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2018年6月9日土曜日

野球観戦して思ったこと(oka01-obldmevlwhvlkcei)


東京ドームの無料チケットが手に入ったので、初めて野球を見に来た。長年に渡る外国暮らしから帰って改めて見る日本の野球に、色々なことを考えさせられた。

ここで考えたことを文章にしてみた。僕が感じている違和感の正体がはっきりつかめず、散文のようになってしまったが、敢えてまとまっていない現状のままで残して見たいと思う。

初めての野球観戦

初めての野球観戦は、実に楽しかった。大勢の人が野球を応援して、一体感がある。来ている人の世代に偏りがなく、みんなで楽しめる。気軽にビールを飲みながら楽しめる。要人みたいな人が護衛付きで歩いていたりするので、「街にいる」という実感を味わえる。モデルみたいな綺麗なビール売りの女性がたくさん会場を走り回っており、それを見ているだけでも、楽しい。

僕がやっているプログラミングやジャズは、マイナーな世界なので、大勢が楽しめるというものではないし、付き合っている人もどうしても偏りがちなので、いわゆる「普通の人」がたくさん見に来る野球は、新鮮だった。

新鮮だったが、見ているうちに、色々と腑に落ちない点が出てくるのも事実だった。

大衆娯楽の聚落

東洋経済の という記事があった。野球中継がテレビで放映されなくなってしばらくたった。(僕は日本にいなかったので、知らなかった。)

ここで書かれている内容は、野球復興を願う希望的観測も多く含まれる様に思う。そこにつけられていたコメントも含めて考えると、次のように要約されるのではないか、と思う。
  • 娯楽多様化で野球人気は下降  
  • 大多数のライトユーザーが支える構造は崩壊 
  • 野球も『1割のコアユーザーが売上の9割』パターンに
  • だが実は、高校生のスポーツ人口は、人口減にも関わらず過去最高らしい
  • 高校生だけを見るとサッカー人口が野球人口を抜いている
だが、サッカーが野球を超える「国民的スポーツ」になっただろうか。おじいちゃんもおばあちゃんも見るスポーツになっただろうか。

参加人口は増えているのに、観覧人口は減っているという捻じれがそこにあるように感じた。

僕が深く関わっている世界「ロックバンド」でも、野球と同じ捻じれが見られるように思う。
学生バンドが減ってる気がする原因を2つの体験談から探る ─── あどかへ

この記事に書いてあるように、バンド人口は明らかに減っている。 だが僕は、そこに捻じれを感じる。バンドを演る人は減ったが、実際にそこに参加している人自体は増えていると感じるからだ。知人有人に、レッスンプロとして生活しているジャズマンが、明らかに増えた。習い事に熱心な人が多いらしく、市場規模は大きいらしい。つまり、音楽に興味を持って演奏している人の比率は、以前以上に増えているのではないだろうか。

そこで本当に何が起きているのかを調べる為には、数字を見ていく必要があるけども、ざっくりと見積もって、何故こういう現象が起こるのか、考えてみる。

単に『英雄不在』になっているだけではないか、と僕は思った。

英雄不在

面白いのだが、バンドブームは完全に下火で、バンド人口が減っているにも関わらず、山下達郎が絶大な人気を誇っていることが、とても興味深い現象に見える。 ─── 実は僕は、80年代のジャズの強い影響を受けた山下達郎の大ファンだった。山下達郎の音楽からジャズ的要素が消えてしまった90年頃、海外のジャズを直接聴くようになり、山下達郎を卒業した。 ─── 80年代の山下達郎は『知る人ぞ知る』存在だった。当時の鋭く尖って文化的に激しく「突っ張って」いた山下達郎を知っていると、今の万人受けする山下達郎は、ものすごく奇妙に見える。2018年の今、山下達郎ライブのチケットは軒並み完売で、定期的にツアーをやっているようだ。不景気で音楽を聴く人が少ないこの時代に、そんな安定した人気を誇るミュージシャンは、他にいない。

山下達郎は、長らく非常に拘って音楽を作っていた人で、実力派だ。ライブでインストのみ即興演奏だけで1時間以上やってしまうような、『尖った』山下達郎は完全に死んでしまったが、それでも2020年を間近にして生き残った最後の実力派ではないか。

『達郎さんのファン層の中核を成しているのは45歳から55歳の男性〜この世代にできるだけ手に取っていただけるコンセプト』『若い層にもリーチする全方位型の露出も』 ─── 山下達郎 返り咲き1位のヒット~40代以上を確実に取り込むPR戦略(2012年)

