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2014年8月19日火曜日

自分を隠さない(ドラフト) (oka01-coebgciirshnvkpi)

自分を隠さず、ありのままの自分をさらけ出して勝負することは、とても勇気の居る事だが、都会で生きていくにあたって必要な事でもある。 だが「等身大の自分」は、果たして日本社会の中でどの様な受け止められ方をするのだろうか。

僕の考えは、全くまとまっていない。 だが思いついたことを列記してみたいと思う。恐らく、これを読んだ全ての人から、この僕の思いが僕の思ったとおりに理解されることは、ありえないだろう ─── かつて同じことで激しく悩み苦しんだことがある人だけが適切に理解しうる。


そんな未だ見ぬ友の為に、ここに気付いたことに関するメモを残すものである。


最近僕は、コンピューターを駆使して3Dグラフィックスや音楽作成などに取り組んでおり、しばしば電線や分岐線などの小物が不足となる。バンコクにはこういう電気小物を扱っている店が無数にあるので、しばしば電気街に買い物に行く。

そこでしばしば僕は思うのだが、店に入ろうとすると店員さんと目が合う。そしてニッコリ笑顔・スマイルの交換がある。そして次に「済みません、◯◯ありますか?」と話しかける。すると一瞬だが、店員さんががっかりした様な表情を見せる事がある。何故なのか。 これが非常に気になっている。

実はこのガッカリは、僕がウドンタニに居た時にはもっと頻繁にあった。タイ東北地方のウドンタニの場合、田舎町なのでもっと人間関係がベタベタだ。よって客として店に行くのではなく、友達として店に遊びにいって、菓子などの差し入れをして一緒に談笑しつつ菓子を食べて帰ってくる、というようなことが日常的にある。 店員さんは大抵雇われで、店の経営などに興味はなく、少ない客の中で時間つぶしに退屈しているので、こういう来賓を歓迎している面がある。

よって、店に入って店員さんに「◯◯ありますか?」と話しかけると、「何だ客かよ」とでもいうべきガッカリした雰囲気というものが存在する。つまり「何だ遊びではなくて、仕事かよ」という様な雰囲気だ。

だがこれがもっと極端なこともある。道端のコーヒー屋さんなどの場所で、コーヒーを頼むとガッカリされたり、道端の定食屋でご飯を注文したらガッカリされたりする。ある視点から見ると、飯屋で飯を頼んだのに「ありがとうございます!」ではなくガッカリされるというのは、客として見ると、激しく意表を突いている。

だけども恐らくタイでは、仕事は飽く迄も生活の手段であって、人生の全てではないのではないか。仕事は必ず滅私奉公で私情を挟むことは一切許されない日本と違うのではないか。 タイでは、この様な道端の定食屋ですら『ビジネスライク』に飯だけ食べて帰ってくるというのは、ある意味、そこに何の人情も味気もないものであって、出来れば避けるべきであるらしい。 よって「客」「店員」という立場を超えて、世間話や日常の愚痴などを交えつつ、談笑して帰ってくるというのが、タイでの理想的な人間関係なのではないだろうか。

僕は、東京育ちの東京者だが、自分の気持ちを外部に見せるという行動に対して、ほとんどトラウマとでも言うべき恐怖心がある。店員さんの笑顔を見て、気を使ってお菓子の差し入れなどをして、談笑などをしようとすると、大きな問題となることが殆どだ。店員さんの笑顔は飽く迄も作り笑いであり、店員さんの意思表示は全て本心でなく、談笑も苦痛を堪え、面白くないギャグを笑い、つまらない話題に興味を示し、と精神力を摩耗しているところに、お菓子の差し入れと談笑などをした日には、逆ギレされ、警察を呼ばれかねない。 当たり前である。

東京人は人情を顕(あらわ)にする事は非常識なことと認識しており、この様な「本音」と「建前」の存在を意識することすらない ─── 否、僕の友達の東京人は、意図してこのような非常識な事(即ち、人情のある行為)を敢行し、撃沈するということに深い意義を感じている者も多い。生まれてからずっとこの様な非人間的な街で育っていたら、この非人間さをどのように打ち破るのか、そこに意義を感じるのは必然だ。 人情を顕さない非人間的さに果てしない意義を感じている東京人が、果たしてどこから来たのか。僕にはよくわからない。

