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2012年1月14日土曜日

チャオとカップとウー ─── ラオス語の方言を話し分ける時の難しさについて (oka01-gbynsmsemqavkmib)

タイ東北弁=イサーン語を話すには、2つの言語を切り替えながら同時に話す必要がある。外国人が外国の方言を学び、しかも関連する言語を2つ3つと同時に切り替えながら話すという事は、とても難しいことだ。 何故それが難しいのか、どうすればその難しさに対処することが出来るのか、実際にイサーン語を話すことが出来る筆者が語る。

昨日、初めて、僕が住んでいるタイ東北ウドンタニーの市内から、バイクを直接ラオス国内に乗り入れる手続きをしてビエンチャン市内まで行って帰ってきた。バイクは既に持っていたのだが名義変更を済ませていなかった為、外国に持ち込むことが出来なかった。 先週手続きを始めて、木曜日に手続きが終了したので、嬉しさのあまり、そのままその足で国境までバイクを走らせた。

ビエンチャン・ノンカイの国境は、もう何度も超えたことが有ったが、バイクで国境を超えるのは初めてだった。慣れない書類を何枚も書いた上、しかも僕の様な、ボロボロの中古の125ccのバイクで国境を渡る人は滅多に居ないので、係員の人も慣れておらず、色々と面倒だった。車用の出国手続きでは、徒歩用の出国手続きと異なり、並んでいるひとりひとりが大量のパスポートを代行処理しているので、見た目上並んでいる人が少ないように見えても、とても時間がかかる。

ともあれ、めでたく手続きが終わり、ゴミゴミした入管の建物から解放され、バイクで国境の友好橋を渡った時は、何とも言えない晴れ晴れした気持ちになった。無意識の内に、頭のなかで "Free As A Bird"のイントロのメロディーが流れた。戦争中、国境を破って他国に逃げ出した人も、こういう心持ちだったのではないか、とかそういうような事を思った。

しかしそこからが大変だった。近年のビエンチャンは大変な勢いで発展しており、車の量が半端ない。日本と同じ左側通行のタイと違い、ラオは慣れない右側通行で、神経を使う。 運転がきめ細かいウドンタニーの人と違って、妙に怖い動きをする人が多い。運転自体に慣れていない人が多いと感じる。

どうにかビエンチャンに到着したものの、ビエンチャンの物価の高さには閉口した。僕が行きつけにしている安くて綺麗なホテルはどこも満室で、何件もホテルを回ることになった。若干グレードを上げたホテルに入ることになるのだが、そのホテルのどこもが、さほど綺麗でないのに高い。近年のインフレ傾向によりホテルの宿泊価格が上昇し、今やウドンタニーの倍以上に感じる。 更に何件もホテルを回ることになった。市内はその様な感じでどこも無意味・無闇に高く、閉口した。

そこから更に走って大学の街までいけばもっと安いゲストハウスがあることは知っていたのだが、ビエンチャンから更に10km程度走る必要があり、なんとかビエンチャン市内で一泊したかった。結局1100バーツと若干高めのホテルにチェックインしたが、部屋はあまり清潔でなく、しかも歯ブラシもシャンプーも無いような感じで、あまりサービスが良くなかった。

実は、いつもビエンチャンに来ると、若干疲れる感じがして、すぐにウドンタニーに戻ってしまう。それはこういうトラブルと遭遇することがおおいからかも知れないが、だが僕がビエンチャンに来て疲れると感じるのは、ウドンタニーと発音が微妙に違うところだ。

僕はビエンチャンに居ても、ウドンタニーに居ても、買い物から世間話までこなせるレベルのラオ語力がある。だが、これ位のレベルになると、単に話せるだけでなく、失礼のないように話したり、素早く世間話を終了したり、相手の気持ちをきちんと掴みつつ話したり、というある程度の会話クオリティーの高さが要求される様になる。その為に、相手がどのような事を失礼と思い、どのようなことを面白いと思っているのか、知っている必要がある。 これを掴むのがとても難しい。 この感覚の事を、ここでは「常識感覚」と呼んでみたい。

ここでいう「常識感覚」というのは、言ってみれば、日本のテレビ番組の「知ってるつもり?」 的なところがある。この感覚は、人によって、家族によって、地域によって、TPOによって、異なる。 あちこちに顔を出すようになると、この感覚を人によって、きめ細やかに変更する必要がある。これが第二言語としてラオ語を話す人にとっては、極めて混乱する作業となる。 頭の中の常識感覚の切り替えが中々スムーズに行かない。

この常識感覚の切り替え力を試される場面の一例に文末詞がある。

ラオ語やタイ語には、文末に特定の単語をつけて、敬語を表す習慣がある。例えば、タイ語では女性にはカー・男性はクラップ(省略時にカップ)を付ける習慣がある。ラオ語は、更にきめ細やかで、男性女性の区別の他、文末に付ける単語のクラスによって、敬語の度合いを表現できる。

