オタク差別2
2008年06月14日18:18
今日の村上龍のメーリングリストで秋葉原の事件のことに触れられていた。
僕が感じていることとほとんど同じことが書いてあった。
転載しちゃいけないんだろうけど、JMMはホームページで読むことが出来ないし、一度配信されちゃったらもう読むチャンスは無いと思うので、転載しようと思う。 オススメで、絶対登録したほうがいいと思う。
登録は無料で http://ryumurakami.jmm.co.jp/で出来る。
◇
気になった点:
1.
> そうではなくて、社会的背景があっても、それを正当な方法で告発できるはずなのに暴力に走った、だから犯罪を許さない、という論法は立てられないのだろうか? 逆に、多くの人間が心の底で「正当な方法での告発が可能」だということは全く信じておらず、このような暴発を内心不可避だと思っているとしたら、そのこと自体にも問題がある。
この点、中卒である僕には「正当な方法での告発は100%無理だった」と、断言できる経験がある。 日本って滑り台の社会だ。 一度滑り落ちたら二度と登れないような仕組みになってる。 何故無理なのかは経験した人にしか理解できない。 もちろんそれをひとつひとつ経験していない人にもわかるように論理的に説明することも出来る。 だけど、その経験のほとんどは、それを経験した人にしかわからないような、無数の複雑であいまいな不条理さから来ている。
もちろん自分の状況を説明し理解を求める努力というのは常に怠っていなかった。 しかし、日本ではそもそも、理解を求めるという行動自体が失礼に当たる場合が多い。 だから、あまりしつこく理解を求めると、「こいつはまともに付き合う価値がない」という烙印を押されかねない。 そうなってしまうと、それ以降のコミュニケーションに甚大な影響が出てしまうため、可能な限り避ける必要があった。 つまり説明をやめる必要に常に迫られるのだ。
2.
> アニメ好きということが「社会のメインストリーム」から差別される存在であり、それ故の疎外感と反骨精神の交錯する中で独自のプライドを維持している文化だというような複雑性は彼等にはありません。
この言葉は正に正鵠を射抜いている言い方だと思う。 こういう言葉って、日本以外を知っている人にしか出ない言葉だ。 これは意見ではなくて事実だ。 だけど、日本に居るとこれが見えない。いえない。
だって、アニメオタクは、歩いているだけで職務質問される。 下手したらPCの修理道具を持っているだけで逮捕されてしまう。 これでは シャミリオネアの Ridin' Dirty に出てくる黒人と全く変わらない。 これは明らかな差別なのだ。
http://jp.youtube.com/watch?v=8n7ncJEFuSw
アニメオタクはもっと平等についてもっと強く主張しなければいけないと思う。
だけど、日本では、それが無理なのだ。
3.最後の方に「価値観の多様化を形骸化したコミュニケーション様式が支えられないという点」 っていう言葉が出てくるけど、これは凄く上手な言い方だと思う。 正にその通りと思う。
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2008年6月14日発行
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JMM [Japan Mail Media] No.483 Saturday Edition
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http://ryumurakami.jmm.co.jp/
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▼INDEX▼
■ 『from 911/USAレポート』第360回
「アメリカから見たアキハバラ」
■ 冷泉彰彦 :作家(米国ニュージャージー州在住)
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■ 『from 911/USAレポート』第360回
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「アメリカから見たアキハバラ」
アメリカの旅行者にとって、特に電気製品やアニメに興味のある人々にとってはアキハバラというのは特別な場所です。勿論、それは日本に住んでいる人の認識と大きく違うものではありません。ですが、彼等にとっては二つの意味で、日本人以上に「アキハバラ」が輝いて見えるということはあるでしょう。その第一は、とにかく電気製品の「ジェネレーション」が半年から一年先だということです。
デジカメなど基本的に全世界同時発売のはずの製品でも、アメリカでは次世代の製品が並ぶまでリードタイムがあるのですが、日本では「発売日」に店頭では一斉に新製品に変わるということもあって、彼等には「アメリカでは売っていない次世代商品がある」というイメージになっているのです。プラズマや液晶などの薄型TVなどでは、それこそアメリカでは見ることもできない「次の世代の板」が見られるわけで、好きな人にはたまらないようです。とにかく、アメリカにはない「半年から一年先の未来」を見ることができるというわけです。
