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2011年4月29日金曜日

葛藤 (mixi05-u459989-201104291824)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
葛藤
2011年04月29日18:24
最近何か悩んでいる。

何に悩んでいるのかといわれると正直説明が非常に難しく、これは果たしていわゆる「悩み」なのかという疑問もあるが、とにかく答えが見つからず困っている。

僕は何というか自分の中にまったく違う文化というか哲学が複数同居している。 元々、僕はかなり破壊力がある人間性なので、その複数の哲学が、それぞれ違う哲学を完膚なきまで破壊してしまう力がある。 それら複数の哲学が、自分の中でいつも葛藤して揉めている。

僕は子供のころからプログラマで、非常に合理的で論理的な考え方を持っている。 だからこそ、他の文化を理解したり言葉を学習したり出来るのだと思う。 一方、人間性自体はかなり「コテコテ」だ。 ベタベタと年がら年中一緒に居て年がら年中同じ人間と付き合うのが好みで、そこにあまり合理性を持ち込んできっぱりと付き合う事が苦手だ。 このふたつは真っ向から矛盾している。

   ◇   ◇   ◇

最近 nhatさんという方と喧々囂々の討論をしていた。 人によっては、かなり顔をしかめてしまうような内容の討論だったのだけど、実は僕は人が心配するほどには嫌な思いをしていなくて、結構楽しかった。 nhat さんが言うことは、人によっては「筋が違う」という人も居ると思う。だけど、僕はそこまでの違和感は持っていなくて、だからこそ、喜んで話に付き合うのだと思う。 では何で僕が彼の言うことに真っ向から反論するかというと、その根拠の本質は非常に説明が難しい。

   ◇   ◇   ◇

僕はプログラマなので、元々かなり理屈っぽい。 僕はしばしば思うのだけど、世の中で起こっている事象に対して、ある一定の論理的な視点を持ち込んで説明すると、人々が思っている事とまったく違った世界に変わってしまうということは、しばしばある事だと思う。

例えば、インターネットの世界で言うと、世の中には「youtubeは 画期的な発明だ」とか「ブログの発明は画期的だった」とか「メールが世界を変えた」とか「web2.0は産業革命以来の革新だ」とか「twitterは画期的な発明だ」とか、色々と言われていることがある。 だけどこれらで実際に起こっている事は、実はそういう風に言われていることとはまったく違う。 これらは、データ転送のプッシュ・プル(どちらが先に通信を開始するのか)と、データのライフサイクルの変化と、データの保存場所が変わったというだけの話だ。 実は本質は何も変化していない。 むしろ、これらのデータ処理の方法が統合されていない現在は、まだまだ原始的だとすら言える。これらの組み合わせが全パターン出尽くすまで、いわゆる人々がいうところの「画期的な発明」「革新」は続くだろう。この様にその本質と、結果として現れた技術に対する人々の認識との間には乖離がある。

論理の世界は人間が持っている直感と反することがしばしばある。 僕は、こういう話の引き合いによくだすのだけど、「ならば」という論理には、人間がしばしば間違える論理演算が含まれている。 例えば「泥棒ならば悪人だ」という言葉があったとする。 この言葉が事実だとしても「悪人ならば泥棒だ」という言葉は成立しない。 このことは数学的に証明できる。 しかし日常生活上99%の人は「ならば」の一方向性を知らずに、間違える。

これを読んでいる人は、「泥棒ならば悪人だ」と「悪人ならば泥棒だ」が同じ意味ではないという理由を説明できるだろうか。 泥棒は悪人かもしれないが、悪人ならば泥棒だとは限らない。 悪人を10人捕まえて来ても、中には人殺しも居るだろう。 悪人の中には詐欺師も居るかもしれない。 この様に、悪人だからと言って必ずしも泥棒だとは限らない。