この文末詞の付け方が、地域によって異なるのだ。 これの切り替えが上手く行かないと、正しい文末詞を選べず、うっかり間違えてしまって「言葉遣い悪いよ」とか「もっと丁寧に話せよ」と苦情を言われたりして、非常にきまりが悪い。

ここで試みとして、僕が体験的に感じている、場所と文末詞・その場所でその文末詞を使った時の反応を一覧表にしてみた。


バンコクウドン市内ウドン農村部ビエンチャン
カップ「普通」「普通」「普通」
「新しい時代の人」
「ちょっと冷たい」
「タイから来た人?」
「ラオちゃうわこんなん」
カッポム「非常に丁寧」「非常に丁寧」
「丁寧」
「ちょっと冷たい」

「は?」
クラップ 「かっこつけてんの?」「タイ語ヘタクソ?」「何だコイツは」「は?」
ウー 「死ね」「もっと丁寧に話せ!」「普通」「割と普通」
「もっと丁寧に話せ!」
チャオ 「時代劇?」
「チャンマイの方?」
「おじいちゃんかよ! 」
「田舎クサ!」
「割と普通」
「最近言わなくなった」
「普通」
カップピー 「丁寧」「優しい」「丁寧」「優しい」「普通」「タイ風」「ラオちゃうわこんなん」
アイ 「は?」「田舎クサ!」「普通」「普通」
カップアイ 「は?」「普通」「イサーン風」「ラオちゃうわこんなん」
相手の名 「丁寧」「優しい」「丁寧」「優しい」「普通」「丁寧」「優しい」
ドーイ 「は?」「は?」「は?」「丁寧」
ムン 「死ね!」「田舎クサ!」
「死ね!」
「割と普通」「死ね!」
クー 「は?」「田舎クサ!」「割と普通」「死ね!」

もっと細かく書けばいくらでも出てくる気がする。これを無意識の内に、状況に合わせて切り替えている。 この一覧の中で、僕が一番苦しんでいるのは、カップとチャオとウーだ。ビエンチャンから戻ってくると暫くの間、語尾にチャオがついて止まらない「チャオ病」が発病する。一方久しぶりにビエンチャンに行くと、語尾にカップがついて止まらない「カップ病」が発病する。

語尾だけでもこれくらいある。だが、声調の違いとなると、更に複雑である。かつ語尾と同様、TPO・話し相手・自分の立場・地域・状況に応じて、動的に変化する。 複雑過ぎて、表に出来無いかも知れない。ビエンチャン・タイ・ラオと行き来しつつ、ラオ語もタイ語もイサーン語もきちんと話そうとすると、頭が非常に混乱するのだが、それは大体以上のような理由があるからだ。


ラオ語は、一筋縄ではいかない。中国語・日本語・英語の様に、標準がひとつあってそれ以外は方言とされているなら、話はずっと簡単だったであろう。だが、ラオ語には標準がない。目の前で話している、その人が標準である。「こっちが標準だから、お前もこっちに合わせろ」などと一言でも発したら、即座に追い出される。 だが、これは実はラオ語だけでなくどんな言語でも同じなのではないか。

日本人は、自分を含めて、標準にとてもこだわるところがあるような気がする。世界を見回すと、日本ほど、ルールや標準が厳密に制定されて厳格に守られている国は、無いのではないか。 この習慣があるからこそ、日本人は団結力があり、集団行動に滅法強い。だが、一方で日本人を異文化コミュニケーション音痴にもしている。

ルール標準に厳格な日本人は、標準に徹底的に従って、俺は標準だから誰にも文句を言われる筋合いはない、あたいも標準だから誰にも恥ずかしくないわ、とやりがちだ。一方、他人にも、標準であることを高いレベルで望む。この様な「自分が標準だから他人の意見を無視する」姿勢・「他人に標準であることを高いレベルで望む」姿勢が「田舎者め!」「方言丸出しはやめろ!」的に他人を侮辱する習慣となって現れている。

世界に標準など存在しない。多様で複雑な文化を長年に渡って育んできた文化を持って生活しているたくさんの人々が居る。そういう人たちに標準を押し付け、その独自の文化を破壊する事は、ひとつの暴力と言えないか。

(完)

関連記事:タイ東北弁イサーン語とは
更新記録:
・関連記事表示の自動化を行った。(Wed, 27 Jan 2016 00:01:54 +0700)
・題名を『チャオとカップとウー ─── ラオス語の方言を話し分ける時の難しさと、日本人の性格について』から『チャオとカップとウー ─── ラオス語の方言を話し分ける時の難しさについて』へ変更した。