話がそれたが、僕はこういう人間的に腐敗している東京で育っている為、店員さんの笑顔に対して、非常にトラウマ的な警戒心を持っている。それは無意識の内に刷り込まれており、無意識の内に相手の笑顔を信用しない様に、脊髄反射的な反応が出来上がっている。

だがこれが逆に、タイでは人間関係上のしこりとして働いているのではないか、と最近感じる。タイ人は、人間関係上の表現が日本人と比較にならない程、ストレートだ。

バンコクで最も大きいオフィス街であるサラデーン駅の側のコーヒー屋さんの女の子が、仕事を抜けだして来た日本食レストランの板前さんと、店でしゃべっていたりする。僕はこういうのをみて「あぁタイ人はこうやってナンパするのか」と思ったが、むしろこういうコミュニケーションの方が普通だ。それは異性に声を掛けるだけでなく、同性でも同じだ。そこに人がいれば、声を掛けて挨拶し、近況を伝える。よって話しかけないというのは、非常に奇特な印象を与えるらしい。


アメリカの流行歌などで「自分に素直になる」とか「自分を隠さない」とかそういう様な歌詞が連発するものがあるが、僕はこの考え方が好きだ。 自分がどういう人間なのか、それは見せなければ他人からはわからない。恥ずかしがって自分を隠していると、友達になれる人間とも友達になることが出来ないではないか。よって自分から積極的に自分を隠さずに外に出すべきだ。

僕は見かけが激しく日本人なので、僕がどんなにタイ語が上達しようが、ほとんどのタイ人は僕がタイ語が上手だとは夢にも思わない。よってもっと積極的にタイ語を話してみんなにタイ語が話せるところをアピールしなければ、誰も僕がタイ語が話せるとは思わない。

僕は自分を隠すべきでない。



一方、自分を隠さないというのは、相手が、ありのままの自分を受け止める寛容力を持っていることが必要でもある。いくら自分が寛容でも、相手が寛容だとは限らない。アメリカの場合、色々な民族の人が混在しているので、大抵の人は「度胸が座っている」。黒人が来ようが、白人が来ようが、ラテン系ノリノリのオッサンが来ようが、態度は変わらない。よって自分が「物凄く変だ」と思う事をしても、大抵の人は大真面目に「なるほど」と話を聞いてくれる。

日本(京都や大阪・東京などの大都市以外の人)の場合、自分との差に対して寛容性が極度に低い人が多い。驚くだけでなく「ちょっとそれは社会人としてどうなんでしょうか」とか「大人気ないですよね」などと、もっともらしい理由を述べて相手の人格を拒絶するタイプの人間が多いのではないか。

あるいは、相手のノリと自分のノリの違いを理解できずに、相手が面白いと思っていないギャグを延々と発して相手をうんざりさせてしまうタイプも多いのではないか。

また僕はどうも東京では、どんなに相手を気遣っても相手から「気遣いがない」と批判される強い傾向があるので、迷惑を掛けない為に取れる唯一の方法が「喋らない」という場合が多い、ということもある。

全ての人間に合わせることなど、無理だ。だが全ての人間に合わせないと「気遣いがない」と言われる。時間は有限だ。全ての人間の文化や気質を研究し、それに適合した行動を取るように自分を訓練することなど、不可能だ。

また僕としては、往々にして「目も見ない」「口もきかない」「話もきかない」そういう人間からしばしば「気遣いがない」と言われ、非常に不条理な気持ちになることが多い。何を気遣えばいいのか、その意思表示すらない人間に、気遣いがないと言われると、それを理解出来るのは超能力者だけではないのか、といいたくなることがある。 一方、彼の地元の人は、何も言わなくとも理解してくれるのであろうが。

