【長文】他人とは永遠に理解できない物である国
2008年05月31日00:04
2008年05月28日
久しぶりに最近考えたことをまとめてみました。
ちょっと長いのですが、もしよかったら読んでください。
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他人とは永遠に理解できない物である国
最近よく思う。 日本人って日本人同士なのに、外人と話しているみたいに、理解しあえなくなってしまうんじゃないか。
普通、自分の国同士の人であれば、当然、相手のこともよくわかるし、相手も自分が言うことがよくわかる。 しかし、相手が外人だと、相手の文化風習・考え方がわからなくて、何を考えているのか察しが付かなかったり、相手にも自分が感じていることが伝わらない。 だからすごくストレスがたまる。
日本は島国で、あまり外人と話す機会は無いけど、普通の国は島国じゃないので、外人というのはわりとありふれた存在だ。 だから、そういうわからない・わかってもらえないストレスに遭遇することは多い。
だからこそ、そういう国に居る人たちは、そういう異文化交流ストレスにどうやって対処すべきなのかも割りとよくわかっている。 対処方法は案外簡単だ。 自分の感じていることを逐一説明し、相手の言うことによく耳を傾ける。 たった、それだけのことなのだけど、あまりストレスを感じなくなる。
またそういう国にいる人たちは、それ以上に、お互いに、相手がわからないことも、相手にわかってもらえないことも経験したことがある。 だからこそ、わかってもらえない人の気持ちもわかるし、わからなくてつらい人の気持ちもわかる。
◇
日本人って本当に異文化交流が苦手だ。 でもこれはある意味仕方がない。 普段文化的に異なる人たちと触れ合う機会が少なすぎるので、経験が圧倒的に不足しているからだ。
僕はタイにしばらく住んでいて、タイ語が話せるようになった。 そういう立場から、タイにいる外国人を見ていると、いつもいつも、日本人だけ、凄まじい感覚のずれ方をしているのが、いつも気になる。 浮きまくり、ズレまくりなのに、その人たちは「タイに染まったなぁ」とか「いやぁタイ化しちゃって大変よ!」 「タイ人と見分けがつかない」とか、決まったように同じ言葉を発する。 この感覚のズレって凄まじい。
タイ人はそんなこと微塵も思ってない。 ひとめで日本人と見抜いている。 タイ語上手いなんて微塵も思ってないくせに「あらータイ語じょうずねー」なんて おべんちゃらも使う。 タイ人って タイ語で「パクワーンコンプリアオ(口は甘く尻は酸っぱい)」っていうけど、京都の人みたいに優しい口調で、言っていることはキツイ。 口が悪い。 だけど、日本人は、そういう二面性をまったく見抜けないばかりでなく、そういう世界があるということすら想像できなくて 「いやぁタイ人と見分けが付かない」と豪語してはばからない。 このアホさ加減は、凄まじいものがある。
本当は、そこに、きちんとしたコミュニケーションがあるべきだ。 というか陸続きの国ではみんな多少なりともそういう作業を行う。 言葉も違う、文化も考え方も違う、ノリもセンスも違う、という中で話し合って、相手に興味を持って説明を求め、相手に自分の文化を説明していく。 そういう作業の中で、自分がいかに浮いているのか、相手がどうやって引いているのかを感じ取っていくことができる。 そういう感覚の中で、自分の行動をちょっとずつ修正して、馴染んでいくことができる。
日本人は、こういう行動が苦手だ。 慣れが無い。 決定的に経験が足りない。
でも、僕はそれ以上に、何か根本的な欠点を感じる。
◇
ある日本人の友達が「他人とは永遠に理解できない存在だ」って言っていたことがあった。 これは別に初耳でもないし、日本に居ればよく聞く言葉だ。 誰かが悲しんでいる。 何故悲しんでいるのかは、本人しかわからない。 誰かが怒っている。 何故怒っているのかは本人しかわからない。 それをわかったと思うのは思い上がりだ。 「あなたにわたしの気持ちがわかってたまるか!」なんていい方もある。
本当にそうだろうか。 違う。 そんなことはない。 僕は、単純に、客観的な事実として「他人とは永遠に理解できない存在」という言葉が真実でないことを知っている。 だって、もし、他人が永遠に理解できない存在であれば、異文化交流という物が、そもそも成り立たないはずだ。 しかし、世の中に異文化交流に長けている人は、たくさん居る。