もう一つ、アニメファンに取っては「こんなに沢山専門店がある」とか「ホンモノの日本のコスプレ」が見られるというようなことで、アメリカから見ても「聖地」になっていると言えるでしょう。しかも、日本とは違って「アニメおたく」というカテゴリに属することに、何の屈折もないのがアメリカ人です。アニメ好きということが「社会のメインストリーム」から差別される存在であり、それ故の疎外感と反骨精神の交錯する中で独自のプライドを維持している文化だというような複雑性は彼等にはありません。ただひたすらに日本のアニメが好きという彼等にとっては、アキハバラは無条件で楽しい場所なのです。
そんなわけですから、先週の日曜日に発生した秋葉原での無差別殺傷事件に関しては、アメリカでは大きく報道されました。時差の関係で同じ8日の日曜日には、各局のニュースでNHKの配信した生々しい映像が流れほぼトップニュース扱いでした。ですが、週明けの翌日月曜日以降は特に「続報」ということはなく、またNYタイムスなどでの扱いも小さかったことから、それほど大きな反響は呼んでいません。結果的に「アキハバラ」のイメージダウンということには、それほどはなっていない、ということは言えると思います。
ですが、私には大変に衝撃的な事件でした。この事件以来、どうしても血に染まった交差点のイメージと、犯人の残した絶望的な同じ進行形のメモが頭から離れないのです。事件の重大性を考えると、アメリカから見ている私のコメントは何らかの形で読者の皆さんにお役に立てるのではないかと思いつつも、どうしても思考がまとまりません。そこで、通常の号のように起承転結(またはそのバリエーション)的にまとまった文面ではなく、メモの羅列、しかも「です、ます」を使って、対象との距離を取りながらお話しするスタイルではなく、直接的な文体での走り書きとなってしまっていることをお許し下さい。
───アメリカでの同種の事件は、高校から大学といった年代の学生の犯行が多いが、日本の場合は何らかの形で社会に出て働き出してからが多い。恐らくアメリカでは「格差と選別」を教育システムの中で見える形で行うのに対して、職業に就いた後はそれぞれの職業について、少なくとも表面的には自分たちも周囲も「誇り」を認める(というお約束の)文化が残っているのかもしれない。日本の場合は、格差と選別の痛みは教育システムの中では隠蔽されているが、社会に出てから全人格の否定につながるようなヒエラルキーシステムに直面することになる。
───勿論、アメリカの場合でも「解雇への逆恨み」という事件は良くあり、少しでも本人の反発が予想されるような場合は、解雇通告や職場からの退去に際して、人事担当者は武装したガードマンと一緒に対処するというような陰鬱な文化がある。解雇された人間は、暴れないにしても、一つの段ボール箱に私物を詰めて誰に挨拶するでもなく職場を去って行く。終身雇用を崩壊させるということは、そうした光景に耐えるだけの「強さ」を「切る側」にも「切られる側」にも要求する。
───長崎市長射殺事件の際には、アメリカの保守派の論客から「日本のように厳格な銃規制をしても事件が起きる」などという暴言があったが、今回の事件も「銃を規制してもナイフがあるじゃないか」というレトリックで、アメリカの保守派に利用されるかもしれない。そう考えると憂鬱になる。それはともかく、ナイフを持つことで精神的に安心するという日本のミリタリーショップに集う若者の心理と、銃の保有権にこだわるアメリカの中西部の保守派の心理はどこかで通じるものがあるのかもしれない。これは日本とアメリカだけの現象なのだろうか? だとすればそれは何故なのだろうか?
───それは、もしかしたらアメリカと日本は「技術革新のフロンティアも、社会全体としての成長神話も」消えてしまった成熟社会だということなのかもしれない。成熟という言葉が曖昧なら、経済が縮小過程に入り、パイの奪い合いが始まっているという感覚、その中で「負けて行く」ことへの恐怖や絶望があるのではないだろうか。仮に日本とアメリカだけということなら、そうとでもしか言う他ない。
───アメリカの「格差社会」を導入したから日本の雇用環境が閉塞したというのは実は間違っている。少なくとも、アメリカの場合は「フルタイム」と「パートタイム」、「直接雇用」と「派遣」の間で、時給換算の給与水準の格差はない。だから「ワークシェリング」という話も現実味がある。ちなみに、アメリカの「派遣」というのは、雇用主が小規模なので「人事関係の事務手続きコスト」が払えないとか、「時々変わっても良いから有能な秘書がコンスタントにいて欲しい、でも採用広告などの一時的なコストは払いたくない」という「ニーズ」に応える形で発達しているものだ。勿論「人件費削減」という動機のものもあるし、逆に「常に技術的に最先端の知識のある人材を(入れ替えながら)維持したい」というものもある。だが、派遣というのはあくまで「ニッチ」であって、全体としては日本と比べれば堂々と直接雇用して、直接雇用の中で格差をつけ、必要なら解雇するという形になっており、派遣や偽装請負を使って人件費逃れをするような慣行はない。日本と比べればもっと冷酷だが、陰湿さはない。
───それにしても、犯人を紹介する際に「25歳の派遣社員」という言い方は何とかならないのだろうか? この男は塗装工であって、派遣うんぬんというのは、契約上の雇用主が契約上の発注者との間で派遣契約を行っているだけのことであって、本人は立派な給与所得者であり、同時にやっていることは塗装工というプロフェッショナルの仕事のはずだ。それでも、社会的に「派遣社員25歳」という紹介がされるのは、月曜日版で水牛健太郎氏が指摘していたように、「身分制」があることの証拠だろう。それにしても、全国に何百万といる「派遣社員」はこうした呼称に対して真剣に怒っても良いのではないか?
