一方通行
2008年01月10日18:52
思ったんだけど、自分が相手を理解する事はできる。 相手には弱さがあり、それを見ることが出来る。そして、理解できないかもしれないけども、配慮を示して、意見に耳を傾け、理解する努力を払う事ができる。 ところが、相手が自分を理解できないという事はありえる。 自分にも弱さがあるのだが、それを相手は見ることが出来ない。 また理解もできない、ということがある。
しかし、それもまた、相手を理解する事で乗り越える事ができるので、問題ではない。 問題は、相手がそれに対して、何の配慮も示せず意見に耳も傾けないときではないだろうか。
こちらには悪意がないのだが、彼はそれに気がつかず、自分から踏み込んできて自ら怪我をする。 もちろん、こちらとしても攻撃は絶対にしたくないのだが、そこに立ち入られると壊れてしまうのでやむを得ず守らなければならない。
◇
欠乏を知らない人は、欠乏を理解できない。 苦しみを知らない人は苦しみを理解できない。 しかしこの言葉には大切な何かが欠けている。 この言葉を理解できる人は、この言葉を経験した事がある人でしかないからだ。 そこで試みにこの「理解できない」というのを更に具体的に言葉にしてみる。
理解できないというのは、アホかと思うということだ。 何でそんなに無様なのか。お前はアホか、と思う。 何故そんなに不恰好なのか。 再び、お前はアホかと思う。 しかし、ひとたび同じ状況に自分が落ちれば、あなたでさえ、たまらず無様な姿をさらさざるを得ないのだ。 だから、アホかと思ってはならない。 それは理解していない証拠なのだ。
しかし、その人にとってそういう状況に落ちる事が100%ありえないことであれば、特に理解する必要はない。 それで何も問題がないのだ。 そういう人が何故わざわざ理解する歳の、はらわたが捩れる様な苦しみを買って出るだろうか。
欠乏というのは、望まずして精神に深い傷を打ち込まれることなのだ。 大きく抉り取られ、正しく機能しなくなり、二度と戻らなくなる。 この傷を埋めるべく必死で無様な闘いをしている人間を、テレビの芸能人を見るような好奇の冷めた目で見る。 動物園のチンパンジーのような気分になる。 それがいかに侮辱的な行動であるかに、彼は全く無頓着である。
◇
こうやって、何かに向かって走り続ける。 その先には何があるのか、よくわからない。 大変な苦労をしてきたが、走りついたそこにあるのは案外平凡なものであるらしいこともおぼろげに見えつつある。 それでも走らなければならない。 何故走るのか。 そこには、人生に前向きなひたむきさがあるわけでもなく、尊敬すべき崇高な理念があるわけでもない。 単にそこに立ち止まる事が許されないからだ。
しかし、それもまた、相手を理解する事で乗り越える事ができるので、問題ではない。 問題は、相手がそれに対して、何の配慮も示せず意見に耳も傾けないときではないだろうか。
こちらには悪意がないのだが、彼はそれに気がつかず、自分から踏み込んできて自ら怪我をする。 もちろん、こちらとしても攻撃は絶対にしたくないのだが、そこに立ち入られると壊れてしまうのでやむを得ず守らなければならない。
◇
欠乏を知らない人は、欠乏を理解できない。 苦しみを知らない人は苦しみを理解できない。 しかしこの言葉には大切な何かが欠けている。 この言葉を理解できる人は、この言葉を経験した事がある人でしかないからだ。 そこで試みにこの「理解できない」というのを更に具体的に言葉にしてみる。
理解できないというのは、アホかと思うということだ。 何でそんなに無様なのか。お前はアホか、と思う。 何故そんなに不恰好なのか。 再び、お前はアホかと思う。 しかし、ひとたび同じ状況に自分が落ちれば、あなたでさえ、たまらず無様な姿をさらさざるを得ないのだ。 だから、アホかと思ってはならない。 それは理解していない証拠なのだ。
しかし、その人にとってそういう状況に落ちる事が100%ありえないことであれば、特に理解する必要はない。 それで何も問題がないのだ。 そういう人が何故わざわざ理解する歳の、はらわたが捩れる様な苦しみを買って出るだろうか。
欠乏というのは、望まずして精神に深い傷を打ち込まれることなのだ。 大きく抉り取られ、正しく機能しなくなり、二度と戻らなくなる。 この傷を埋めるべく必死で無様な闘いをしている人間を、テレビの芸能人を見るような好奇の冷めた目で見る。 動物園のチンパンジーのような気分になる。 それがいかに侮辱的な行動であるかに、彼は全く無頓着である。
◇
こうやって、何かに向かって走り続ける。 その先には何があるのか、よくわからない。 大変な苦労をしてきたが、走りついたそこにあるのは案外平凡なものであるらしいこともおぼろげに見えつつある。 それでも走らなければならない。 何故走るのか。 そこには、人生に前向きなひたむきさがあるわけでもなく、尊敬すべき崇高な理念があるわけでもない。 単にそこに立ち止まる事が許されないからだ。
コメント一覧
ろんたりんくo(^-^)o 2008年01月10日 19:09
「冷暖自知」という言葉にシンクロする事柄ですねo(^-^)o
二胡niko♡プン 2008年01月10日 21:21
最初の文
まさに今のポムの心境・・
なんでわかってくれないのかって・・
どうしてみんな自分本位に走るのかって・・
ポムの気持ち打ち明けたのに・・
どうしてわかってくれないの・・
もうそっとしておいてくれればこんなことにならなかったのに・・
自分がこうだからって
自分の考えを押し付けるのはやめてほしい・・
ひとりごと・・
聞き流して下さい・・
まさに今のポムの心境・・
なんでわかってくれないのかって・・
どうしてみんな自分本位に走るのかって・・
ポムの気持ち打ち明けたのに・・
どうしてわかってくれないの・・
もうそっとしておいてくれればこんなことにならなかったのに・・
自分がこうだからって
自分の考えを押し付けるのはやめてほしい・・
ひとりごと・・
聞き流して下さい・・
クレ 2008年01月11日 01:20
被害者意識は、一種の快感になることがあるんだと最近思います。もちろん、本当の被害者ではないのに、そう思い込んでいるときは特に。加害者であることを認めることは辛いですし意気消沈するばかりですが、被害者になったときの怒りはパワーになったりすることもあります。被害者意識大好きな人に、言葉を尽くしても、公正な目を持ってもらうことは難しいです。自分がかわいそうと言うことで心が一杯で、到底相手を思いやる余裕がないのでしょう。というか、相手も辛いんだとわかってしまったら、せっかくの快感が消えてしまうので、あえて目をつぶるのかもですが。
トミィ 2008年01月11日 18:29
この様に思える人が、もっと世の中にいれば良いんだけどね。私も含めてだけど、アホが多いんだよアホが…(←って言ってしまったね。)傷つく事や、ムカつく事の中で全てを客観的に受け止めて理解するのは、人間にとってとても難しい事だと思う。「い~や自分は大丈夫」と確信していても、どこかに落とし穴は必ず有り、穴を見つけた時に目を背けるか、新しい自分の発見を受け止めるかでも又先の展開が違ってくるんだと思う。何にせよ絶対的な確信と言うのは、いつも崩れる事を覚悟した上で持ち続けないと長くはないんじゃないかな。とにかく、いろいろと生きているとあるよ。