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2006年8月16日水曜日

ひとりでやらなくてもいい (mixi05-u459989-200608162244)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
ひとりでやらなくてもいい
2006年08月16日22:44
人工衛星の軌道を計算する方法を調べているうちに、衛星の位置を計算する計算式を異様に具体的に知っている、こんな人のホームページを見つけた...

http://homepage3.nifty.com/anoda/oldpage/space/mlab06/mlab06.htm

この人は、JPLにいたことがあるということが書いてあった。只者ではない感じがした。

ところで、その人がこういう事を書いているのを見つけた。

http://homepage3.nifty.com/anoda/weblog/20050424.html

確かにそうかもしれない。

僕もそれはすごく良く思う。

言い換えれば、日本人が得意なものは、全て、「一人で出来る作業にコンパクトにまとまるもの」に限られているような気がする。 僕はこの人が挙げた日本人が得意なものリストに是非「マンガ」を付け加えたい。

マンガは、ある程度は一人で出来る創造作業である。 塗りつぶしとか、そういう手作業は人に頼むかもしれない。 でも考える作業自体は基本的に一人で行うものではないだろうか。

また、この人は、何故、日本人にそういう傾向があるのか、こう分析していた。その一部を引用してみたい。


>日本人は、極めて諦めが悪いというか、プライドが高いというか、「自分が有限の能力しかない人間であること」と言う当たり前のことを受け入ることができない。だから、何でも精進・努力さえすれば、物事が解決すると考えてしまう。それは或る意味、人間を超る超人になろうという無駄な努力に似ている。
(snip...)
>日本人の場合、さっき書いたように『「より良いもの」、「より高性能なもの」「より高機能なもの」「より複雑なもの」「より大規模なもの」を作るためには、精進して「モノ自体」に精通できるように努力する事が大事だ。』と、本当に精進・努力をする。

僕はこれは、違うのではないかと思う。

日本人は既に答えが出ている問題に対してしか、問題意識を共有できないからだと、僕は思う。 例えば、斬新な思い付きに対する日本人の典型的な対応って、こういうことではないだろうか。

───────
例1)
A:「小惑星帯で物質を補給すれば、地球に戻ることなく火星での探索を続けられるぞ!すごい思い付きだ! あなたはどう思いますか?」

B:「あっそう。」

───────
例2)
A:「例のアメリカの火星に行った探査機みたいなやつ、おんなじ様なヤツ作れない?」

B:「イイねぇ!やろう!」

───────

極端かもしれないが、ほとんどの場合こんなかんじでは無いだろうか。

一般的な日本人は、既に出来上がっている解決策に対してしか興味を示さないから、創造的な作業をするにあたって協力者を得ることが極めて難しく、やむを得ず孤独にならざるを得ないのではないか。

せっかく良い思いつきを持っても、結局「クソ、いつか見てろよ」と孤独に努力を重ねて認められる、という典型的な例であるような気がする。

西洋だと、こういうまだ解決していない問題に対しても、まだ見ぬ理想的な状態をイメージでき、かつ、それに対してどうやって近づいていくのかを具体的に考えていく事ができるのではないかと思う。

そこが、合理性を兼ね備えたネオアジア(※1)に最も欠けている要素ではないかと思う。




(※1)ネオアジアというのは、僕が考えた言葉です。

西洋が合理性・理論を重視する事に対して、アジアというのは、相手の事を考え、内面・哲学性・精神性・やさしさ・気持ちを重視した心の文化であると、僕は考えました。

しかし、日本のように、一般的なアジアと異なって、合理性に基づいて行動する習慣がある国もある。 こういう国をネオアジアと呼んで区別したい。

ところが、ネオアジア的な国では、合理的に考えれば間違っているのに、何故か、まかり通ってしまう事とか、ちゃんと討論してたださなければならないのに、相手と衝突する事を避けてそのままになっている、よくわからない問題が、はびこっている事がある。

これは、アジアのよさと西洋的合理性のよさが矛盾してぶつかっている領域で、いわゆる、ネオアジアの限界だと僕は考えた。

これをいかに打破していくのかということが、ネオアジアにとって大切な事だと僕は思う。
コメント一覧
さい   2006年08月18日 04:39
なるほど~。

JPLの人の言う、
「部品数問題」は「身体感覚」によるものなのかしらね。
私は装置のデモンストレーションをやっていたんだけど、
大きい装置は何か嫌。
例え操作が簡単でも、なんか、大きいだけで扱うのがいやになる。

