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2006年11月27日月曜日

あいまいなことば (isaan05-c987254-200611272249)

おかあつがミクシコミュニティータイ東北イサーン語研究会として著した記事を紹介します。
あいまいなことば (おかあつ)
2006年11月27日 22:49
最近、タイ語ってあいまいだよなって思うようになりました。

最初は、僕が、タイ語が良くわかっていないからだろう、と思っていたのですが、ちょっと違うような気がしてきました。 ひょっとしたら、僕の回りにいる人がイサーン人オンリーだからなのかもしれないのですが...。


例えば、代名詞です。 英語だったら、 that this it he she they ... と状況によって沢山あるし、a と the があるので、それが何のことを言っているのか、かなり、厳しく特定できるような気がします。

ロシア語だったりすると、数のほか男女中性の別まであってかなりバリエーションに富んでいます。 より、厳しく細かいことを表現できるような気がします。

日本語も、一瞬少ないような気もしますが、「彼」や「彼女」「これそれあれ」の他、「奴」や「こいつ」とか、口語的な代名詞が結構色々あって、英語やロシア語とはまた違った。細かなニュアンスを伝えることができるような気がします。


で、タイ語なんですがニー(これ)ナン(それ)ノン(あれ)のほか「カウ」(それ・彼・彼女・その他) しかないのです。それに、聞いている感じ、「ナン」「ノン」は あまり主語にはならないようで、ほとんど「カウ」の独壇場になっているような気がします。

そうすると、こんなすごい文章... 「カウがカウにあれして、だからカウは、カウに怒ったけど、カウはそう思わなかったから、カウに文句をつけた」 とかそういう感じの文章になることが、極めて多いような気がします。

これって、当事者じゃないと、カウが全部で何人居るかすら判別不能です。 (例えば、この文章だと、カウは、最大6人まで考えられますが、2人かも知れません。 でも1人はありえなさそうです。)


普通に、おしゃべりをしている分には、全然オッケーだけど、お金が絡む話とかになると、いつもこれにイライラするので、最近は、必ず「カウっていうなよ!」って言うようにしています。



参考資料にもあげた「正調イサーン語」のホームページを書いている方は、僕なんかより全然本格的に勉強している方で、イサーン語もタイ語も詳しい方ですが、やはり、日記で「タイ語はあいまいだ」と書いていたのを見たことがあります。 タイ語は、全ての形容詞が後ろについて名詞を修飾する言語だから、区切る位置によって意味が全然変わってしまう文章が出来上がってしまうというのです。

法律的な文章なんかだと、意味が分散してあいまいになってしまうので、とても困るそうです。 また、おかしなことに、法律専門家に電話して聞いてみたりすると、人によって回答が異なったりするそうで、更に輪をかけて困るそうです。



そのあたり来ると、日本語も、結構、あいまいな言葉な様な気がしますが、古くからの「やまと言葉」に加えて、中国語や韓国語から、積極的に言葉を輸入し、足りないところを補うことで、より厳格化した感があります。

そんな厳格化した日本語に対して、タイ語は、厳格化するよりも、敢えてそのまま、あいまいさの中で発展することを選んだのではないか、と僕は思うのです。


そういう気風は、例えば「座禅」の考え方なんかに表れているような気がします。

日本の座禅は、もちろん、色々な見方があると思うのですが、比較的、哲学的なものと結びついているのではないでしょうか。 そういう内面の探求から始まって、それが最終的に「宮本武蔵も座禅を武術に取り入れていた」とかいうような、極めて実践的な応用にも結びついているような気がします。


タイの座禅の目的はずばり「温和になるため」なんだそうです。 僕は、これは、すごく言葉と結びついているように思えました。 あいまいな言葉の世界で、いろんなな人が、いろんな違った解釈をしてしまうわけですが、その違いにいちいち目くじらを立てて怒ったりしないで、そのひとなりの解釈を尊重しよう、と言う柔らかな気風が、僕には感じられました。

(実は、正確を期すために書くと、「怒りを納めるため」と言う風に言われたのです。でも、これは、日本の座禅で言うような「怒りを納める」とはかなりニュアンスが違うのを感じました。だから、温和になるためとここでは書きます。)



国によってそういう風に言葉を「厳格化」したり「柔軟化」したりするように思うのですが、そんな言葉を厳格化した国に、イギリスがあるんじゃないか、と言う気がしました。

僕は、イギリスと日本には、意外と共通点があるよな...と感じる事が少なくないのですが... 今、日本でいじめが問題化しているのと同じ様に、イギリスでもいじめが問題化しているそうです。


