるのだろうかと半信半疑にも感じています。苦心しながらWebサイトを数件制作した経験があるので、ぼくは志あるIT業界の人のすごみが分かる気がします。

退会したユーザー   2008年06月19日 22:28
>例えば、日本人はヨーロッパに行くと友達がたくさんできる。 ヨーロッパの友達がたくさんできるのにたいして、日本人同士はどんどん疎遠になっていく。 これはものすごくよく見かける現象だ。 日本人は日本人が嫌いだ。 日本人の面倒くさくて、表面的なコミュニケーション形式にうんざりしている。 だから、日本人同士がなぜか疎遠になってしまう。

世界の大まかなくくりで見ると、日本人の個性のなさは有名らしいですね。文献によると、江戸の鎖国前に日本を訪れた西洋人にも、「なんであんなに非人間的なんだ」と気味悪がられていたそうです。かと思えば、武士は日本刀をちらつかせて闊歩し、西洋人をおびえさせる「サディスト」だったらしいですが...(笑

日本人には礼節があった。だから西洋人は、日本人を「野蛮な東洋人だから」という理由で、他のアジア人みたいに一概に見下さなかったとききます。とはいえ、グローバル化のなかで、古来の礼節(=形式的)では通用しなくなってきている。なのに、儀礼ばかりが残って、芯の弱りきった人は(そういうと失礼かもしれませんが)ほんとうに多いと思います。

>日本人にとって匿名って特別な意味がある。 日本文化はホンネを出す人を子供っぽいと見るからだ。 だから日本人は匿名という隠れ蓑がないとホンネを出すことが出来ない。これは匿名のよい点の一つだ。 しかし、匿名という風になるととたんに悪いことばかりする人も居る。 掲示板の荒らしとかがそうだ。 これは匿名の欠点の1つだ。

これも、芯のない日本人が増えてきた証拠に思えます。


>2008年、パソコンは、現実と直結したツールなのだと思う。 ネットは、現実の殻を打ち破る起爆剤にだってなる。 1982年、パソコンはただのハコでしかなかったが、今は違う。 それだけでなく、パソコンは、何かが違うと感じたら、粘土の様な手軽さで自分の思い通りに直すことすら出来る。 強力な武器だ。

これには、ハッとさせられました。ぼくはネットを変えていける、むしろそうしなければいけないということを感じました。気長に考えていきたく思います。


>これはなんというかくだらない一例かもしれないけど、例えば、僕はネットでかなりの数リアルで女性に出合っている。 これは1982年にはありえなかったことだ。

いやいや、重大なことです。ネットのありがたさを再認識しました。


※気づいたら、2000字以上書いていました。ぐちゃぐちゃの文章ですみません。メッセージをありがとうございました(*^▽^*)ネットは続けます。
 
出展 2008年06月15日23:08 『デジタルプリンさんへ』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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