マーケティング手法の素晴らしさも、売り物のクオリティが高くなければ、生きてこなかった筈だ。現代日本で、『英雄』として持ち上げて耐えるだけの、クオリティが山下達郎には残っていたのではないだろうか。

英雄がいなくなった理由は何だろうか。1990〜2000年の受験戦争あたりが原因なのではないか、と僕は思う。あの時代は経済的に豊かだった反面「妥協しなければ行きていけない」という強烈な同調圧力が色濃く漂う時代だった。その時代に、自分のやりたいことだけに突き進んでいた人らは、差別され、狂人扱いされ、社会から迫害された。その時代に、本当の実力を求めて闘っていた人たちは、大半が経済社会に飲み込まれてしまったのではないだろうか。

民族主義と市民化

みんなが見ているから見る。みんなが見ているから楽しい。野球は、そういう要素が強い。だがここに僕は非常に強い違和感を感じる。海外でサッカーを見ていると、これもまた非常に『みんなが見ているから楽しい』という要素が強い。だが違和感を感じない。それが何故なのか考えてみると、ひとつだけ大きく違うのは、本物のサッカー狂が大多数だというところだ。

野球を見ていたら、警察の護衛つきで観戦しに来ている人を何人か見かけた。 もし僕が要人だったら、警察の護衛などつけないだろう。トランプ大統領とか、安倍首相とか、顔が非常に有名な人でない限り、自分が要人だと誰も気が付かない。 護衛をつけるのは、安全の為ではなく、飽くまでも演出だ。

本当に安全を考えたら、野球場のような人混みに紛れて何をしても気が付かれない場所には近づかない。誰も居ない草原を歩くのに護衛をつけるだろうか。ダイヤの指輪は、高価な入れ物に入って丁重に包装されているから、ダイヤの指輪になるのであって、そのへんにポンと捨て置かれていたら、誰も見向きもしないものだ。だとしたら、一番よい警護の方法は、警護を付けないことだ。

野球は、『みんなが見ている』という点、一点だけで成立している。

ドームに入るとき、ドーム正面のジャイアンツ側入り口は凄まじく混んでいたので、裏の西武ライオンズ側から入った。そこで即座に気がついたのだが関西人が非常に少ない。僕は普段『最近東京は関西人が増えた』と思っているが、西武側には実に関西人が少なかった。 多分だが、埼玉の方が多いのではないか。多分だが。

しかしこの腑に落ちない感じは何なのだろう ─── それはひょっとしたら、巨人戦を見に行ったから感じるのだろうか。 ジャイアンツは、中に恐らく、本当はジャイアンツファンではない人がたくさんいるのではないか。地元チームを無視してジャイアンツを応援する心理を見ると、僕は混乱する。

civil という単語がある。和訳はいうなれば『高民度』か。挨拶ができる、差別しない、相手を尊重しつつ自分の意見を主張できる…という様な意味だ。 ジャイアンツファンは、自分を控えて相手に合わせる『民度が高い』タイプの人が多いのかも知れない。それがあの独特な中央がなくフワフワ漂う感覚を生むのかも知れない。

みんなで応援する一体感を楽しむ。ならばジャイアンツを応援した方が楽しい。ジャイアンツファンは、その一点だけで成立している。

自分の好きなものを応援した方が感情的にはずっとすっきりしている。だが西武ファンを見れば、人が少なく、しんみりしていて、どことなく寂しい。わざわざアウェーのドームで西武ライオンズ戦を観戦する人は少ない…というだけの話かも知れないが、ジャイアンツファンのような華やかさはない。

海外でサッカーを見ると、その熱狂は凄まじい。海外の場合、サッカーチームは『地域闘争』の一環でもあるので、ファンの応援はほとんど戦争状態だ。

日本の場合、その辺の事情が違う。例えばサッカーの国代表チームを応援するというのは、一種の『ナショナリズム』でもある。日本人が、サッカーの「侍ジャパン」を応援するというのは、先ず自分の本当の好みを抑え、地域闘争を一度棚上げした上で、日本国内の敵同士一時休戦ということで結託して、外国と戦うという意味がある。

日本は、世界と比較すると、国内で結託している度合いが強い方だ。 外国だと、国の中の地域間争いがもっと酷く、仲が悪いことが多い様に思う。

タイでサッカーのタイ代表と日本代表が当たった時、民族統合が進んでいる市内だけでサッカーに夢中になっており、市外の人は全く興味がない、という様な状況を見た。市内の人と市外の人は、住んでいる場所がたった数キロ違うだけなのだが、かなり仲が悪いところがあった。