恐らく日本もそうだと思うのですが、言葉が厳格になり、論理的な思考を人と人のあいだでやり取りできるようになると、逆に人と人の関係は疎になっていくのではないでしょうか。

厳格になった言葉を駆使して社会は経済的に発展していくんだと思います。 それは、すなわち、綺麗な建物が沢山出来て、道が清潔に保たれて、街が綺麗になって、おしゃれな喫茶店が出来て、色々なサービスが充実していくのだと思います。

でも、往々にして、こういう国というのは、なんというか... 人々の『理想像のスイートスポット』が異様に狭くなるような気がするのです。

男性なら ...「年収が700万円以上あって、背が高くて、学歴はxxx以上で、髪の毛はxxx風で、都内在住、残業はxxx時間以内で...」と言う風に...。 もちろん男性に限らず、女性にだってやはり同様以上に厳しく残酷な理想像が求められていような気がします。

厳格に発展していくと、その理想から少しでも外れると、忙しいばかりで、全然幸福でなくなってしまうという、なんともいえない、本末転倒が発生するような気がするのです。 ひいては、どうせ、こういう状況では、子供を作っても幸せじゃなくて可哀想だ、ということで、少子化にもつながっていくような気がします。


要するに... 言葉が厳密化することで、社会でもたれている価値観が画一化していくんじゃないかな、という風に感じたのです。 画一化した結果、多くの人は、あまり幸せではなくなるような気がするのです。


なんか、こうして、タイにいる西洋人を見ていると、漠然と共通点を見つけてしまいます。 いじめられっこだったり、家庭が複雑だったり、ハゲだったり、体のどこかに欠落があったり ... そんな、自国にいても一抹の居心地の悪さを感じてしまう人たちが、不幸の原因を厳格に追究せずに、あいまいにやさしく包んでくれるタイに惹かれてやってくるのではないでしょうか。


そんな『厳密な言葉』ですが、実は、人の気持ちについて語る単語は、ほとんど持ってないのかもしれないですね....。
コメント一覧
[2]   ケン   2006年11月28日 13:22
タイ語は厳密でない、論理的でない言語だ、という話は日本人のタイ語のプロ、セミプロ、素人などから、しばしば聞きます。とりあえずタイ語で飯を食っている私としても、そう思わされることがあります。
まあ、厳密だ、論理的だ、っていうのは、約束事とか、契約とか、科学で必要な概念なので、当然近代化と結びつくのですが。
で、その様な厳密さ、論理性をもって、近代化に遅れている人たちが食い物にされるのですな。なんせ、タイ国も近代国家の一員なわけで、そうすると当然法律があって、厳密さ、論理性を振り回す連中はそれらを武器として、つまり国家権力にしっかり庇護されて、前近代を淘汰していく。
そこで、前近代を固守するか、それとも負けじと近代の理論で武装するか。
残念ながら、前者で成功した例を、わたしは知らない。
[3]   おかあつ   2006年11月28日 15:55
初めまして(^-^)

>残念ながら、前者で成功した例を、わたしは知らない。

まったくもって、その通りです。

でも、僕は、ちょっと夢想家みたいなところがあるのかもしれないのですが、そこで考えるのをやめてしまっては、イカンのではないかと思うのです。

この文章の中にも出てきますが、僕は「じゃぁ、近代はそのままでうまくいくのか...」っていう風に思っていて、いってないじゃないか、というのが正直なところです。

だからこそ、そこに何かを感じて、日本人やヨーロッパ人が、こうやって、東南アジアに惹かれてくるのではないでしょうか。


最近のいじめの話とか見てると、ホント悲しくなってきますが、今みたいに表面化しただけでも進歩といわねばなりません。 ようやく問題を問題と気づいただけでも、日本もすこしだけ大人になりました。

でも、他のいろいろな国を見ていると、このままモダンな考え方を推し進めた先にあるものは、まぁ... たかが知れているような気がします。

自殺率が上がったり、うつ病が増えたり、アルコール依存症や薬物依存症が問題化したり...。 気持ちが破綻した事が原因で起こる現象は、近代的な考え方だけでは説明が付かないので、それを見まいとする人たちが増えるばかりではないでしょうか。


絶対に、「近代」と「非近代」のその中間という物があるような気がするのです。 ( 僕は前近代という言葉は、その言葉だけで「近代」というステレオタイプに絡まってしまっているとおもうので、使いたくないのです。)