国によっては、ひとつの国内に3~4つの公用語がある国もある。 こういう国では、日常生活にすら異文化交流スキルが必要だ。 つまり、異文化交流が出来ない人は、いい進学もいい就職も得られない。 そういう国では得手不得手はあってもほとんど誰でも異文化交流スキルを持っている。 つまり、工夫次第で他人を理解することができるということは 「できるよ!」「できないよ!」という討論のレベルをとっくに過ぎて、誰でも知っている常識であり、異論の余地がない事実だ。
その作業とは、自分とは育った街はおろか、国も違う、言葉も違う、風習も違う、全く異質な相手に対して、自分との違いをひとつひとつ明らかにしていくことだ。 こうして、相手をよく知るだけでなく、自分には見えない自分自身の特殊性が白昼の元にさらされることになる。
この作業を踏めば、誰であっても、また相手が誰であっても、他者の感じ方を理解することが出来る。 確かに同国人の様に理解するのは難しいが、相手に違和感を与えない程度に理解することはさほど困難ではない。
しかし、日本では「他人とは永遠に理解できない存在」 という言葉は、ほとんど、常識の様に根付いているように僕は思う。 これは、凄いことだと僕は思う。 「他人とは永遠に理解できない存在」という言葉は、ある意味、相手を理解する作業はおろか、相手を理解するという意欲の全て放棄してしまっており、凄まじい。
確かに、日本で「他人とは永遠に理解できない存在」 という意見に対して異論を唱えて貫き通すのは、相当しんどい。 これは事実だ。
「私はこう思います。なぜならばこれこれこうだからです。」
「キミは何故そんなに自己主張が強いのかね?」
「何故、そういうことしたの?」
「何でそうやってしつこく何でも聞くの?」
「僕はこう思うんだけど、そうじゃないの?」
「何で私のことわかったような口を聞くの?あなた何もわかってない」
「僕はそれは間違っていると思います。何故ならば...」
「何でキミはいつもそうやってケンカ腰なのかね!」
「いや、これは討論でこうやって話し合うことで理解を深めるのが大切なんです。」
「キミは口うるさい」
日本人は、相手が自分のことを知らない、という状態自体を極度に嫌う。 でも経験も共にしておらず、説明もしていない相手に対してこれを求めるということは、理不尽なことだ。 いくら日本人同士とはいえ、出身も世代も違えば、考え方も話し方も違う。 こういう中で、何も言わずに理解することを求めるというのは、無理がある。 絶対に不可能なのだ。
そんななか、日本人は、コミュニケーションを成立させるため、相手に共通点にを求める。 同じ学校 同じ県出身・同じ郷土・同じ車・同じ服・同じ方言... しかし、これだけ多様化して急速に発展した近代の日本では、新たに出会う人との共通点を探し出すのは、もはや不可能にちかい。
にもかかわらず、相手との違いを明らかにする非島国的コミュニケーション方法を取ろうとすると、往々にして、波風が立つ。 相手に悪印象を与えてしまう。 何故そんなに強く主張するのか、何故そんなに個人的なことに興味を持つのかと、子供っぽく非常識だという印象を与えてしまう。 これでは、以降の関係に冷や水を与えかねない。
だから、やむを得ず、表面的にわかったフリだけをする。 つまり「他人とは永遠に理解できない存在」として、付き合う以外に方法が無いのだ。
◇
繰り返すようだけど「他人とは永遠に理解できない存在」ではない。
だから相手に興味を持って話し合い考えることをやめてはいけない。
だけど、日本人はこれが出来ない。
急速に変化する日本の社会の中で、日本人は急速に多様化している。
そういうなかで、日本人同士が外人同士のようにコミュニケーションが疎になって来ているように思う。
僕ももう大人なので、日本人を相手に熱い討論をしようなんてバカげたことは考えなくなってきたけど、ある人の日記で、若者の就職難に関して、若者は甘い! 努力がタリン! というようなことを言っている人がいたので、どうしても我慢できなくなって、異論を唱えてしまった。 そうしたら案の定、討論の出来ない会話がかみ合わない人が登場して、場が荒れてしまった。