人生に於いて、人はよくこれと同じ勘違いを犯す。 例えば、お金が無いと不幸になる。つまり「貧乏ならば不幸」と言える。 これは恐らく正しいだろう。 しかし、不幸だからと言って必ずしも貧乏だとは限らない。不幸な人の中にも色々な原因で不幸になる人が居る。 中にはお金がたくさんあっても不幸になる人が居る。 つまり、お金があっても幸福になるとは限らない。

この様に、人間が直感的に感じている論理と、厳密な意味での論理とは往々にして乖離している。

   ◇   ◇   ◇

言語というのは、厳密な論理的な視点を持ち出すと、ほとんどの人が考えている絵とは、まったく違った様相が現れてくる。 「日本語は中国語の方言ではない」「日本語には声調を持っていない」という意見は、その典型的なものだろう。 これらの意見は、飽くまでもウエットな独断と偏見が含まれた意見で、事実ではない。 しかし多くの人はそれを事実だと信じている。 その根拠は論理的なものではなく、あくまでも感情的なものだ。

論理的な視点を持ち出すと、言語というのは、確率的に現れ時間によって変化していく雲の様な存在だ。 言語は、多くのレイヤーにわかれており、それぞれの言語は複数のレイヤーを持っており、それらが言語の間で、重なったり重ならなかったりする。 その要素は、言語による違いだけでなく、恐らく個人によって違う。 その違いに確率的な違いが現れる。

だから人間が感覚的に理解するだけでは不充分で、機械を使って統計的に処理していく以外にその実態をつかむ事は出来ない。 人間は、そういう抽象的で複雑な要素が絡み合うものを正しく認識する能力を持っていないからだ。 正しく認識する能力を持っていないから、人間は、便宜上、言語を人種や国境などを使って分類している。 その分類は飽くまでも便宜上のものであり、モデルを作ってシミュレーションなどを行うことができるほどの精度を持っていない。

つまり、英語とか、ラオ語とか、タイ語とか、日本語とか、中国語とか、方言とか、そういう言い方は、飽くまでも便宜上の問題として地域などを使って分類した言い方であって、曖昧で正しくない呼び方だ。

曖昧で正しくない呼び方ではあるが、文化としてそういう認識があるということは、きちんと理解している必要がある。 この事を理解していないと、きちんと他人とコミュニケーションが取れない。 論理的な事実と、認識上の事実とは異なる。

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僕は上記で書いた様な論理的な視点を持っているけど、だからといって年がら年中そういう視点を他人に強要したりはしないし、話題にも出さない。 極端な言い方をすると、僕がそう思っているということを知っている人は、この世に誰も居ない。 それを話すことは非常に疲れることだし、相手を怒らせたり、相手を疲れさせたりして、嫌われてしまう。

独善だとか、頑固だとか色々言われるけども、僕は自分が考えている事が論理的に正しいか、確かめる事が出来る。 僕はプログラマなので、自分でシミュレーションを作って動かすことで、それが事実なのか事実で無いのか、確認出来るからだ。 頑固だと言われようが、独善といわれようが、僕が言うことは間違っていない。 僕が自分が言っている事が正しい、という事を目の前で確認しながら考えているからだ。

僕が論理的に思っていることは、誰にも言ってはならない。 相手をつかれさせてしまう。 だから僕はそう思っていても、飽くまでも正しくない言い方である「ブログ」とか「ツイッター」とか「web2.0」といった一般的な言葉を使う。 これがわかりやすく、一般的な言い方だからだ。 だからこそ同様に「英語」とか「ラオ語」とか「タイ語」とか「日本語」とか「中国語」とか「方言」といった、飽くまでも便宜上使われる、正しくない言い方を使う。 その方が他人に取ってわかりやすいからだ。

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ところが、敢えて「わかっていない」言葉を自ら進んで使っている僕を見て「お前、わかっていないなぁ」と言いたがる人が少なくない。 彼らには説明が必要なのかもしれない。 だが、不思議なもので、わかる人は説明しなくてもわかるし、わからない人は説明してもわからない。 説明してわかる人というのは、少数派だ。 だから「お前わかっていないなぁ」という人に、僕が思っている事を話して無理やりわからせようとすると、大抵壊れてしまう。