───そもそも凶悪な犯行を犯したのだから、その社会的背景を批判するというのは犯人の肩を持つことになるし、犠牲者に対して失礼だ。だから社会的背景を論ずるのは控えよう……そんな「空気」があるようだ。社会的背景に言及しているほとんどのコメントが、自分は犯罪は憎んでいるという断り書きを入れているのがその証拠だ。だが、それは違うのではないか? そうではなくて、社会的背景があっても、それを正当な方法で告発できるはずなのに暴力に走った、だから犯罪を許さない、という論法は立てられないのだろうか? 逆に、多くの人間が心の底で「正当な方法での告発が可能」だということは全く信じておらず、このような暴発を内心不可避だと思っているとしたら、そのこと自体にも問題がある。
───そう言えば、前の内閣で「再チャレンジ」というプロジェクトがあったが、雲散霧消してしまった。プロジェクトの中で出てきた議論はずいぶんと焦点がボケていたが、少なくとも日本は「セカンドチャンス」のない社会だということには、誰も異論はなかったようだ。にもかかわらずプロジェクトが雲散霧消したのはどうしてなのだろう。少なくとも安倍晋三前総理、山本有二前大臣には今回の事件に関して(勿論、犯行を憎むコメントが入るのは当然としても)何らかのコメントを求めても良いのではないか?
───犯人の残したメモ(携帯の掲示板への書き込み)は驚くほど稚拙で気が滅入るが、見過ごせない記述もある。例えば派遣先の社員食堂で、派遣社員は正社員の3割増しの料金を取られるという。ひどい話だが、実は日本の会計制度や税制はそうなっているのだ。企業にとって派遣元というのは、仕入れ先であって、派遣されてくる人間は取引先の人間なのだ。そうした人間に、原価割れした値段で社食の食事を出したら損した部分は「福利厚生費」ではなく「交際費」になってしまう。税法上もそうだし、商法上もダラダラ交際費として出していたら背任になりかねない。露骨に「コストダウンのために派遣に切り替えた」というだけでなく、法制度がそうした差別を後押ししているのだ。少なくとも「共に働く仲間」への処遇ではない。しかも支払い能力は派遣社員の方が正社員より格段に劣るのだ。
───人員整理を企業側から通告されて不安になり、結果的に自分は契約延長になったものの、そのリストラ問題が精神を不安定にしたというが、派遣先が人員整理を通告するのは契約先の派遣元であって、本人に対しては派遣元が説明するのが筋だし、不安があるなら相談に乗るのも派遣元の会社の責任だろう。派遣先が自分たちで直接リストラの通告を行うというのは、人事権を行使している、つまり直接雇用の関係があると言われてもおかしくないのではないだろうか? そのくせ事件に対して「派遣元の会社に対して一層の管理を求める」という声明を出しているというのは理不尽ではないのか。
───自分の作業着が消えているのを解雇されたと誤解して感情的になったというような報道があるが、もしかしたら本当に誰かがイタズラしたということならば、契約解除の対象になった人間が、継続になった犯人に対して悪さをしたという方が自然ではないだろうか? 仮にそうだとして、にもかかわらず自分が解雇されるというような被害妄想に至ったのは、本人の特質というよりも、派遣先が派遣社員を「切る」ということのやり方、特に伝え方に、どうしようもない無神経さがあったということが考えられる。
───そもそも、労働三権「団結権、団体交渉権、団体行動権」というのは、人類が多くの悲惨な流血の結果獲得した天賦人権の一種のはずだ。その行使は、決して社会主義ではなく、資本主義の枠内、自由競争経済の枠内での一方の立場である労働者の誇りを保証し、使用者の暴走を抑制する社会インフラとして機能しなくてはならないはずだ。それがこうした派遣労働の現場では全く機能しないというのは異常だ。この犯人は労働三権など知らなかったのではないだろうか。
───労働者の権利主張は既得権に守られた労働貴族を生む、生産性も損ない結果的に全体が負けていくことになる、まして労働者中心の政権を作れば激しいまでの言論統制と独裁に陥るのがオチだ……20世紀の歴史はそうしたエピソードを残した。だからといって、一方的に雇用者の論理が大手を振って歩き回るのでは社会は安定しない。例えばヨーロッパに見られるような、労働三権を血肉化しつつ活力ある産業社会が(多くの問題はあるにせよ)維持されている現実をよく見るべきではないか? 少なくとも、日本、アメリカ、中国で現在行われていることは人類の歴史の上ではたいへんに異常な事態なのではないか?
───それにしても、七名の命が奪われた交差点(厳密に言えば全員が交差点内ではないが)だが、翌日からは片隅の歩道の上にテント張りの献花台が設置されただけで、何もなかったかのように多くの車が「その上」を通るというのは、交通の要衝だというのは分かるが、何ともやりきれない。秋葉原というコミュニティ全体での追悼式をちゃんとやって、その上で秋葉原として元気を出して行こうというような動きはないのだろうか。電子部品を売っているラジオセンターの「おばちゃん」達と、コスプレの扮装をした若者達が一緒になって「がんばろう秋葉原」というわけには行かないのだろうか? そうした「連帯」が模倣犯を阻止するのには最も効果的ではないか?
───そうではなくて、やたらに警察官だけが目立っているようだと(警察当局としての必死の努力には敬意を表さざるを得ないのだが)、町は沈滞してしまうのではないか。例えば、麻生前幹事長なども、13日になってやっと献花所に姿を現したが、何か、秋葉原を応援する具体的なメッセージを期待したい。アニメ文化の底流にある反骨や自立の精神を大事にしながら、安全や治安ということの意識を高めつつ、犯罪を憎みつつも格差の問題にも目をそむけず、というようなメッセージを出すのは実は難しい。だが、この人にはそれを期待しても良いのではないか?
