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2007年1月6日土曜日

論理と感覚 (mixi05-u459989-200701061732)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
論理と感覚
2007年01月06日17:32
昨日は、くねくね科学の数学に関する記事のおかげで頭がいっぱいになってしまい、何にも手が付かなかった。

くねくね科学
http://www.blwisdom.com/blog/shikano/archives/2006/01/post_48.html

僕の日記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=310427756&owner_id=459989

だけど、いろいろなことがわかった。 僕は、この記事を読んだ時に、気持ちが悪くて仕方が無かった。 この記事に誤りがある事は明らかであり自明に見えた。 僕は、このことをつっきー氏に話したら、つっきー氏は、そんな事はないといった。

僕は、間違っているのが気持ちが悪くて仕方が無かったし、つっきー氏は、当然わかってくれるだろうと思っていたので、非常に悔しかった。 僕は、つっきー氏と覚えたての論理の言葉を使って討論してみる事にした。

だが、結果的に理解してくれない人がつっきー氏だったのは、僕にとってこれ以上ない幸運だったようだ。 つっきー氏と掲示板を利用して100近い意見を交換した結果として、結果的に僕が気持ち悪かった理由は、こういうことだということが明らかになった。

物事というのは逆にすると簡単になることがあるのだそうだ。

例えば「果物が黒い ならば 腐ってる」という言葉を証明するためには、あらゆる黒い果物を食べて、おなかを壊す必要があるかもしれない。 でも、論理的に等価な文「腐っていないなら黒くない」を証明するほうはグッと簡単そうだ。 黒くない果物を一つ食べておなかが壊れない事を見ればいい。

こういう風に、逆を見ることを「対偶を取る」というのだそうだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E5%81%B6

くねくね科学の筆者さんは、あの例を恐らく自分で考えたのではなく、認知科学では極めて一般的な例え話をあそこで書いたのだと思う。

ところが、文章を書くなかで、例題が対偶の質問に入れ替わってしまっていた。 このケースは、対偶を取ると例題が圧倒的に簡単になってしまうケースだった。

対偶を取った質問を見せたあとで「ほら、社会的な比喩にするとこんなに簡単になる」と言われると、ものすごく気持ちが悪い。 簡単になった理由は 社会的な比喩だからではなく、対偶を取った質問に入れ替わっているからだ。

色々調べてみたら、彼が言っていることは、Wason's Card Problem という、超有名な認知科学の話だった。
http://skepdic.com/refuge/ctlessons/lesson3.html

ところが本物では、設問が『ビールを飲んでいるならば19歳以上である』なのに、くねくね科学では、『全員が18歳未満は飲酒禁止、というルールに違反していない』 となっていた。

この二つの設問は、つっきー氏によると、論理的に全く同値であるそうだ。 だけども、考える上では、後者のほうが圧倒的に簡単になると僕は感ぜられて仕方がなかった。

僕はそのことを知らなかったのだけど、これこそが「対偶を取ると問題の難易度が下がる」という現象であるらしかった。

最終的に、つっきー氏は僕が言っていることを理解してくれ、僕が言いたい事を論理的に厳密な言葉で書き上げてくれた。 それは、僕にとって非常に貴重な経験だったといわざるを得ない。

僕は、昨日の日記で、その論理を全て省略しているので、誰も理解できない。 理解できるわけが無い。

───────────────────────────

プログラマである僕にとって、証明とは「プログラムが動く」ことだ。 プログラムは実に正直で、間違っていると動かない。 正しければ、絶対に動く。 動かなければ、絶対に動かない理由があるはずだ。 僕は子供のときから、プログラムを組んでは走らせ、組んでは走らせ、という経験を無数に繰り返しているので、プログラムを見るだけで、大体そのプログラムがどういう動きをするか予想できる。

でも、このスキルは、どうやら、物凄く特殊な技術であるらしい...。 僕の感覚を正直に書くと「プログラムを動くように組めば動く」であり、動かないのは「動かないように組んだからだ」である。

僕は、くねくね科学を見た時に、発作的に「動かない」と感じた。 気持ちが悪くて仕方が無くなった。 ところが、僕ときたら、それが、何故動かないのかを理解してないのだ。 僕はそういう時、実際にプログラムを走らせて動かないことを経験して正しくない事を感覚的に知っているだけなのだ。

当然、人にも説明できない。

僕の言葉は、アクション映画を見た人がその映画を見た人同士で集まって盛り上がっているのと同じレベルなのだ。

こうして、孤独なプログラマが出来上がる。

僕は、これを乗り越えなければならない。 誰にでもわかる、きちんと整理された論理的な言葉を身につけて、僕が考えている事をみんなに伝えなければならない。



僕は、みんな僕と同じだと思っている。 僕が特殊だと思うのは、失礼だと思うし、それは「僕は天才でみんなはバカだ」というのと同じだと思うから。

でも、僕が「僕はみんなと同じだ」と思っているのは、他の人にすると、物凄く疲れる事なのかもしれないな...。

最後まで読んでくれてどうもありがとう。

コメント一覧
みにまゆ   2007年01月07日 00:33
私は長文を読むのが苦手です。
でも、昨日今日の内容はとても興味深く、最後まで読むことができました☆こちらこそありがとうございます!

>実際にプログラムを走らせて動かないことを経験して正しくない事を感覚的に知っているだけなのだ。

私は難しいことはわかりませんが、きっとそれってある種の動物的勘みたいなものですよね??ならばとっても共感できたと思います。
おかあつ   2007年01月07日 00:45
長文なのに、読んでくれてホント嬉しいです。(^-^)

僕も長文を読むのは苦手です。 ( ただしダラダラと長文を書くのは得意中の得意です(_ _; )

>私は難しいことはわかりませんが、きっとそれってある種の動物的勘みたいなものですよね??ならばとっても共感できたと思います。

そうです。 勘なんです。 勘と言うのは言葉にするのが難しいんですよね...。

 
出展 2007年01月06日17:32 『論理と感覚』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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