僕は、実は、全然違う世界についての説明を聞くのがとても好きだ。 自分が認識していた事柄がガラガラと音をたてて崩れていくようなショッキングな話であればあるほど、面白い。 そういう事実に即した認識を持つことで、より的確に現実に対処する力を得るからだ。 ところが、そう思う人は少ない。

   ◇   ◇   ◇

日本人と話すと無闇に疲れる事がある。 僕は日本人なので、日本語が一番上手に話すことが出来る言語だ。 日本人の友達が一番多いし、日本語を話す機会が一番多い。 当然、僕が思っている事を日本語で話したくなる。 だから日本語を話す人には、僕が思っている事をどうしても説明したくなってしまう。

ところが、僕が普段もっとも日常的に感じている、人と人による言葉の違いとか、顔を見て言葉を当てる難しさとか、発音の微妙な違いから出身を当てる難しさとか、人によって全然違う文化の違いを乗り越える対処術とか、バンコクに住んでいる人が、ごく当たり前にさらっとやってのけていること... かつ僕もそこに加わって一緒に闘っている、その様な事 ... これらについての事柄を話すと、あまりよい結果を生まない。

タイに住んでいる日本人は少ない。 昨今の不景気でタイ沈没組も日本に帰国してしまったし、華やかだった駐在組みも帰国してしまった。 残った人は、もう10年以上住んでいるタイになれた人が多い。 タイの社会に溶け込んで、タイでたくましく収入を得て生活をしている人がほとんどで、中には僕が勉強している方言を理解する人も居る。

ところが、そんな彼らでも、何故か、僕が日頃感じている事を説明しても理解する感性を持っていない人が多いのだ。それが何故なのか僕はどうしても、理解できない。 逆に考えると、何故僕はそれを理解出来るのだろうか。 僕は、それも理解出来ない。 日本人は、そういうウエットでデリケートな要素を理解出来ない人が多い。 何故か僕はそれが理解できる。

それならそれで、僕は構わないと思っている。 ウェットさデリケートさを理解出来ぬなら、それもよい。 捨て去るならば、捨てされい。しかし、僕はウェットとデリケートを捨て去ると、僕には、「血も涙も無い無情の」「論理と合理の世界」が残る。 僕は血も涙もなくなって、何でも事実を指摘してしまう、鬼の様な人間になってしまう。 これはこれで、厳しい。

だが「血も涙も無い無情」の感覚でずっと仕事をしてきて、それなりに成果をあげてきても居る。 これはこれで、ひとつの視点だ。

僕の中のこのふたつの感覚は、まったくもって矛盾しており、お互いがお互いをバカにしあっており、お互いがお互いを否定している。

   ◇   ◇   ◇

タイでぶらぶらして何も仕事をしないで居る、と僕は見られているが、実際にはそうではない。 語学や文化差異を研究しながら、自分で設計したプログラムを組んでいる。 それらは少しずつだが徐々に成果を出しつつある。 金が無いと思われているが、(実は)このままの状態で、あと十年ぶらぶらしていてもなくならない程度の貯金もある。 僕は、しばしば、日本社会不適応児と思われているが、実際には日本社会で十年以上の経験も積んでいる。 僕が働いていた企業のほとんどは、中小企業ではなく東証一部に上がっている大企業だ。 こういう経験はタイに住んでいる日本人が実は持っていないことも多い。 タイで仕事を持っていないが、タイ語と英語と中国語のスキルがあるうえ、プログラミングに対しての専門知識も有るので、実は仕事を探しについてあまり心配していない。 この様に、別に特段困っている問題はないのだが、何故か可哀想な奴だと思われてしまう。 こういう恵まれた事情を面と向かって自慢するのは、僕は正直あまり好きでなく、日常生活上口に出すことはない。