───犠牲者一人一人の通夜が全くバラバラというのもやり切れない。少なくとも秋葉原を愛して悲劇に巻き込まれた人々なのだから、何らかの「まとまり」としての追悼はできないのだろうか? 個別の犠牲者への追悼報道にも差がある。就職の決まっていた前途洋々の学生は大きく取り上げられ、地味な勤め人や「無職」というカテゴリの人は無視される。勿論、家族が報道を望まないということもあるのだろうが、とにかく亡くなった人々の命が平等であり、平等に取り返しがつかないということを社会として演出しきれなくてはダメだ。そのような毅然とした姿勢でなくては、犯人に「どうせこの国は格差社会じゃないか……」という言い訳をいつまでも持たせることになり、自分の行ったことの重さに向かい合わせることはできないだろう。
───自分の行ってしまった取り返しのつかないこと、その事実に向かい合わせることが最大の刑罰なのではないか? 奇しくも7年前に大阪の小学校で多くの生徒が刺殺された事件があったが、あの犯人の場合は元来がそうした事実に向かい合うだけの「強さ」を全く持ち合わせていない人間だった。その弱さを許し、希望のままにサッサと処刑してしまうというのは甘すぎたのではないだろうか。今回の事件の犯人は、もう少し「力」が残っている人間のように見える。何としても自分の行ったことの重さに向かい合わせなくてはならない。
───仮にこの犯人が自分の行ったことの重さになかなか向かい合えないとして、死刑宣告という最終的な手段によって初めて自分の罪に向かい合うことができるのであれば、そして悔悟と犠牲者への追悼の時間が死刑の確定と言うことによって限りのあることとなり、その結果として辛うじてこの犯人が真剣な悔悟と追悼の時間を持てるのであれば、死刑という刑罰の効果も認めざるを得ないだろう。勿論、法の審判は、犯罪の背景や具体的な状況に関しての捜査や審理を経ての決定になるのだし、そもそも私は死刑制度には慎重な人間だが、今回の事件で失われたものの大きさを考えるとそう思う。
───ただ、死刑制度がそのような効果を持つためには、例えば刑務官に一流の人物を配して、しかも刑務官の仕事を社会が尊敬するということも必要だ。そうではなくて、刑務官が社会から蔑まれ、その結果として刑務官の質やモラルが下がり、受刑者への暴行が起きるようでは、制度全体が機能しなくなる。そういえば、自分は死刑判決の責任が持てないから裁判員になりたくないという心情が大手を振って紹介されているが、そもそも最高裁判事の国民審査でバツをつけず、その結果として信任された判事が司法権の頂点に立って死刑判決を出しているのだから、既に有権者は多くの死刑判決への責任があるのではないか。
───別の事件の関連だが、死刑制度に反対すると称して、犯罪を犯した人間に関して相当に無理な弁護活動を行って非難された弁護士がいた。だが、よく考えるとこれは論理矛盾だ。死刑制度に反対だという「イデオロギー」があるのなら、犯罪を正当に裁いて、犯人に十分に罪を認めさせ、その上で最高刑に処する、その最高刑が極刑ではないような制度にしよう、そうした主張をするのなら分かる。だが、死刑に反対だから、現行刑法では死刑になるような犯罪者でも、あの手この手で救済しようというのは、筋が通らない。結果論として個別の死刑を防止することにはなっても、法律家として理論的な行為ではない。
───何らかの社会的な背景があって、それゆえに起きた殺人事件という場合、その罪を憎む人間は社会的背景への視点を無視しがちであり、社会的な問題を重視する人間はその罪を軽視しがちになる、こうしたケースはアメリカでは山のようにある。そこに銃のからむアメリカでは、それこそ人種や格差の問題の介在する殺人事件での犠牲者は多いが、多くの場合議論は真っ二つに割れる。被害者に同情する人間と加害者に同情する人間がどんどん対立すると、社会は痛々しいほど分裂してしまうのだ。OJシンプソン裁判が良い例で、今でも黒人の大多数が無罪だと信じる一方で白人の過半は有罪だと思っているし、それぞれの深層心理は深く屈折している。仮にオバマが大統領になるようであれば、そうした分裂に変化が起きるだろうか? 分からないが、注目に値する問題だ。
───そうしたアメリカのケースと比較すると、今回の日本の事件における社会の反応はまだバランスが取れているとも言えるだろう。犯人を確保した警官には勇気が感じられたし、その警察が模倣犯の阻止に必死の仕事を進める一方で、舛添厚労相など逃げ隠れせずに派遣制度の問題に目を向ける閣僚もいるというのは、日本の政府も捨てたものではない。勿論、全く合格点ではないが、分裂したアメリカ社会と比べればまだ救いを感じる。とは言っても、日本社会の方が、価値観の多様化を形骸化したコミュニケーション様式が支えられないという点、成長神話の消えた成熟社会という点など、背負っているものは余りにも重い。
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冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)作家。ニュージャージー州在住。1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。著書に『9・11 あの日からアメリカ人の心はどう変わったか』『メジャーリーグの愛され方』。訳書に『チャター』がある。最新刊『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)
<http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061498444/jmm05-22>
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> そうではなくて、社会的背景があっても、それを正当な方法で告発できるはずなのに暴力に走った、だから犯罪を許さない、という論法は立てられないのだろうか? 逆に、多くの人間が心の底で「正当な方法での告発が可能」だということは全く信じておらず、このような暴発を内心不可避だと思っているとしたら、そのこと自体にも問題がある。
この点、中卒である僕には「正当な方法での告発は100%無理だった」と、断言できる経験がある。 日本って滑り台の社会だ。 一度滑り落ちたら二度と登れないような仕組みになってる。 何故無理なのかは経験した人にしか理解できない。 もちろんそれをひとつひとつ経験していない人にもわかるように論理的に説明することも出来る。 だけど、その経験のほとんどは、それを経験した人にしかわからないような、無数の複雑であいまいな不条理さから来ている。
もちろん自分の状況を説明し理解を求める努力というのは常に怠っていなかった。 しかし、日本ではそもそも、理解を求めるという行動自体が失礼に当たる場合が多い。 だから、あまりしつこく理解を求めると、「こいつはまともに付き合う価値がない」という烙印を押されかねない。 そうなってしまうと、それ以降のコミュニケーションに甚大な影響が出てしまうため、可能な限り避ける必要があった。 つまり説明をやめる必要に常に迫られるのだ。
2.