それに、今は、インターネットがあります。

実は、僕は本職はプログラマなのですが、インターネットというのは、その上に書くプログラムによって、社会が大きく変革したりする可能性があるものなので、そこで、考えるのを辞める時代でもないな、と思っています。
[4]   とと   2006年11月28日 16:03
習う側からすると、タイ語のあいまいさ、例えば未来だろうが過去だろうが
動詞が変化しない、てのはすごくありがたかったですね。
法律では困るんですか。
なるほど、それは困るでしょうね…

タイ語のほうが細かい、と思ったのは、「おじさんおばさん」が
自分の両親より年上か年下か父方か母方かで変わってしまうこと位でした。
(それによって同僚の子からの呼ばれ方がパーとかアーとかナーとか変わる)
まあ、困るほどのことではなかったですが…

タイが居心地よかったのは、こちらのタイ語力が乏しくても
周りのジョークで一緒に笑える、ということで、
これもある意味タイ語のあいまいさのおかげかな、と思います。
ひとつ憶えているのが(だいぶ古いですが)、
国王様がTVで言ってた話、ていうのを聞いたんですが、
ある片田舎に視察に行かれたとき、案内の者が
「もうすぐ”ディスコ通り”ですから」と言った。
こんな田舎にディスコ通りとは?と思っていると、
件のデコボコ道にさしかかり、車の中で皆踊るようであった。
これぞまさしくディスコ通り、という話でした。
[5]   ケン   2006年11月29日 15:48
案内人に座布団3枚!
自分でフォローしておきながら、実はタイ語が曖昧である、という意見には全面的には賛成できないのです。
会話や文でそう思える場面にしばしば遭遇しますが、それはタイ語自体の問題ではなく、その使い手の表現力、文化から来ていると思える。で、厳密に表現しようとすればタイ語はその力を持っていると思います。だが、日常生活ではなかなかそれを使うことがない。使わなければ、使えなくなる。てなところかしら…、尻切れトンボですいません。
[6]   おかあつ   2006年11月29日 17:43
ケン様、
>自分でフォローしておきながら、実はタイ語が曖昧である、という意見には全面的には賛成できないのです。 ...

この言葉ですごく思い出す事がありました。

前、誰だったか... ロシアの人だったか... 日本語が結構話せる人だったんですが、日本語は曖昧でよくわからない、と怒ってた時がありました。

聞いたら... 日本人は「予定はどうしますか?」 みたいな事をきかれた時に「また今度にしましょう」みたいなことをよく言うと...。「じゃぁいつなんだ!」と。

僕は、「確かにそれは曖昧だけど、それは、ほとんどの場合断ってるんだよ。 この言葉に限らず、そういう言い回しは、ほとんどの場合、曖昧じゃないよ。」って言ったらショックを受けてました。

タイ語もそういう面が多分にあるのかもしれないな、と思いました。



でも、とはいえ、英語とか勉強すると ... ( 実にうまい言葉が見つからないんですが) 「ん!? 意味、そのまんまやんケ」みたいな印象を持つことってあります。

う....ん いい例が...

例えば、「okay, let's think about it until next time.」と言えば、確実に「じゃぁいつまでにしましょうか」と切り返されるみたいな...。

(階級にもよるでしょうが) アメリカみたいな色々なバックグラウンドの人が混じっている国だと相手がツーカーで話が通じるという事があまり期待できないので、そういう遠まわしな言い方自体が成立しないのかな、と思いました。

味気ないかもしれません。 でも、ちょっと乱暴な言い方ですが、僕的には「楽だなぁ」と思うことも少なくないです。 日本語はそのあたりかなり面倒ですから...。


じゃぁ、って人の心情などを厳密にストレートに文章にしたところで、それが、きちんと人に伝わるのか、と言えば、十中八九伝わらないわけで、難しいところです。

# ちょっと余談になってしまうんですが「The Desert Flower」という本があって、すごく好きなんです。 この本は、また、全然違うバックグラウンドの人に自分のバックグラウンドを語るときの、すごく良い見本だと思いました。

http://www.amazon.co.jp/Desert-Flower-Extraordinary-Journey-Nomad/dp/0688172377


とと様、
>タイ語のほうが細かい、と思ったのは、「おじさんおばさん」が自分の両親より年上か年下か父方か母方かで変わってしまうこと位でした。(それによって同僚の子からの呼ばれ方がパーとかアーとかナーとか変わる)まあ、困るほどのことではなかったですが…

絶対、言葉によって、厚いところと、薄いところがあると思うんですよね...。 一人称が、I 一辺倒の国と、相手によって変化する国と、それだけでもやっぱり、随分文化の違いがありますよね...。