とはいえ、相手の表情を見ずに、面白くないオヤヂギャグを連発してうんざりさせても、良くない。



タイでは民族がある程度はっきり分かれているので、人間関係が日本よりもスムーズになりやすい面があるのではないだろうか。例えば前述のコーヒー屋の店員さんと、日本食レストランの板前さんは、双方イサーン地方(タイの東北地方)出身の方だった。タイの東北地方は、日本の総面積と同じくらいの面積があり広大だ。人口は2000万人位あるらしい。彼らは隣のラオスでは標準語とされるラオス語の一種を話している。 これだけ広大でも、方言の差異は日本と比べるとずっと小さく、発音の違いがあっても慣れでカバー出来る程度のもので、意思疎通に深刻な問題が生じるほどではない。

※ 僕が、イサーン人と他のタイ人の見分けがつく、という話をすると、嘘に決まっている思い込みに過ぎない、と強く批判する日本人が多数いる。だが僕は、イサーン地方の方言=ラオ語の方言を勉強し、その文化をよく知るに連れ「どう見ても見間違えるはずはない」という程大きな違いがある事を知った。特にイサーン語が話せる様になってからは、見間違える確率はかなり減った。 僕を名指しで「思い込みが強い」と強く批判する人間に、その違いをひとつひとつ解き明かすことは可能だが、往々にして彼らは、その違いを見ていくほどの人間観察力の根気強さが無いことも事実だ。思い込みが激しいのは一体どちらなのか、と僕は強く問いたい。問い詰めたい。

タイでは、南部のマレー系の人、東北イサーン(ラオ系)の人、北部の人、中部の人、東部の人、華僑(潮州系の人)と大まかに分かれている。混血が進んでも、潮州+ラオ、南部+ラオ…という様な大まかに区別くらいはつく場合がほとんどだ。これが民族だ。風貌・性格・特技・好み・言語などが完全に共通な人の集団であり、それぞれが住み分けている。

経営が苦手なタイプが多いラオ系の人に、高度な経営スキルを求める人などいない。期待しても、期待された相手を辛くさせるだけだ。ラオ系の人は経営以外に得意な事がある訳だからそこに期待すればよい。或いは、いくら経営が苦手なラオ系の人でも、ラオ系の人に教えるコツみたいなものがあって、それをわかっていれば、きちんと仕事をしてもらえる、というようなコツがよく知られているということもある。

民族の見分けがつくから、期待できるもの、期待できないものがはっきりしている。相手が好きなもの、好きでないものがはっきりしている。

努力や訓練では絶対に変わらないものがある。それが民族的な気質ではないか。



日本の場合、この辺の事情は恐ろしく混乱している。

まず出身と風貌・気質(民族性)が一致していない人が非常に多い。全体的に見れば、地域として大まかな違いは見えるが、個人を見てその出身を当てられるほどには、その違いがはっきりしていない事が多い。よって風貌を見て、その人の気質や好みなどを推測することが非常に難しい。

また相手の風貌を見て、相手の好みや気質などを見抜くスキル「大陸サバイバルスキル」を持っている人と、持っていない人が混在しているということも、日本の人間関係の混乱に拍車をかけている面があるのではないか。

タイでは大抵の人がこの「大陸サバイバルスキル」を持っている。だが日本では「大陸サバイバルスキル」を持っていない人が多く、かつ、持っている人も一定数いる。

(こういう話をすると「大陸サバイバルスキル」を持っていない人は必ず「実験してみよう」などと言い出す。それで大陸人の写真を1000枚位集めて、それを被験者に見せて、出身を当てさせるテストなどを行う。それで当たる確率が低いのをみて、ほら見ろ「大陸サバイバルスキル」など存在しないだろ、と結論付ける。結論付けたがる。「大陸サバイバルスキル」は、実際には、風貌だけでなく、歩き方や身のこなし、話し方、声色、何かを言うタイミングなど、動きのなかでの観察によって成される場合が多いのだが、「大陸サバイバルスキル」を持っていない人は、その点に視点が及ばない。