90年代生まれと僕ら70年代生まれの間には、大きな違いがある。 70年代生まれは、バブル崩壊を体験して多少苦労しているけども、青春時代を高度経済成長期の名残の中ですごし、まだ「うま味」を知っている世代といえる。 それにひきかえ、90年代生まれは、バブル崩壊後の、経済が低迷した世知辛い世の中しか知らない。 このギャップは大きい。 70年代生まれは、青春時代、景気が悪いとはいえ、まだ仕事がありふれていた。 だから、頑張ればどうにかなる、と信じていたし、実際頑張ればどうにかなったのだ。 しかし時代は21世紀、頑張ってもどうにもならない大きな障壁が生まれている。 90年代生まれは、迷走する青春時代にこの障壁に出くわし、その前で途方にくれているのだと思う。 しかし、70年代生まれは、この「どうにもならない障壁」の存在が理解できない。
この人たちは、僕の目から見ると、まさしく タイに行って「タイ人と見分けが付かなくなった」と豪語する日本人とまったく変わらない。 日本人丸出しで、誰がどこからどう見ても日本人にしか見えない「タイ人と見分けが付かなくなった日本人」。 彼ら に、口をすっぱくして、絞り染めのTシャツを着てはいけない※1とか、東北人にタイ語で話しかけてはいけないとか※2そういうことを説明しても、「いやーそんなことないけどなー」といって拒否し、それ以上考えない。 彼らは理解できないし、そもそも理解しようともしていない。 そこに理解すべき何かがあることにすら気がつかない。
※1 絞り染めのTシャツをタイ風と思っている日本人は多いが、そういうTシャツを着ているタイ人は居ない。
※2 タイでは、実は全てのタイ人がタイ語を話すわけではない。 これに気がつく人が案外少ない。 これを間違えると、案外ムッとされている。
彼らがそうやって他者を理解できないのと同じように、70年代生まれは、90年代生まれの人がどういう苦労をしているのか、理解できない。 想像できない。 イマジネーションが働かない。
◇
同じ国の人同士なのに、外国人同士の様に理解し合えないという、奇妙な状況に陥っている国、それが日本じゃないかと思う。
この現象は、日本中のありとあらゆるところで起こっている。
それは、会社の上司と部下だったり、医療関係者と患者だったりする。
世代がたった数年違うだけで、外国人同士のように理解しあえなくなったりする。
そういう信じられないような近視的なミスコミュニケーションが国中に満ち溢れているのが日本だ。
日本は、このままじゃ絶対まずいと思う。
ま、でも、どう行動を起こせばよいのか、というとほとんど策がないのが現実だ。
久しぶりに最近考えたことをまとめてみました。
ちょっと長いのですが、もしよかったら読んでください。
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他人とは永遠に理解できない物である国
最近よく思う。 日本人って日本人同士なのに、外人と話しているみたいに、理解しあえなくなってしまうんじゃないか。
普通、自分の国同士の人であれば、当然、相手のこともよくわかるし、相手も自分が言うことがよくわかる。 しかし、相手が外人だと、相手の文化風習・考え方がわからなくて、何を考えているのか察しが付かなかったり、相手にも自分が感じていることが伝わらない。 だからすごくストレスがたまる。
日本は島国で、あまり外人と話す機会は無いけど、普通の国は島国じゃないので、外人というのはわりとありふれた存在だ。 だから、そういうわからない・わかってもらえないストレスに遭遇することは多い。
だからこそ、そういう国に居る人たちは、そういう異文化交流ストレスにどうやって対処すべきなのかも割りとよくわかっている。 対処方法は案外簡単だ。 自分の感じていることを逐一説明し、相手の言うことによく耳を傾ける。 たった、それだけのことなのだけど、あまりストレスを感じなくなる。
またそういう国にいる人たちは、それ以上に、お互いに、相手がわからないことも、相手にわかってもらえないことも経験したことがある。 だからこそ、わかってもらえない人の気持ちもわかるし、わからなくてつらい人の気持ちもわかる。
◇
日本人って本当に異文化交流が苦手だ。 でもこれはある意味仕方がない。 普段文化的に異なる人たちと触れ合う機会が少なすぎるので、経験が圧倒的に不足しているからだ。
僕はタイにしばらく住んでいて、タイ語が話せるようになった。 そういう立場から、タイにいる外国人を見ていると、いつもいつも、日本人だけ、凄まじい感覚のずれ方をしているのが、いつも気になる。 浮きまくり、ズレまくりなのに、その人たちは「タイに染まったなぁ」とか「いやぁタイ化しちゃって大変よ!」 「タイ人と見分けがつかない」とか、決まったように同じ言葉を発する。 この感覚のズレって凄まじい。