すごく好きなところです。

でも、結構、僕は、未だに、親しい子供に向かって「ポー」って言うの、なんとなく、なかなか気恥ずかしくて勇気要ります。 (^-^;


>こんな田舎にディスコ通りとは?と思っていると、
>件のデコボコ道にさしかかり、車の中で皆踊るようであった。
>これぞまさしくディスコ通り、という話でした。

この話、面白かったです。(^-^)
[7]   サイ   2006年11月30日 03:55
すみません、意見を書くのは遅れました。ちょっと文章が長いので、辞書を開きながら、2-3回繰り返して読みました。(笑笑笑)やっと何となく解ると思いますが、
やはり国によって文化が違ったり、理解するのはどきどき、楽しいですね。
>で、タイ語なんですがニー(これ)ナン(それ)ノン(あれ)のほか「カウ」(それ・彼・彼女・その他) しかないのです。。。。


それは、当事者は一人の時に言うと思います。


>。。。 そうすると、こんなすごい文章... 「カウがカウにあれして、だからカウは、カウに怒ったけど、カウはそう思わなかったから、カウに文句をつけた」 とかそういう感じの文章になることが、極めて多いような気がします。

>。。。これって、当事者じゃないと、カウが全部で何人居るかすら判別不能です。 (例えば、この文章だと、カウは、最大6人まで考えられますが、2人かも知れません。 でも1人はありえなさそうです。) 。。。

そういう文章はタイのギャクで言うかもしれませんが、実際に当事者が多いときは「カウ」の代わりに他の言葉を使うと思います。
[8]   ケン   2006年11月30日 12:48
>味気ないかもしれません。 でも、ちょっと乱暴な言い方ですが、僕的には「楽だなぁ」と思うことも少なくないです。 日本語はそのあたりかなり面倒ですから...。

同感です。でも、面白いかも。
「明日はどうしますか?」「エー、マー、いいですけど。そのー、ちょっといろいろあって。じゃあそう言うことで…」。ファランあたりが聞いたらなんと思うかしら。
民族ごちゃごちゃのアメリカだから、というより、キリスト教的契約社会だからかしら。
一方の日本はムラ社会、ということで、手を打ちませんか。
肝心のイサーン語でもなんとか言えそうな気がするのですが。サイさん、いかがですか。
中部タイ語でも、こんな感じで煙に巻かれた記憶がある。
「で、かれは結局来るの?」
「今、来ないって言ったじゃない」
「…」
[9]   サイ   2006年12月01日 13:13
僕の意見では、日本人は相手に傷つけないためにそう言う文化になるでしょう。タイ語でもそういう人もいると思います。
[10]   おかあつ   2006年12月01日 21:33
>そういう文章はタイのギャクで言うかもしれませんが、実際に当事者が多いときは「カウ」の代わりに他の言葉を使うと思います。

そうですよね。 そう言ってもらえて、自信が出てきました。どうも... その人は、大真面目にギャグみたいな話し方をする人らしい事がわかってきました。
(^-^;;;

普通そういう言い方、しないですよね...。
[11]   おかあつ   2006年12月01日 22:45
>僕の意見では、日本人は相手に傷つけないためにそう言う文化になるでしょう。タイ語でもそういう人もいると思います。

この言葉は、ちょっと思ったことがありました。 でも、それは、僕が日本人だから、そう思うのかもしれません。 もしよかったら、意見下さい。


タイ人も日本人と同じで結構「うらおもて」あるよなぁ... と思うことが結構あるのです。 あまり「本音」を語らないと思うのです。

でも、タイと日本だと、その「ウソのつき方」が全く逆だなと思うのです。


例えば ... 誰かが誰かにお金を貸したのですが、返してくれないとします。

タイだと ... 直接その人に催促するとその人が傷つくだろうということで、まず直接には言わないような気がします。 だから、 例えば「ゴメン、実は、こないだ会社のお金を使っちゃって... あさってまでに返さないとクビになっちゃう」とかそういうようなウソを言うような気がします。 (そうすれば、催促しなくても「あらたいへん!じゃ、こないだのお金すぐ返すね!」と言う事になって、丸く収まる。)

なんというか...日本人の僕的には、相手の「サバイチャイ」を尊重してウソを付くような気がします。


日本だと ... ちょっと違ってて、なるべく「非常識にならないように」ウソを付くような気がします。

お金を返さないという上記のケースは、日本では「非常識」なので、直接「ゴルァ(゚Д゚メ)」と怒って、全く問題ありません。また、それは、ごく親しい友達であっても変わりません。(日本には「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるぐらいです。)