> アニメ好きということが「社会のメインストリーム」から差別される存在であり、それ故の疎外感と反骨精神の交錯する中で独自のプライドを維持している文化だというような複雑性は彼等にはありません。
この言葉は正に正鵠を射抜いている言い方だと思う。 こういう言葉って、日本以外を知っている人にしか出ない言葉だ。 これは意見ではなくて事実だ。 だけど、日本に居るとこれが見えない。いえない。
だって、アニメオタクは、歩いているだけで職務質問される。 下手したらPCの修理道具を持っているだけで逮捕されてしまう。 これでは シャミリオネアの Ridin' Dirty に出てくる黒人と全く変わらない。 これは明らかな差別なのだ。
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アニメオタクはもっと平等についてもっと強く主張しなければいけないと思う。
だけど、日本では、それが無理なのだ。
3.最後の方に「価値観の多様化を形骸化したコミュニケーション様式が支えられないという点」 っていう言葉が出てくるけど、これは凄く上手な言い方だと思う。 正にその通りと思う。
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「アメリカから見たアキハバラ」
■ 冷泉彰彦 :作家(米国ニュージャージー州在住)
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■ 『from 911/USAレポート』第360回
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「アメリカから見たアキハバラ」
アメリカの旅行者にとって、特に電気製品やアニメに興味のある人々にとってはアキハバラというのは特別な場所です。勿論、それは日本に住んでいる人の認識と大きく違うものではありません。ですが、彼等にとっては二つの意味で、日本人以上に「アキハバラ」が輝いて見えるということはあるでしょう。その第一は、とにかく電気製品の「ジェネレーション」が半年から一年先だということです。
デジカメなど基本的に全世界同時発売のはずの製品でも、アメリカでは次世代の製品が並ぶまでリードタイムがあるのですが、日本では「発売日」に店頭では一斉に新製品に変わるということもあって、彼等には「アメリカでは売っていない次世代商品がある」というイメージになっているのです。プラズマや液晶などの薄型TVなどでは、それこそアメリカでは見ることもできない「次の世代の板」が見られるわけで、好きな人にはたまらないようです。とにかく、アメリカにはない「半年から一年先の未来」を見ることができるというわけです。
もう一つ、アニメファンに取っては「こんなに沢山専門店がある」とか「ホンモノの日本のコスプレ」が見られるというようなことで、アメリカから見ても「聖地」になっていると言えるでしょう。しかも、日本とは違って「アニメおたく」というカテゴリに属することに、何の屈折もないのがアメリカ人です。アニメ好きということが「社会のメインストリーム」から差別される存在であり、それ故の疎外感と反骨精神の交錯する中で独自のプライドを維持している文化だというような複雑性は彼等にはありません。ただひたすらに日本のアニメが好きという彼等にとっては、アキハバラは無条件で楽しい場所なのです。
そんなわけですから、先週の日曜日に発生した秋葉原での無差別殺傷事件に関しては、アメリカでは大きく報道されました。時差の関係で同じ8日の日曜日には、各局のニュースでNHKの配信した生々しい映像が流れほぼトップニュース扱いでした。ですが、週明けの翌日月曜日以降は特に「続報」ということはなく、またNYタイムスなどでの扱いも小さかったことから、それほど大きな反響は呼んでいません。結果的に「アキハバラ」のイメージダウンということには、それほどはなっていない、ということは言えると思います。
ですが、私には大変に衝撃的な事件でした。この事件以来、どうしても血に染まった交差点のイメージと、犯人の残した絶望的な同じ進行形のメモが頭から離れないのです。事件の重大性を考えると、アメリカから見ている私のコメントは何らかの形で読者の皆さんにお役に立てるのではないかと思いつつも、どうしても思考がまとまりません。そこで、通常の号のように起承転結(またはそのバリエーション)的にまとまった文面ではなく、メモの羅列、しかも「です、ます」を使って、対象との距離を取りながらお話しするスタイルではなく、直接的な文体での走り書きとなってしまっていることをお許し下さい。
───アメリカでの同種の事件は、高校から大学といった年代の学生の犯行が多いが、日本の場合は何らかの形で社会に出て働き出してからが多い。恐らくアメリカでは「格差と選別」を教育システムの中で見える形で行うのに対して、職業に就いた後はそれぞれの職業について、少なくとも表面的には自分たちも周囲も「誇り」を認める(というお約束の)文化が残っているのかもしれない。日本の場合は、格差と選別の痛みは教育システムの中では隠蔽されているが、社会に出てから全人格の否定につながるようなヒエラルキーシステムに直面することになる。
───勿論、アメリカの場合でも「解雇への逆恨み」という事件は良くあり、少しでも本人の反発が予想されるような場合は、解雇通告や職場からの退去に際して、人事担当者は武装したガードマンと一緒に対処するというような陰鬱な文化がある。解雇された人間は、暴れないにしても、一つの段ボール箱に私物を詰めて誰に挨拶するでもなく職場を去って行く。終身雇用を崩壊させるということは、そうした光景に耐えるだけの「強さ」を「切る側」にも「切られる側」にも要求する。
───長崎市長射殺事件の際には、アメリカの保守派の論客から「日本のように厳格な銃規制をしても事件が起きる」などという暴言があったが、今回の事件も「銃を規制してもナイフがあるじゃないか」というレトリックで、アメリカの保守派に利用されるかもしれない。そう考えると憂鬱になる。それはともかく、ナイフを持つことで精神的に安心するという日本のミリタリーショップに集う若者の心理と、銃の保有権にこだわるアメリカの中西部の保守派の心理はどこかで通じるものがあるのかもしれない。これは日本とアメリカだけの現象なのだろうか? だとすればそれは何故なのだろうか?