タイ人はそんなこと微塵も思ってない。 ひとめで日本人と見抜いている。 タイ語上手いなんて微塵も思ってないくせに「あらータイ語じょうずねー」なんて おべんちゃらも使う。 タイ人って タイ語で「パクワーンコンプリアオ(口は甘く尻は酸っぱい)」っていうけど、京都の人みたいに優しい口調で、言っていることはキツイ。 口が悪い。 だけど、日本人は、そういう二面性をまったく見抜けないばかりでなく、そういう世界があるということすら想像できなくて 「いやぁタイ人と見分けが付かない」と豪語してはばからない。 このアホさ加減は、凄まじいものがある。
本当は、そこに、きちんとしたコミュニケーションがあるべきだ。 というか陸続きの国ではみんな多少なりともそういう作業を行う。 言葉も違う、文化も考え方も違う、ノリもセンスも違う、という中で話し合って、相手に興味を持って説明を求め、相手に自分の文化を説明していく。 そういう作業の中で、自分がいかに浮いているのか、相手がどうやって引いているのかを感じ取っていくことができる。 そういう感覚の中で、自分の行動をちょっとずつ修正して、馴染んでいくことができる。
日本人は、こういう行動が苦手だ。 慣れが無い。 決定的に経験が足りない。
でも、僕はそれ以上に、何か根本的な欠点を感じる。
◇
ある日本人の友達が「他人とは永遠に理解できない存在だ」って言っていたことがあった。 これは別に初耳でもないし、日本に居ればよく聞く言葉だ。 誰かが悲しんでいる。 何故悲しんでいるのかは、本人しかわからない。 誰かが怒っている。 何故怒っているのかは本人しかわからない。 それをわかったと思うのは思い上がりだ。 「あなたにわたしの気持ちがわかってたまるか!」なんていい方もある。
本当にそうだろうか。 違う。 そんなことはない。 僕は、単純に、客観的な事実として「他人とは永遠に理解できない存在」という言葉が真実でないことを知っている。 だって、もし、他人が永遠に理解できない存在であれば、異文化交流という物が、そもそも成り立たないはずだ。 しかし、世の中に異文化交流に長けている人は、たくさん居る。
国によっては、ひとつの国内に3~4つの公用語がある国もある。 こういう国では、日常生活にすら異文化交流スキルが必要だ。 つまり、異文化交流が出来ない人は、いい進学もいい就職も得られない。 そういう国では得手不得手はあってもほとんど誰でも異文化交流スキルを持っている。 つまり、工夫次第で他人を理解することができるということは 「できるよ!」「できないよ!」という討論のレベルをとっくに過ぎて、誰でも知っている常識であり、異論の余地がない事実だ。
その作業とは、自分とは育った街はおろか、国も違う、言葉も違う、風習も違う、全く異質な相手に対して、自分との違いをひとつひとつ明らかにしていくことだ。 こうして、相手をよく知るだけでなく、自分には見えない自分自身の特殊性が白昼の元にさらされることになる。
この作業を踏めば、誰であっても、また相手が誰であっても、他者の感じ方を理解することが出来る。 確かに同国人の様に理解するのは難しいが、相手に違和感を与えない程度に理解することはさほど困難ではない。
しかし、日本では「他人とは永遠に理解できない存在」 という言葉は、ほとんど、常識の様に根付いているように僕は思う。 これは、凄いことだと僕は思う。 「他人とは永遠に理解できない存在」という言葉は、ある意味、相手を理解する作業はおろか、相手を理解するという意欲の全て放棄してしまっており、凄まじい。
確かに、日本で「他人とは永遠に理解できない存在」 という意見に対して異論を唱えて貫き通すのは、相当しんどい。 これは事実だ。
「私はこう思います。なぜならばこれこれこうだからです。」
「キミは何故そんなに自己主張が強いのかね?」
「何故、そういうことしたの?」
「何でそうやってしつこく何でも聞くの?」
「僕はこう思うんだけど、そうじゃないの?」
「何で私のことわかったような口を聞くの?あなた何もわかってない」
「僕はそれは間違っていると思います。何故ならば...」
「何でキミはいつもそうやってケンカ腰なのかね!」
「いや、これは討論でこうやって話し合うことで理解を深めるのが大切なんです。」
「キミは口うるさい」
日本人は、相手が自分のことを知らない、という状態自体を極度に嫌う。 でも経験も共にしておらず、説明もしていない相手に対してこれを求めるということは、理不尽なことだ。 いくら日本人同士とはいえ、出身も世代も違えば、考え方も話し方も違う。 こういう中で、何も言わずに理解することを求めるというのは、無理がある。 絶対に不可能なのだ。
