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2020年6月27日土曜日

関西とBlackLivesMatter (oka01-atgbutcwfkyxgtce)

日本人はとても閉鎖的で差別的だ ─── 都心部以外では。そういう国で BlackLivesMatter を唱えたらどうなるだろう。


関西人の#blacklivesmatter

ブラックカルチャー/ファッションが好きな関西人が blacklivesmatter の時流に乗って差別反対を唱えている人が増えているが、ファッションとして気軽に叫んだらものが思わぬ方向にバックファイヤーを起こして自分自身に戻ってきて、自分の尻に火がついてしまって大騒ぎしている様にみえる。

僕ははっきりこれだけはいいたい。差別は良くない。

大きな街では、誰もが良い癖もあり悪い癖もあり、色々な癖があるなかでお互いを許して受け入れ合いながら生活している。こうして助け合いながらお互いが豊かになり街が大きくなり文化が育ち面白いものが生まれ ─── 発展していく。差別というのはこういう『街の発展』の営みと逆行するものだ。

誰もが東京に来ることができる。出身地方によって差別されることなく誰でも入ってきて誰もが権利が保証される。東京の人は誰もがオープンで誰が来ても仲良くできる。僕はそう思う。また僕はそう小学校の頃から教育されてきた。また、それはそうでなければいけない筈だ。

だが、東京に来ているのにいつまでも差別という悪癖を引きずる人は実際のところ大勢いる。差別はまた違う差別を呼び込んでしまう。差別は病気の様にどんどん広まっていく。差別は巡り巡って最終的に自分の首を絞める。だが意識が低い人は、何が差別行為なのか認識自体が正しくないので、差別がやめられない。

人によってキャパシティも違う。何色の人が来てもどっしり落ち着いて対応が一切変わらない人が理想だが、ちょっとした違いですぐ目一杯になってしまう人もたくさんいる。そういうキャパシティの違いも許して受け容れてその人に合わせなければいけない。それは東京に居たらごく普通のことだ。

僕は少数民族言語が喋れるのだが、それを学ぶ時には自分自身が微塵の差別心を見せてもいけない状況だった。些細な差別心からでた行動でも、それはすぐに命の危険にも繋がるのが普通だったので厳格に守る必要があった。僕が殊更に差別に敏感なのはそれが理由だ。

だが結果として少数民族の人らは極めて差別的でどんなに完璧にその文化を学んで身につけても、決して自分の民族として異民族を受け入れることはない…ということも思った。

僕はそういう異民族とのふれあいの中で差別心の力学を理解する能力が身についたようだった。だが結果的に東京で関西人を見ていると非常に苛立つようになった。何故かというと、差別はやめろ!と東京に割り込んでくるくせに、自分自身は非常に差別的で他人への差別をやめる気が更々無い...ということが見えてくる様になったからだ。こちらがいくら関西人を差別しないように気遣っても関西人は関東人に対する差別をやめない。こちらは受け入れる一方通行の虚しさを感じる。

また関西人同士も非常に仲が悪い。兵庫と島根くらいでも強烈な反発心があって、これが全国区で平等というゲバ棒を手に入れて大喧嘩する。東京というのは言われたことを真に受ける人(=差別がない=誰が言う理不尽と思えることも全て尊重する)が多い。関西的痴話喧嘩は東日本的秩序を粉砕する。

自分が差別されるのはいい。仲間が差別される時が難しい。僕は京都人の親しい人が多いので『あぁー京都人はなぁ』的に京都人を差別する人を見れば僕としてもとても残念だし、一方京都人も相手によってコロッコロ態度を変えるので驚愕である。それはローカルルールでは許されても全国区ルールでは許されない。

関西人は他地方の関西人を差別するとき関東人の真似をしながら差別するので、余計にたちが悪い。関東人は関西人のようなエグい差別のしかたはしないので僕はすぐに見分けられるが、見分けられない人は当然萎縮する。これも健全でない。

差別を見過ごすのも差別

BlackLivesMatter を叫んでる人達は「差別を見てみぬふりをするのも同様に差別」と言っている。僕はこれに心から賛同したいのだ。だが…

「差別しないだけでは不充分。差別に反対しなければ差別してるのと同じ。」


もし社会を変えたいなら反対せよ!  見てみぬふりするのは差別と同じ。


これは日本語でいえば「いじめを見て見ないふりをするのはいじめと同じ」ということと同じではないだろうか。いじめも差別だ。

実はある知り合いの関西人(とカミングアウトはしていないが僕が勝手に大阪人と気付いている、とあるブラックカルチャー系の非常に才能あるミュージシャン)に上記の旨を言ったら、それを飽くまでも個人の自由でなければいけない、と言い放ったのだ。これが残念で残念で、言葉に言い表せない。

おまえはソウル系大阪ミュージシャンちゃうんか、と。

だが本人はもう完全にキャパシティーオーバーになってしまっていて、これ以上きつくいうと潰れてしまいそうだったので、これ以上は言えなかった。これによって激しくモヤモヤが残った。

僕は「僕個人的にはそれでもいいと思う」と言った。だが本当はそれではダメなのだ。それでは街者として失格なのだ。こういう差別を容認する姿勢では僕に大阪人は釜山に帰れくらいのことを言わしめてしまう。これでは差別に歯止めがかからないだろ、と言わねばならない。だが言えなかった。

彼は大阪人であることをカミングアウトしていない。自分がいじめられたくないから、他人をいじめる、いじめるから自分もいじめられるという差別の無限連鎖に落ちている。だから大阪人であることもカミングアウトできない。だがそこにどうやっても視点が向かない。向いてくれないのだ。



著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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