───それは、もしかしたらアメリカと日本は「技術革新のフロンティアも、社会全体としての成長神話も」消えてしまった成熟社会だということなのかもしれない。成熟という言葉が曖昧なら、経済が縮小過程に入り、パイの奪い合いが始まっているという感覚、その中で「負けて行く」ことへの恐怖や絶望があるのではないだろうか。仮に日本とアメリカだけということなら、そうとでもしか言う他ない。
───アメリカの「格差社会」を導入したから日本の雇用環境が閉塞したというのは実は間違っている。少なくとも、アメリカの場合は「フルタイム」と「パートタイム」、「直接雇用」と「派遣」の間で、時給換算の給与水準の格差はない。だから「ワークシェリング」という話も現実味がある。ちなみに、アメリカの「派遣」というのは、雇用主が小規模なので「人事関係の事務手続きコスト」が払えないとか、「時々変わっても良いから有能な秘書がコンスタントにいて欲しい、でも採用広告などの一時的なコストは払いたくない」という「ニーズ」に応える形で発達しているものだ。勿論「人件費削減」という動機のものもあるし、逆に「常に技術的に最先端の知識のある人材を(入れ替えながら)維持したい」というものもある。だが、派遣というのはあくまで「ニッチ」であって、全体としては日本と比べれば堂々と直接雇用して、直接雇用の中で格差をつけ、必要なら解雇するという形になっており、派遣や偽装請負を使って人件費逃れをするような慣行はない。日本と比べればもっと冷酷だが、陰湿さはない。
───それにしても、犯人を紹介する際に「25歳の派遣社員」という言い方は何とかならないのだろうか? この男は塗装工であって、派遣うんぬんというのは、契約上の雇用主が契約上の発注者との間で派遣契約を行っているだけのことであって、本人は立派な給与所得者であり、同時にやっていることは塗装工というプロフェッショナルの仕事のはずだ。それでも、社会的に「派遣社員25歳」という紹介がされるのは、月曜日版で水牛健太郎氏が指摘していたように、「身分制」があることの証拠だろう。それにしても、全国に何百万といる「派遣社員」はこうした呼称に対して真剣に怒っても良いのではないか?
───そもそも凶悪な犯行を犯したのだから、その社会的背景を批判するというのは犯人の肩を持つことになるし、犠牲者に対して失礼だ。だから社会的背景を論ずるのは控えよう……そんな「空気」があるようだ。社会的背景に言及しているほとんどのコメントが、自分は犯罪は憎んでいるという断り書きを入れているのがその証拠だ。だが、それは違うのではないか? そうではなくて、社会的背景があっても、それを正当な方法で告発できるはずなのに暴力に走った、だから犯罪を許さない、という論法は立てられないのだろうか? 逆に、多くの人間が心の底で「正当な方法での告発が可能」だということは全く信じておらず、このような暴発を内心不可避だと思っているとしたら、そのこと自体にも問題がある。
───そう言えば、前の内閣で「再チャレンジ」というプロジェクトがあったが、雲散霧消してしまった。プロジェクトの中で出てきた議論はずいぶんと焦点がボケていたが、少なくとも日本は「セカンドチャンス」のない社会だということには、誰も異論はなかったようだ。にもかかわらずプロジェクトが雲散霧消したのはどうしてなのだろう。少なくとも安倍晋三前総理、山本有二前大臣には今回の事件に関して(勿論、犯行を憎むコメントが入るのは当然としても)何らかのコメントを求めても良いのではないか?