そんななか、日本人は、コミュニケーションを成立させるため、相手に共通点にを求める。 同じ学校 同じ県出身・同じ郷土・同じ車・同じ服・同じ方言... しかし、これだけ多様化して急速に発展した近代の日本では、新たに出会う人との共通点を探し出すのは、もはや不可能にちかい。
にもかかわらず、相手との違いを明らかにする非島国的コミュニケーション方法を取ろうとすると、往々にして、波風が立つ。 相手に悪印象を与えてしまう。 何故そんなに強く主張するのか、何故そんなに個人的なことに興味を持つのかと、子供っぽく非常識だという印象を与えてしまう。 これでは、以降の関係に冷や水を与えかねない。
だから、やむを得ず、表面的にわかったフリだけをする。 つまり「他人とは永遠に理解できない存在」として、付き合う以外に方法が無いのだ。
◇
繰り返すようだけど「他人とは永遠に理解できない存在」ではない。
だから相手に興味を持って話し合い考えることをやめてはいけない。
だけど、日本人はこれが出来ない。
急速に変化する日本の社会の中で、日本人は急速に多様化している。
そういうなかで、日本人同士が外人同士のようにコミュニケーションが疎になって来ているように思う。
僕ももう大人なので、日本人を相手に熱い討論をしようなんてバカげたことは考えなくなってきたけど、ある人の日記で、若者の就職難に関して、若者は甘い! 努力がタリン! というようなことを言っている人がいたので、どうしても我慢できなくなって、異論を唱えてしまった。 そうしたら案の定、討論の出来ない会話がかみ合わない人が登場して、場が荒れてしまった。
90年代生まれと僕ら70年代生まれの間には、大きな違いがある。 70年代生まれは、バブル崩壊を体験して多少苦労しているけども、青春時代を高度経済成長期の名残の中ですごし、まだ「うま味」を知っている世代といえる。 それにひきかえ、90年代生まれは、バブル崩壊後の、経済が低迷した世知辛い世の中しか知らない。 このギャップは大きい。 70年代生まれは、青春時代、景気が悪いとはいえ、まだ仕事がありふれていた。 だから、頑張ればどうにかなる、と信じていたし、実際頑張ればどうにかなったのだ。 しかし時代は21世紀、頑張ってもどうにもならない大きな障壁が生まれている。 90年代生まれは、迷走する青春時代にこの障壁に出くわし、その前で途方にくれているのだと思う。 しかし、70年代生まれは、この「どうにもならない障壁」の存在が理解できない。
この人たちは、僕の目から見ると、まさしく タイに行って「タイ人と見分けが付かなくなった」と豪語する日本人とまったく変わらない。 日本人丸出しで、誰がどこからどう見ても日本人にしか見えない「タイ人と見分けが付かなくなった日本人」。 彼ら に、口をすっぱくして、絞り染めのTシャツを着てはいけない※1とか、東北人にタイ語で話しかけてはいけないとか※2そういうことを説明しても、「いやーそんなことないけどなー」といって拒否し、それ以上考えない。 彼らは理解できないし、そもそも理解しようともしていない。 そこに理解すべき何かがあることにすら気がつかない。
※1 絞り染めのTシャツをタイ風と思っている日本人は多いが、そういうTシャツを着ているタイ人は居ない。
※2 タイでは、実は全てのタイ人がタイ語を話すわけではない。 これに気がつく人が案外少ない。 これを間違えると、案外ムッとされている。
彼らがそうやって他者を理解できないのと同じように、70年代生まれは、90年代生まれの人がどういう苦労をしているのか、理解できない。 想像できない。 イマジネーションが働かない。
◇
同じ国の人同士なのに、外国人同士の様に理解し合えないという、奇妙な状況に陥っている国、それが日本じゃないかと思う。
この現象は、日本中のありとあらゆるところで起こっている。
それは、会社の上司と部下だったり、医療関係者と患者だったりする。
世代がたった数年違うだけで、外国人同士のように理解しあえなくなったりする。
そういう信じられないような近視的なミスコミュニケーションが国中に満ち溢れているのが日本だ。
日本は、このままじゃ絶対まずいと思う。
ま、でも、どう行動を起こせばよいのか、というとほとんど策がないのが現実だ。
コメント一覧