私の場合は電子レンジくらいの大きさまでなら嫌じゃない。
手のひらに乗ればさらに良い。
もし私がもっと大きかったら、大きい装置もそれほど嫌じゃないのかもしれない。

「日本人は極めて諦めが悪い」
のもすごく納得させられる。
まさに日本人の自分が諦めが悪い職人気質であると思い当たる。

「既に答えが出ている問題に対してしか、問題意識を共有できない」のは日本人でなくても当たり前じゃん、と思ったけど、
おかくんのあげた例を見ると確かに「日本人」にはできないことで、欧米人にはできることに思える。

私はよく色んな「妄想」を考える。
例えば、「タンパク質折り畳みロボット」だとか
「軽くて丸めて持ち運びできる大型望遠鏡」だとか
「勝手に充電して勝手に自分で組みあがる大型望遠鏡」だとか
「銀座で星空を楽しむ方法」だとか、
そういうことを考えるのは楽しいけど、
「妄想なんですけど」と「話題」として楽しむことはできても
「実は熱中している」とはよほど親しくないと話せない。
確かに他人に相談できるような環境ではない。

「ネオアジア」をおかくんが考えるにいたったのは
どうしてなのだろう。
私は夜間中学である国の大勢の方と学んだけれど、
「内面・哲学性・精神性・やさしさ・気持ち重視」
は感じなかった。
どちらかというと、「がさつで利己的」
日本に来るような人がそういう性格なのかな。
おかあつ   2006年08月18日 05:20
僕はプログラマで、それこそ『箸より重いものを持たない』人種なので、確かにちょっと感じ方が違うのかもしれない。

でも、たまにいるかなぁ... 僕は体育会系プログラマって呼んでるけど、とにかく努力したがる人。

プログラムって言うのは工夫しないといくらでも大きくなるし、大きくなってくるとだんだん、人間が同時にに注意できる限界量を超えてくる。 大きくなってくると覚えきれないからだんだん間違えやすくなる。

そうなると、根本的に大きくなってしまう原因を追究して直すのが一番いいんだけど、体育会系プログラマは、考えるのが苦手なので、頑張る。 すなわち、考えないで とにかくその延長上で全部の問題を把握する努力をする。

こういう奴らっていうのは、そういうややこしい問題にも、異様な集中力を発揮して、巨大なプログラムを修正する。 そうするとすごくやりがいもある。仕事が終わるとビールを一杯飲んで「いやー今日も良く働いたなー」と感慨にふける。

そういうプログラマは、実はダメダメだ。

良いプログラマは、そういう努力すらしなくてよいように工夫する。 プログラムは小さくなる。 だから、間違える場所が少ない。 問題が発生する場所がなければ、問題は発生しない。

だから、良いプログラマは、働かないで寝てばかりいる。

より効率よくする努力も、ともすると『横着』という言葉で片付けられてしまう事がある。 何か、努力を節約する行為に罪悪感でもあるかのようだ。

そういわれてみれば、この方の意見も、もっともと思えてきた。


>「がさつで利己的」
それはなんとなく聞く前から中国人の事である様な気がする。

僕はタイにいるから、すごく印象が違うのだと思う。 昨日話題にした中国のリアルメイドの話もそうだけど、中国の人は基本的にすごくガサツだ。丁寧で温和なアジアの他の地方の人とは随分違うと思う。 僕が良く知っている ラオスの人・タイの人は、一般的に すごく丁寧で温和だ。

でも、中国って言うのは、巨大な国なので、地方によって全然違う。 言葉も違うし、それこそ「山を越えると文化が違う」とすら言われる。 例えば、僕が付き合いがある中国人は、丁寧で礼儀正しく義理堅い人が多い。 そういう中国人もいる。

タイの田舎にいる中国人は、これまた人によって千差万別だけど、かつて見たこと無いほど、極端に失礼な人って良く見る。 これもまた中国人と思う。

アメリカにいた中国人は、とても親切で丁寧だった。 アメリカ人からは、気をつけろ気をつけろ言われたけど、僕は大好きだったなぁ... 中華料理おいしいし。

中国は難しい。
出展 2006年08月16日22:44 『ひとりでやらなくてもいい』