───犯人の残したメモ(携帯の掲示板への書き込み)は驚くほど稚拙で気が滅入るが、見過ごせない記述もある。例えば派遣先の社員食堂で、派遣社員は正社員の3割増しの料金を取られるという。ひどい話だが、実は日本の会計制度や税制はそうなっているのだ。企業にとって派遣元というのは、仕入れ先であって、派遣されてくる人間は取引先の人間なのだ。そうした人間に、原価割れした値段で社食の食事を出したら損した部分は「福利厚生費」ではなく「交際費」になってしまう。税法上もそうだし、商法上もダラダラ交際費として出していたら背任になりかねない。露骨に「コストダウンのために派遣に切り替えた」というだけでなく、法制度がそうした差別を後押ししているのだ。少なくとも「共に働く仲間」への処遇ではない。しかも支払い能力は派遣社員の方が正社員より格段に劣るのだ。
───人員整理を企業側から通告されて不安になり、結果的に自分は契約延長になったものの、そのリストラ問題が精神を不安定にしたというが、派遣先が人員整理を通告するのは契約先の派遣元であって、本人に対しては派遣元が説明するのが筋だし、不安があるなら相談に乗るのも派遣元の会社の責任だろう。派遣先が自分たちで直接リストラの通告を行うというのは、人事権を行使している、つまり直接雇用の関係があると言われてもおかしくないのではないだろうか? そのくせ事件に対して「派遣元の会社に対して一層の管理を求める」という声明を出しているというのは理不尽ではないのか。
───自分の作業着が消えているのを解雇されたと誤解して感情的になったというような報道があるが、もしかしたら本当に誰かがイタズラしたということならば、契約解除の対象になった人間が、継続になった犯人に対して悪さをしたという方が自然ではないだろうか? 仮にそうだとして、にもかかわらず自分が解雇されるというような被害妄想に至ったのは、本人の特質というよりも、派遣先が派遣社員を「切る」ということのやり方、特に伝え方に、どうしようもない無神経さがあったということが考えられる。
───そもそも、労働三権「団結権、団体交渉権、団体行動権」というのは、人類が多くの悲惨な流血の結果獲得した天賦人権の一種のはずだ。その行使は、決して社会主義ではなく、資本主義の枠内、自由競争経済の枠内での一方の立場である労働者の誇りを保証し、使用者の暴走を抑制する社会インフラとして機能しなくてはならないはずだ。それがこうした派遣労働の現場では全く機能しないというのは異常だ。この犯人は労働三権など知らなかったのではないだろうか。
───労働者の権利主張は既得権に守られた労働貴族を生む、生産性も損ない結果的に全体が負けていくことになる、まして労働者中心の政権を作れば激しいまでの言論統制と独裁に陥るのがオチだ……20世紀の歴史はそうしたエピソードを残した。だからといって、一方的に雇用者の論理が大手を振って歩き回るのでは社会は安定しない。例えばヨーロッパに見られるような、労働三権を血肉化しつつ活力ある産業社会が(多くの問題はあるにせよ)維持されている現実をよく見るべきではないか? 少なくとも、日本、アメリカ、中国で現在行われていることは人類の歴史の上ではたいへんに異常な事態なのではないか?
───それにしても、七名の命が奪われた交差点(厳密に言えば全員が交差点内ではないが)だが、翌日からは片隅の歩道の上にテント張りの献花台が設置されただけで、何もなかったかのように多くの車が「その上」を通るというのは、交通の要衝だというのは分かるが、何ともやりきれない。秋葉原というコミュニティ全体での追悼式をちゃんとやって、その上で秋葉原として元気を出して行こうというような動きはないのだろうか。電子部品を売っているラジオセンターの「おばちゃん」達と、コスプレの扮装をした若者達が一緒になって「がんばろう秋葉原」というわけには行かないのだろうか? そうした「連帯」が模倣犯を阻止するのには最も効果的ではないか?
───そうではなくて、やたらに警察官だけが目立っているようだと(警察当局としての必死の努力には敬意を表さざるを得ないのだが)、町は沈滞してしまうのではないか。例えば、麻生前幹事長なども、13日になってやっと献花所に姿を現したが、何か、秋葉原を応援する具体的なメッセージを期待したい。アニメ文化の底流にある反骨や自立の精神を大事にしながら、安全や治安ということの意識を高めつつ、犯罪を憎みつつも格差の問題にも目をそむけず、というようなメッセージを出すのは実は難しい。だが、この人にはそれを期待しても良いのではないか?