矢本 2008年05月31日 00:31
私はあるとき、「他人とは絶対に理解できない存在」であると主張しました。
「他人とは絶対に理解できない存在」であり、
それを大前提として、それでも理解できる部分まで
努力して近寄っていくことが、コミュニケーションの本質であり、
「愛」でもあるというのが私の考えです。
人種であるとか、国民性であるとか、性差であるとかは
私の言っている「他人とは絶対に理解できない存在」とは、
ちょっと、次元が違うんです。
私が言っているのは、もっともっと簡単なことなんです。
「他人とは絶対に理解できない存在」というのは、
「共感できない」とか、
「他国の文化に理解を示せない」とか、
「違う意見を持っていても認め合えない」という意味ではなく、
「お腹すいている人がいても、代わりにご飯を食べてあげることはできない」
「頭が痛くても、痛みを変わってあげることはできない」また、
「どんなにたいせつな人でも、代わりにトイレには行ってあげられない」
という、非常に単純なことなんです。
そういう絶対感覚の上で、人と人とは同じ「実感」を共有できない、
ということなんです。
ここが、ややこしい。
「こんなに自分が思っているのに、どうしてわかってくれないのか」
という人がいます。
わかるわけないんです。
その人の「思っていること」に対して、「共感」したり、
「同調」したり、「理解を示し」したり,
自分の過去の経験などと照らし合わせて悲しんだりはできるけど、
「完全に同じことを思って、完全に同じことを感じる」
ことはできないからです。
なぜなら、「違う人間」だから。
これがすっと感覚的に飲み込めたとき、私は「他者を発見」しました。
他者を発見した瞬間に、「他者」という呪縛から自由になれたし、
「別の意見を持っている他人」も、「その意見」も、
尊重するようになりました。
私は「他人とは絶対に理解できない存在なんだわ!」という風に、
悲しんだり、諦めたりしてるわけじゃないんです。
うーん、直接逢って喋るともっと伝わると思うんですけど。
「他人とは絶対に理解できない存在」であり、
それを大前提として、それでも理解できる部分まで
努力して近寄っていくことが、コミュニケーションの本質であり、
「愛」でもあるというのが私の考えです。
人種であるとか、国民性であるとか、性差であるとかは
私の言っている「他人とは絶対に理解できない存在」とは、
ちょっと、次元が違うんです。
私が言っているのは、もっともっと簡単なことなんです。
「他人とは絶対に理解できない存在」というのは、
「共感できない」とか、
「他国の文化に理解を示せない」とか、
「違う意見を持っていても認め合えない」という意味ではなく、
「お腹すいている人がいても、代わりにご飯を食べてあげることはできない」
「頭が痛くても、痛みを変わってあげることはできない」また、
「どんなにたいせつな人でも、代わりにトイレには行ってあげられない」
という、非常に単純なことなんです。
そういう絶対感覚の上で、人と人とは同じ「実感」を共有できない、
ということなんです。
ここが、ややこしい。
「こんなに自分が思っているのに、どうしてわかってくれないのか」
という人がいます。
わかるわけないんです。
その人の「思っていること」に対して、「共感」したり、
「同調」したり、「理解を示し」したり,
自分の過去の経験などと照らし合わせて悲しんだりはできるけど、
「完全に同じことを思って、完全に同じことを感じる」
ことはできないからです。
なぜなら、「違う人間」だから。
これがすっと感覚的に飲み込めたとき、私は「他者を発見」しました。
他者を発見した瞬間に、「他者」という呪縛から自由になれたし、
「別の意見を持っている他人」も、「その意見」も、
尊重するようになりました。
私は「他人とは絶対に理解できない存在なんだわ!」という風に、
悲しんだり、諦めたりしてるわけじゃないんです。
うーん、直接逢って喋るともっと伝わると思うんですけど。
おかあつ 2008年05月31日 01:45
僕はなんと言うか、すべての人は同じだって言う感覚を持っている。 全ての人は同じだから、誰でも同じ状況になれば同じことをしてしまうだろう、って思っている。 腕立て100回やってヘロヘロになっている人を見て、かっこ悪いなぁと思っているが、同じ人間である以上、同じことをやれば自分も同じ様にヘロヘロになるだろう、って思う。 これの延長線上として、こう思う。 自殺する人が居る。 多くの人は「自殺する人の気持ちがわからない」という。 でも誰でも完全に同じ状況に陥れば、自殺したくなるのだと思う。