一方で「大陸サバイバルスキル」を持っているタイプは、こういう実験によって物事を証明するというような、学術的なスキルが苦手なタイプが多いのも事実で、こういう「大陸サバイバルスキル」の無い人間のいう理屈っぽい批判に対して「んなもんはフィーリングや」的な批判でおざなりにする場合が多いのではないか。)

日本社会に於いては、相手の人間に何も前提をおけない。



僕は「自分を隠さない」ことは大切だと思う。だがこれには、あまり普遍性がないのかも知れない。

何故なら、日本には「自分を隠せない」というタイプの人も沢山居るからだ。「自分を隠せない」タイプの人間には更に2種類が存在する。ひとつは自分を隠せないし、隠すつもりもない人間だ。これは正直な人間だ。だが、自分を隠せないのに必死で自分を隠そうとしている人間もいる。こちらの人間は正直ではない。こういう人間に、自分の正体が暴露されると激情して周囲の人間の攻撃を加え始めるタイプが多いのではないか。

よって日本社会の中では「自分を隠さない」という言葉には、あまり普遍性がないのではないだろうか。

無限の時間、自分を隠しつづけられる人間はいない。自分を隠してもそれは、有限の時間の中で、必ず暴露される。それが世の中の常ではないだろうか。自分を隠すスキルが高いか低いかによって、自分が暴露するのが早い人間、遅い人間といるだろう。だが遅かれ早かれ、必ず隠している自分は暴露される。

その暴露された瞬間に、「自分を隠さない」人間との間で、激しい摩擦を起こすのではないか。

自分の正体が暴露されてしまった時、帰る故郷があれば、そこに帰れば良い。だが東京者は暴露されようがされまいが、帰る故郷は東京にしかないのである。




僕は同調圧力が嫌いだ。だが一方で、日本社会の中で生活する上で、どう考えても問題外な人間というものも存在する。延々と不条理な理由で他人を否定しつづけ、かつ身辺で看過しがたい問題を起こし続けているのに、それを「お前が悪い」と延々と他人に責任転嫁し続けるタイプの人間も居る。 前向きに行動する人を妬んで延々と妨害し続けるタイプというものも居る。 日本国内には、同調圧力がある。同調圧力があるからこそ、こういう『問題外な人間』の大量発生が防がれているという面もある。



日本社会でのセクハラなどの対応などを見ても、日本社会の混乱は観察できるのではないか。セクハラを受けたら、まずそれを否定する事が大切ではないか、と僕は思う。否定しないのにセクハラをされた、というのは自己責任だ。だが社会的に立場が弱いので、否定できなかったというなら、なるほど、否定されていなくても、相手に性的なコミュニケーションを求めたら、セクハラだということになる。

ではセクハラになる性的なコミュニケーションと、セクハラにならない性的なコミュニケーションの違いはどこにあるのだろうか。 僕の考えでは、拒否されたのに強引に性的なコミュニケーションを求めたらセクハラだ。だが性的なコミュニケーションを拒否されていないにも関わらずセクハラになるのなら、社会に於いて、性的なコミュニケーションは一切出来ないことになる。

これが原因となって、甚大な性的コミュニケーションの機会ロスが発生している筈だ。

1.性的コミュニケーションを拒否→強引に性的コミュニケーションを求める→合意
2.性的コミュニケーションを拒否→強引に性的コミュニケーションを求める→セクハラ
3.性的コミュニケーションを肯定→強引に性的コミュニケーションを求める→合意
4.性的コミュニケーションを肯定→強引に性的コミュニケーションを求める→セクハラ
5.性的コミュニケーションを拒否→強引に性的コミュニケーションを求めない→合意
6・性的コミュニケーションを拒否→強引に性的コミュニケーションを求めない→セクハラ
7.性的コミュニケーションを肯定→強引に性的コミュニケーションを求めない→合意
8.性的コミュニケーションを肯定→強引に性的コミュニケーションを求めない→セクハラ

日本にはこの8通りの全ての考え方の人が混在している。
自分がこの8通りのどの考え方なのか、言わなければ誰もわからない。
だが、それを言うとそれはセクハラだという人、それを言わないことこそがセクハラだという人が混在している。