でもお金を返さなかった人は「非常識にならないように」ウソを付きます。 例えば「済みません、実は、先月父方の祖父が無くなってしまって、今すぐにはお金が無いのです... 来月までにはなんとか...。」とかいったホントっぽいウソを付いて、済まそうとするように思うのです。

日本というのは、なんと言えばよいか ... 「非常識」なのが一番よくない事だと考えられていて、自分が、そのコミュニティーの中で「常識的」だという自信があったら、その人を公然とイジメても大丈夫なのです。

だから、日本では、誰もが、自分が思っている事を正直に言う事がとても難しいように感じます。


例えば、日本人は結構贈り物がすきですが、西洋の人やタイの人が贈り物をする理由が結構違います。 タイでは普通に相手を気遣って送りますが、 日本では贈り物をしないのは「非常識」なので、送るのです。 だから、おかしな話ですが... 貰う人も実際には欲しがっていないことがほとんどです。 あげる人もほとんどの人が「面倒だ」と思っています。


普通という感覚 (เหมาะสม) は、普通、場所や人や地域によって全然違うものですが... コミュニティーによっては、かなり不気味な常識が育っていたりするので、僕は、あまり好きではないのです。


でも、これは、僕が日本人で日本を沢山見ていて、タイとラオスをまだあまり見ていないからそう思うのかも知れないのです。 まだあまり日本に客観的になれていないからかもしれません。 僕が、もっとタイに染まって、タイ人に混じって働いたりするようになれば、また違うことを思うのかもしれないのですが...。
[12]   とと   2006年12月01日 23:10
お勧めのDesert Flower、読みましたよ~
英語本に挑戦するつもりが、図書館に「砂漠の女ディリー」て
和訳があったんで、つい易きに流れてしまいましたが。
おかあつさんの言う、異なるバックグラウンド間の理解ができたかはわかりませんが、とにかく、元気をもらえました。
ありがとうございます。
[13]   おかあつ   2006年12月01日 23:14
あっ 和訳あったんだー!!しかも「砂漠の女ディリー」 そんな名前で!
情報ありがとうございます! 実は、ずっと和訳が無いのだと思っていました。
[14]   のかやん   2006年12月03日 11:58
横槍(&新顔)ですみません。
以前、タイ人に聞いて絶句だった「うらおもて」エピソードです。
何人かの人と一緒にいて、その人たちが、じゃぁ、ご飯食べに行こう、という話になったとき、私に「一緒にご飯食べに行く?(Pai Duai Kan Mai?)」と聞いたとします。
これは、私にはあまり来てほしくない、ということだそうです。
逆に、本当に来てほしかったら当然のように「さ、行くよ!(Pai Duai na, Pai!)」となり、疑問形にはならんそうです。

それまでに「Pai Duai Kan Mai?」と聞かれた時のシチュエーションを回想してしまいました・・・。
そういうのを察するのって、難しいですよねぇ。
[15]   サイ   2006年12月03日 12:13
そうですね。おかあつさんの意見は僕も賛成です。あげた例、僕にそっくりです。友達や親友にもお金を貸したら、自分から直接に聞くのは言ったことありません (--)”なかなか言いづらいです。
[16]   おかあつ   2006年12月03日 18:17
>のかやん様
初めまして... (^-^)

>私に「一緒にご飯食べに行く?(Pai Duai Kan Mai?)」と聞いたとします。
>これは、私にはあまり来てほしくない、ということだそうです。

ハッ!( ̄ロ ̄;;;; 言われてみれば... 確かに...(笑)

確かに、本当に一緒に行きたい時は、有無を言わさず無理やり連行されてた...(笑)

そうか ... っていうことは、行く?と聞かれた時は、
日本みたいに遠慮するのもアリって事なんですね。

>横槍(&新顔)ですみません。
とんでもないです... (^-^)

出来たばかりで、小さくて、ニッチなコミュなので、
遠慮なくお願いします (^-^)
[17]   おかあつ   2006年12月03日 19:26
>そうですね。おかあつさんの意見は僕も賛成です。あげた例、僕にそっくりです。

(^-^;;

良かったです。

最近、イサーンにいて、日本人って乱暴だよな... と思うこと結構あります。 (僕がかなりイサーン化しているという説が ... 大ですが...) (^-^;;
 
出展 2006年11月27日 22:49 『あいまいなことば』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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