でも、これは、僕独自の感覚なのかもしれない。 僕は、そんな他人と自分とが裏返しになる瞬間を何回か見たことがある。 普段 「コイツバカだな」と思っているが、あるとき自分も同じ事をしていることに気がつく瞬間がある。 でも、これは僕独特な感覚なのかもしれない。
◇
ある人に対してそんな風に共感をつかむことが出来たと感じているとき、その人と一緒にいると、お互いに「一緒に居ても痛くない」っていう印象を持つ。 これが僕が言っていることの根本にある感覚だ。
◇
>「同調」したり、「理解を示し」したり,自分の過去の経験などと照らし合わせて悲しんだりはできるけど、
>「完全に同じことを思って、完全に同じことを感じる」ことはできないからです。
この言葉からは「未分化」という言葉を連想させる。 心理学の本かなにかに「自己」と「他者」が「未分化」である、云々という文脈で使われていた言葉だと思う。 確かに僕が言っていることとは違うことかもしれない。 でも、これは、僕の言葉では、「自立」というかもしれない。
でも、究極的に、僕は、ヤモト氏が言うことに同意できない。 たとえば、代弁者、という言葉がある。 この人たちは、誰かが言えないことをその人に代わって歌ったり絵を描いたり、踊ったりして、代弁する。 代弁された人は、あたかも自分が自分で解決したような開放感を得る。 この代弁者のように他者の気持ちを自分の気持ちとして感じ取りそれを表現する能力を持つ人は存在する。 これはとても高度な心の使い方だと僕は思う。
たしかにこれは 「オイ、代弁者! いや、ちょっとオレ、今凄くおなら我慢してるんだけど、代わりにしてくれない?」っていうこととは、別だ。 おならしたくて我慢している、しかしそれを理解しても、こればかりはどうにもならない。
だけど(往々にして、だけど) お金が無いとか、ご飯が無いとか、痛いとかね。 そういう物理的な困難って言うのは往々にして自力で解決できる。 自力で解決できないのは、そういう困難から来る疎外感や孤独感だと思うのね。 これくらいは理解してあげてもいいんじゃないかって思う。
> 「こんなに自分が思っているのに、どうしてわかってくれないのか」
ところで、僕は、この言葉を人に言ったことはあるけど、人からいわれたことはないんだよな...。 むしろ、「何でそんなことまで知ってるの?」とか「何でそんなことまでわかるの?」とか そういうことしか言われたことがない。 これは思えば、僕が凄く特殊なのかもしれない。
>「完全に同じことを思って、完全に同じことを感じる」ことはできないからです。
だからかどうかはわからないけど、どうしても、感覚的に、この言葉には賛同できないんだよなぁ...。
でも、これは、僕独自の感覚なのかもしれない。 僕は、そんな他人と自分とが裏返しになる瞬間を何回か見たことがある。 普段 「コイツバカだな」と思っているが、あるとき自分も同じ事をしていることに気がつく瞬間がある。 でも、これは僕独特な感覚なのかもしれない。
◇
ある人に対してそんな風に共感をつかむことが出来たと感じているとき、その人と一緒にいると、お互いに「一緒に居ても痛くない」っていう印象を持つ。 これが僕が言っていることの根本にある感覚だ。
◇
>「同調」したり、「理解を示し」したり,自分の過去の経験などと照らし合わせて悲しんだりはできるけど、
>「完全に同じことを思って、完全に同じことを感じる」ことはできないからです。
この言葉からは「未分化」という言葉を連想させる。 心理学の本かなにかに「自己」と「他者」が「未分化」である、云々という文脈で使われていた言葉だと思う。 確かに僕が言っていることとは違うことかもしれない。 でも、これは、僕の言葉では、「自立」というかもしれない。
でも、究極的に、僕は、ヤモト氏が言うことに同意できない。 たとえば、代弁者、という言葉がある。 この人たちは、誰かが言えないことをその人に代わって歌ったり絵を描いたり、踊ったりして、代弁する。 代弁された人は、あたかも自分が自分で解決したような開放感を得る。 この代弁者のように他者の気持ちを自分の気持ちとして感じ取りそれを表現する能力を持つ人は存在する。 これはとても高度な心の使い方だと僕は思う。
たしかにこれは 「オイ、代弁者! いや、ちょっとオレ、今凄くおなら我慢してるんだけど、代わりにしてくれない?」っていうこととは、別だ。 おならしたくて我慢している、しかしそれを理解しても、こればかりはどうにもならない。