1.性的コミュニケーションを拒否→強引に性的コミュニケーションを求める→合意
      →  「ちょっと強引な男性は素敵。」

2.性的コミュニケーションを拒否→強引に性的コミュニケーションを求める→セクハラ
      →  「強引さが魅力と思っている勘違い野郎。」

3.性的コミュニケーションを肯定→強引に性的コミュニケーションを求める→合意
      →  「ちょっと強引な男性は素敵。」

4.性的コミュニケーションを肯定→強引に性的コミュニケーションを求める→セクハラ
      →  「社交辞令が見抜けない勘違い野郎。」

5.性的コミュニケーションを拒否→強引に性的コミュニケーションを求めない→合意
      →  「ブサメンは身の程をわきまえて然るべき。」

6・性的コミュニケーションを拒否→強引に性的コミュニケーションを求めない→セクハラ
      →  「女性から求められるわけない。それを見抜けないデリカシーのない男性。」

7.性的コミュニケーションを肯定→強引に性的コミュニケーションを求めない→合意
      →  「お前みたいなブサメンに、あたしが興味持つ筈がないだろ。ドアホが。」

8.性的コミュニケーションを肯定→強引に性的コミュニケーションを求めない→セクハラ
      →  「あたしの誘惑を断るとは、女性のプライドを何だと思ってるのか。」




タイの人間関係は日本の人間関係ほどは混乱していない。タイはどうもセクハラが許される面があるらしい。まず、好意を持ってない女性に男性がセクハラをした場合、女性から容赦のない物理攻撃を受ける。それは手痛い経験ではあるが、日本の様に、性的コミュニケーションが即座に法的処置につながり、問答無用で警察に連行されるというようなことは、少なくともタイではなさそうだ。

ここで「タイでは」と書いたが、これと近い話はアメリカでも聞いたことがある。興味のある女性には積極的に近づいていってベタベタしなければ、相手に好意があるということすら伝わらない、と言う。この話を僕はある日本人女性から聞いた。西洋人はどんどんベタベタしてくると。 日本だったら即警察に逮捕される様な状況である。

言っても怒られる。言わなくても怒られる。触っても怒られる。触らなくても怒られる。恐らくだが、ここまで人間関係が混乱しているのは、日本だけだ。



自分を隠している、そして真実の自分が暴露される事を恐れている。そういう人が持つ心情には2種類存在するらしい。ひとつはその理想の自分と現実の自分のギャップの激しさを直視し、それが大きな自己嫌悪となって強い劣等感を持っているタイプ。そしてもうひとつは、その理想の自分と現実の自分のギャップの激しさを直視するつもりは毛頭なく、そのギャップがむしろ独特な優越感を生み出して、延々と他人を卑下し続けるタイプだ。

心理が生じる根源は同じなのだが、結果として現れる心情が真逆になるところが、僕は興味深いと思う。

また結果として起こる行動も2種類ある。ひとつは、巧妙な詭弁を使って相手の論理を否定することで事で自分を守ろうとするタイプだ。もうひとつは饒舌さと感情的な抑揚を持って相手を感情的に侮辱することで、自分を守ろうとするタイプ。



僕は今、タイに居るわけだから、日本の複雑な人間関係のことなど考えずに、タイのもっと自由な人間関係を楽しめばよい。だがタイで大陸の人間関係を見ていると、日本人として、日本の極めて独特で混乱した人間関係のことを思わざるを得ない。

だが、日本の外を見たことがない日本人に、日本語でそれを指し示しても、恐らく全く理解されないだろう。日本の外を知らないからこそ、日本はこの極めて独特な人間関係文化を維持できる訳であって、もしもそれが簡単に理解出来るのであれば、日本は今、日本ではなかった筈だ。

だがそれでも、僕と同じく都市で生まれ、僕と同じ様に出口のない迷路で悩んでいる、恐らくは決して大多数ではない人の為に、このメモを残しておこうと思う。


『あなたは、他人にあわせられない訳ではない。これでは、あわせようがないだけだ。』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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