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2012年8月15日水曜日

僕がウィキを書かない理由 (oka01-fgdunjkwifkjtldk)

特に日本の語学を志す人に顕著だと思うのだが、討論の時に自分の意見に固執し全く折れるタイミングを知らないタイプの人が多過ぎるのではないか。何故彼らは固執するのだろうか。固執する彼らにどう対処すべきなのか、考えてみた。

これから、ブログにて英語版のWikipediaに書かれているIPA(International Phonetic Alphabet=国際音声記号) の日本語訳を書いてみようと思う。英語版Wikipediaの日本語訳なら日本語版Wikipediaに書けば良いではないか、と思われるかも知れない。だが筆者は日本語版のWikipediaの筆者に違和感を持っており、その選択肢を選ばないつもりだ。 以下でその理由を若干述べておく。

特に日本の語学を志す人に顕著だと思うのだが、討論の時に自分の意見に固執し全く折れるタイミングを知らないタイプの人が多過ぎるのではないか。筆者は、討論が好きな人間だが、お互いに論理性をぶつけあった後に、自分の方が合理性が低いと感じたならば、自分の意見を引っ込める勇気が必要ではないか、と思う。元より討論は勝負ではない。討論の主目的は、飽くまでも自分の気がつかなかった自分の論理の不備を洗い出す事であり、勝つことではない。討論で負けたならば、それは目的を達したのである。討論に負けたということは、今後、自分の間違った論理で自分が迷走するリスクを回避する事が出来たということで、喜ばしいことである。 討論に負けた時、それは負けたのではなく、間違いを指摘して貰ったのである。間違いを指摘する労を取り、新しい視点を提示してくれた彼の労力に感謝の意を示さなければならなぬであろう。

だが特に語学を志す人間は、自分の論理に固執し、自分の論理の不備が見つかってもそれを認めず、自分の論理の合理性を示すための新しい視点を提示する事もできないまま、延々と感情的な反論を続けるタイプが多い。

この様な口の悪い筆者ではあるが、筆者も一応は日本人であり、無用な人間関係上の衝突を好まない。また筆者は、この様な未成熟な自我を抱えた学習者のプライドを木っ端微塵に打ち砕くことに快感を覚えるタイプではない。

だが筆者は、Wikipediaの様な本来合理性を至上とすべき場所で、他人の気持ちを傷つけまいとすべく、合理性より人情を優先し、現実と一致しない意見を公共の場所で表示し続ける事に、耐え難い違和感を感じる。人情は人情、論理は論理、別物である。

以前facebookが和訳プロジェクトの作業員を一般から広く募った時、筆者は、pokeの和訳は『足跡を残す』で如何なものか」と提案したことがあった。 だが、英訳好きな人間の常で、自分の意見に固執して全く他人の意見を聞き入れない人間とぶつかった。彼は「pokeの和訳は『突っつく』です。足跡という意味は有りません」の一点張りで突っぱねられ、筆者が提示する新しい視点を理解することもなく、反論もなく、ただ否定のみがあるのみで、討論は平行線を辿り、全くコミュニケーションが取れなかった為、筆者は自分から折れる事にした。

人を呼び止めるときに人を突っつく習慣のない日本で『突っつく』は如何なものか。加えて既にmixiという広く認知されたアプリケーションで同じ機能が備わっており、それに『足あと』という名称が採用されていた訳だから、その名称を適用するのがユーザーにとってわかりやすい選択である。機能的に見て、mixiは足跡を残す事が義務付けられているが、facebookは足跡を残すのが任意であるという違いでしかない。facebookは特に海外文化の経験が浅く、同時に新しもの好きなコンピューター初心者層が多く、有意義な討論に結びつかない。筆者の『足跡を残す』案は受け入れられず、現在facebookのpokeの和訳は『挨拶する』となり、殆どその機能がユーザーから理解されず、全く利用されていない状態が続いている。

筆者には、Wikipediaも同様な状況である事が事前から推測されてならない。ましてや日本語のウィキペディアに於ける、コンピューターサイエンスや語学に於ける記事のレベルは極めて低い。恐らく、色々な意見を提示しても恐らく執筆者が感情的になるばかりで、有意義な討論が出来る気がしない。

よって、英語版Wikipediaの訳は、Wikipediaの外で筆者の独断と偏見によって訳し、このBloggerで公表する事を所望する所存である。