この点で見ると日本人は、嫌な人と仲良くすることに関して、かなり我慢強いほうだ。 だが我慢強すぎて、自分を見失って、自分が本当は何をしたかったのか、わからなくなってしまうことも多いのではないだろうか。

個人主義への変遷 

僕はもともと、野球に全く興味がない。

ひょっとしたら僕が野球を見てもちっとも面白くない理由は、僕がどこにも所属していない(=日本の複数の地方気質が混ざっているので、特定の団体に感情移入したり、のめり込んだりできない)からかもしれない ─── そして、野球の人気が落ちている理由は、ひょっとしたら、僕みたいな人が増えたからではないか。

野球というのはもともと、地域闘争と全体主義という相反する要素を、両方共同時に併せ持つようなところがある。地域間の好き嫌いを野球チームに託して戦争させる。地域への結びつきが強い人は、野球チームに対する思い入れも強い。逆に転入してきた人は、地域への結びつきが弱く、野球チームに対する思い入れも弱い。だが全体主義として、転入人は、地域人から野球チームに対する思い入れを強くすることを暴力的に求められる。地域性を暴力的に押し付けられる。

久しぶりに日本を見て思うが、この数年で日本は再び、都市化が進んだ。住む人が多様化して、同類で固まって住むことが更に難しくなった。結果として、地域性を暴力的に押し付けられがちな野球を敬遠する(僕のような)人が、増えたのではないだろうか。彼らが(かつて僕がそうであったように)そんな『面倒な』野球から距離を取って、多様化した他の娯楽へ逃げ出しているのではないか。

実用主義への変遷

或いはひょっとしたら、お金を使う方法が変わってきたのかも知れない。昔なら、国内経済が豊かただったので、夢を追いかけてバンドをやったり、野球をやったりする人がたくさんいたが、今は国内経済にゆとりがないので、趣味・娯楽に無駄なお金を使わない人が大多数だ。一方で、社会で生きていく上での競争力を求めて、習い事にお金を掛ける人は増えているのかも知れない。

僕は、音楽と語学とプログラミングは、非常に密接に関連していると感じる。音楽の訓練をすると語学が伸びる。語学が伸びるとプログラミング力が伸びる…という関連性を感じている。ひょっとしたらその辺りに『僕の突破口』が隠れているのかも知れない。

プログラミング力は、語学力で、語学力は、音楽力だ。音楽力は、実は、語学力とプログラミング力の基礎を形作っている。ただその関連を見ぬいて音楽をやっている人は、皆無だ。

これは僕の思いすごしということでもない。むしろ日本の外では、そんなことをいちいち力説する人が少ないくらいに、当然のことでもある。 


関西関東対立の変化

追記:2018年6月13日(水) (Wed, 13 Jun 2018 09:51:40 +0900)

2018年の今。東京ドームに応援に来ている巨人ファンを見ると、何か腑に落ちない感じがする。見ていると混乱してくる。中央がなくフワフワしている。みんながみんなにあわせていて、誰も自分の考えで行動していない ─── 何故こういう現象が起こるのだろうか。


その理由は、この映像を見ればはっきりする。この映像は1985年のもので阪神巨人戦『伝説のバックスクリーン三連発』と呼ばれている試合だ。この映像を見ると、阪神=関西・巨人=関東…という構図が今よりもずっと露骨に分かれていたことがわかる。

この映像が、僕が感じた違和感を全て吹き飛ばした。つまり2018年の東京ドームには、阪神ファンから巨人ファンに寝返ったエセ関東人がたくさん混ざっているのではないか。阪神ファンという魂を売ったエセ関東人が、成仏できない亡霊のようにフワフワと現世を漂っている ─── それが東京ドームという場所柄なのではないか。

仲良くなって衝突がない。野球が面白くなくなる訳だ。

だがこうもいえないか ─── 確かに、敵と衝突して喧嘩するから面白い。そういう面は間違いなくある。だが敵と仲良くし協力したからこそ、初めて楽しくなることもたくさんあるのではないだろうか。敵に苦手なことを手伝ってもらうことで、さらなる大きな敵と闘う ─── そういうもう一弾上の醍醐味もあるのではないか。
 
野球の人気が落ちているのは、他者を尊重できる『大人』な日本人が増えたから…という面もあるのではないか。



更新記録:
追記の段落レベルを調整した。(Wed, 27 May 2020 16:51:47 +0900)

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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