だけど(往々にして、だけど) お金が無いとか、ご飯が無いとか、痛いとかね。 そういう物理的な困難って言うのは往々にして自力で解決できる。 自力で解決できないのは、そういう困難から来る疎外感や孤独感だと思うのね。 これくらいは理解してあげてもいいんじゃないかって思う。
> 「こんなに自分が思っているのに、どうしてわかってくれないのか」
ところで、僕は、この言葉を人に言ったことはあるけど、人からいわれたことはないんだよな...。 むしろ、「何でそんなことまで知ってるの?」とか「何でそんなことまでわかるの?」とか そういうことしか言われたことがない。 これは思えば、僕が凄く特殊なのかもしれない。
>「完全に同じことを思って、完全に同じことを感じる」ことはできないからです。
だからかどうかはわからないけど、どうしても、感覚的に、この言葉には賛同できないんだよなぁ...。
クレ 2008年05月31日 02:39
昔読んだ英語教本に、相手を嫌い=相手を知らない と言うのがありました。正しく理解できれば誰とでも付き合えます。少なくとも相手に合わせることはできます。
ただ近頃それが面倒だと思います。理解できるまでの長い道のりでいやな思いを経験しないとならないからです。それなら何も言わないのに通じあってしまう人とだけ付き合えばいいのではと。そもそもそんなにたくさんの友達維持できないですし。と考えるようになりました。
傷つけられることを極度に恐れる人は警戒心が強くて、自分の本心をなかなか見せてくれません。そういう人はこちらをじっと観察して、些細な会話で瞬時に選別されてしまいます。仲間か仲間じゃないのか。
日本人がみんな突然英語を使わなければならなくなったら、曖昧で微妙な表現ができずに、ストレートなコミュニケーションしかできなって日本人も変わるかもと想像することがあります。
京の言葉や風習は、長い長い閉鎖的な社会でなんとか争わずに本心を精一杯伝え、物事を収めたいうので進化してきたものなのでしょうねえ。人間関係も対等ではない時代ですしねえ。
ただ近頃それが面倒だと思います。理解できるまでの長い道のりでいやな思いを経験しないとならないからです。それなら何も言わないのに通じあってしまう人とだけ付き合えばいいのではと。そもそもそんなにたくさんの友達維持できないですし。と考えるようになりました。
傷つけられることを極度に恐れる人は警戒心が強くて、自分の本心をなかなか見せてくれません。そういう人はこちらをじっと観察して、些細な会話で瞬時に選別されてしまいます。仲間か仲間じゃないのか。
日本人がみんな突然英語を使わなければならなくなったら、曖昧で微妙な表現ができずに、ストレートなコミュニケーションしかできなって日本人も変わるかもと想像することがあります。
京の言葉や風習は、長い長い閉鎖的な社会でなんとか争わずに本心を精一杯伝え、物事を収めたいうので進化してきたものなのでしょうねえ。人間関係も対等ではない時代ですしねえ。
まはヴぃーら 2008年05月31日 17:38
>その人たちは「タイに染まったなぁ」とか「いやぁタイ化しちゃって大
>変よ!」 「タイ人と見分けがつかない」とか、決まったように同じ言
>葉を発する。 この感覚のズレって凄まじい。
ええ、凄まじいズレがあります。そういう人に限って日記のレスの終わ
りに「コップン・カップ」とか通じないタイ語もどきを書いてたりします。
日本人相手に日本語使ってないんだから通じなくて当然。
絞り染めのTシャツは、Free Tibetな人達もよく着ている印象があります(偏見かも)。
あと、英語喋る時に妙なスラング混ぜてネイティヴっぽくしてるつもり
の人がたまにいますが、あれは恥ずかしいので止めて欲しいですね。
>変よ!」 「タイ人と見分けがつかない」とか、決まったように同じ言
>葉を発する。 この感覚のズレって凄まじい。
ええ、凄まじいズレがあります。そういう人に限って日記のレスの終わ
りに「コップン・カップ」とか通じないタイ語もどきを書いてたりします。
日本人相手に日本語使ってないんだから通じなくて当然。
絞り染めのTシャツは、Free Tibetな人達もよく着ている印象があります(偏見かも)。
あと、英語喋る時に妙なスラング混ぜてネイティヴっぽくしてるつもり
の人がたまにいますが、あれは恥ずかしいので止めて欲しいですね。