───犠牲者一人一人の通夜が全くバラバラというのもやり切れない。少なくとも秋葉原を愛して悲劇に巻き込まれた人々なのだから、何らかの「まとまり」としての追悼はできないのだろうか? 個別の犠牲者への追悼報道にも差がある。就職の決まっていた前途洋々の学生は大きく取り上げられ、地味な勤め人や「無職」というカテゴリの人は無視される。勿論、家族が報道を望まないということもあるのだろうが、とにかく亡くなった人々の命が平等であり、平等に取り返しがつかないということを社会として演出しきれなくてはダメだ。そのような毅然とした姿勢でなくては、犯人に「どうせこの国は格差社会じゃないか……」という言い訳をいつまでも持たせることになり、自分の行ったことの重さに向かい合わせることはできないだろう。
───自分の行ってしまった取り返しのつかないこと、その事実に向かい合わせることが最大の刑罰なのではないか? 奇しくも7年前に大阪の小学校で多くの生徒が刺殺された事件があったが、あの犯人の場合は元来がそうした事実に向かい合うだけの「強さ」を全く持ち合わせていない人間だった。その弱さを許し、希望のままにサッサと処刑してしまうというのは甘すぎたのではないだろうか。今回の事件の犯人は、もう少し「力」が残っている人間のように見える。何としても自分の行ったことの重さに向かい合わせなくてはならない。
───仮にこの犯人が自分の行ったことの重さになかなか向かい合えないとして、死刑宣告という最終的な手段によって初めて自分の罪に向かい合うことができるのであれば、そして悔悟と犠牲者への追悼の時間が死刑の確定と言うことによって限りのあることとなり、その結果として辛うじてこの犯人が真剣な悔悟と追悼の時間を持てるのであれば、死刑という刑罰の効果も認めざるを得ないだろう。勿論、法の審判は、犯罪の背景や具体的な状況に関しての捜査や審理を経ての決定になるのだし、そもそも私は死刑制度には慎重な人間だが、今回の事件で失われたものの大きさを考えるとそう思う。
───ただ、死刑制度がそのような効果を持つためには、例えば刑務官に一流の人物を配して、しかも刑務官の仕事を社会が尊敬するということも必要だ。そうではなくて、刑務官が社会から蔑まれ、その結果として刑務官の質やモラルが下がり、受刑者への暴行が起きるようでは、制度全体が機能しなくなる。そういえば、自分は死刑判決の責任が持てないから裁判員になりたくないという心情が大手を振って紹介されているが、そもそも最高裁判事の国民審査でバツをつけず、その結果として信任された判事が司法権の頂点に立って死刑判決を出しているのだから、既に有権者は多くの死刑判決への責任があるのではないか。
───別の事件の関連だが、死刑制度に反対すると称して、犯罪を犯した人間に関して相当に無理な弁護活動を行って非難された弁護士がいた。だが、よく考えるとこれは論理矛盾だ。死刑制度に反対だという「イデオロギー」があるのなら、犯罪を正当に裁いて、犯人に十分に罪を認めさせ、その上で最高刑に処する、その最高刑が極刑ではないような制度にしよう、そうした主張をするのなら分かる。だが、死刑に反対だから、現行刑法では死刑になるような犯罪者でも、あの手この手で救済しようというのは、筋が通らない。結果論として個別の死刑を防止することにはなっても、法律家として理論的な行為ではない。
───何らかの社会的な背景があって、それゆえに起きた殺人事件という場合、その罪を憎む人間は社会的背景への視点を無視しがちであり、社会的な問題を重視する人間はその罪を軽視しがちになる、こうしたケースはアメリカでは山のようにある。そこに銃のからむアメリカでは、それこそ人種や格差の問題の介在する殺人事件での犠牲者は多いが、多くの場合議論は真っ二つに割れる。被害者に同情する人間と加害者に同情する人間がどんどん対立すると、社会は痛々しいほど分裂してしまうのだ。OJシンプソン裁判が良い例で、今でも黒人の大多数が無罪だと信じる一方で白人の過半は有罪だと思っているし、それぞれの深層心理は深く屈折している。仮にオバマが大統領になるようであれば、そうした分裂に変化が起きるだろうか? 分からないが、注目に値する問題だ。
───そうしたアメリカのケースと比較すると、今回の日本の事件における社会の反応はまだバランスが取れているとも言えるだろう。犯人を確保した警官には勇気が感じられたし、その警察が模倣犯の阻止に必死の仕事を進める一方で、舛添厚労相など逃げ隠れせずに派遣制度の問題に目を向ける閣僚もいるというのは、日本の政府も捨てたものではない。勿論、全く合格点ではないが、分裂したアメリカ社会と比べればまだ救いを感じる。とは言っても、日本社会の方が、価値観の多様化を形骸化したコミュニケーション様式が支えられないという点、成長神話の消えた成熟社会という点など、背負っているものは余りにも重い。
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冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)作家。ニュージャージー州在住。1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。著書に『9・11 あの日からアメリカ人の心はどう変わったか』『メジャーリーグの愛され方』。訳書に『チャター』がある。最新刊『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)
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コメント一覧
ゆきぼん 2008年06月14日 21:10
さっそく登録しました。
いろいろ考える機会をもらえそうで興味深いです。
いろいろ考える機会をもらえそうで興味深いです。
bobcat 2008年06月15日 10:15
いま気がついたんやけど…
ヲタク文化って大企業(電機メーカー)やら昔からのメディア(TV・新聞・レコード会社・広告代理店・カスラック)やらが儲からへんよね?
アキバにしろ、ミクにしろ…ネットの個人のニュースサイトにしろ
マスゴミがネットやらへん人あおって、ヲタクやらネット住人をたたくのはそのせいではないかと?
昔のメディアだけに戻して、目・耳・口をふさぐようにしてしまえば
政府もやりやすいでしょうし…
PSE法問題がほとんど報道されなかったことからも、それがわかるように思いますにゃ。
ヲタク文化って大企業(電機メーカー)やら昔からのメディア(TV・新聞・レコード会社・広告代理店・カスラック)やらが儲からへんよね?
アキバにしろ、ミクにしろ…ネットの個人のニュースサイトにしろ
マスゴミがネットやらへん人あおって、ヲタクやらネット住人をたたくのはそのせいではないかと?
昔のメディアだけに戻して、目・耳・口をふさぐようにしてしまえば
政府もやりやすいでしょうし…
PSE法問題がほとんど報道されなかったことからも、それがわかるように思いますにゃ。