   ◇   ◇   ◇

僕は、所持金の如何に関わらず、あまり派手な恰好をするのが好きでない。 僕の見かけはボロボロだ。 iPhone も BlackBerry も持ってない。別に最新のモバイルデバイスが苦手な訳ではないし、嫌いでもないし、買うお金がない訳でもない。 だけどモバイルデバイスというのは諸刃の剣で、持っていると色々なデメリットがある。世の中がこれだけ便利だと、そのデメリットから逃れるのも一苦労だ。 モバイルデバイスは嫌いなので持ち歩かない。 別に強がっている訳でも、欲しいと思っている訳でもない。

僕は色々と貴重な知識や貴重な経験を持っている。僕の本質を見抜くことが出来る人と、外見に惑わされてそれを見抜くことが出来ない人が居る。 人がそれを見てどう反応するのかは、本当に人それぞれだ。 正に、人が出る。

昨日、サイアムパラゴンのスターバックスに行って、ペリエを頼んだらすごく変な目で見られた。 金が無いと思われたのだろうか。 コーヒーの試飲も何故か僕だけ通過していった。 僕の前に座っている女子大生のところには二回も試飲の誘いが来ていたので、僕だけ対応が違うことがとても鮮明だった。コーヒーはもう飲んでいたし、今は別に飲みたくない。 だけどゆっくりしたかったので、スターバックスに来た。 ペリエが飲みたいので、ペリエを頼んだ。 コーヒーが飲みたかったら頼むし、飲みたくなければ頼まない、それだけの話だ。

僕の様に、人の反応を見ている人間はタイにはたくさん居る。 だから人によって対応を変えてはいけない。

   ◇   ◇   ◇

僕は、ACERのノートパソコンを持っている。 ACERのノートパソコンは、値段もさることながら他のノートよりスペックがずいぶんと高いことは特筆に値する。 僕の様に、しょっちゅう各国の辺境ばかり持ち歩いていると、ホコリがすごいし電圧が安定しないことも多く、しょっちゅう壊れる。 ACERは、値段的に壊れてもすぐに買い換えられる気軽さがある。 国を問わず入手が容易なので、万が一メインマシンが壊れてしまってもハードディスクごと換装してしまえば、再インストールが不要である、などという荒技も使える。

だから僕はACERを使う。 しかしまあ、スターバックスには、マックブックプロを持ってきている人が無数に居る。僕は、UBUNTU-LINUXにCOMPIZを入れて使っている。 マックブックプロを持ってサメガメで遊んでいるだけの彼らと、ACERにUBUNTU-LINUXを入れてカスタマイズし、多言語環境を整備して6ヶ国語を同時に使ってプログラムを組んでいる僕と、どちらが有能だろうか。

だが、コーヒーの試飲すら僕を通過していく。

   ◇   ◇   ◇

見下されていることも、正直、どうでもいい。 実際僕はこういう経験がある。 以前、僕は新聞配達員で、正真正銘の貧乏人で身なりもボロボロだった。みんなに見下されてばかりいた。 だけど、プログラマになって、欲しいものを全部買って、身なりもビシッと整えたら、周囲の人の反応が、見違えるように良くなった。 だけどあまりうれしくなかった事を覚えている。 現在も、恐らく身なりを整えれば、周囲の反応は良くなるだろう。 だけど、そんな外見しか見ていない様な奴が友達に増えたところで、僕の人生が、どれくらい楽しくなるというのだろうか。

そのスターバックスの店員を捕まえて、北京のスタバ客について講釈してやろうかと思った。 北京のスターバックスでは、みんなどういう訳か、グランデばかり注文するのだ。グランデは相当でかい。 僕はいくらコーヒー好きでもグランデは飲みきれない。 中国の人やタイの人は、あまりコーヒー好きな人がいない。 なのに、何でグランデばかり注文するのだろうか。 これは北京人の見栄なのだ。 ダサくないだろうか。 僕は、思いっきりダサいと思う。 だけど、これが北京だ。 まだコーヒーが珍しくて珍しくてしかたがないのだ。僕は、コーヒーが飲みたければ飲むし、飲みたくなければ、飲まない。 それ以上でもそれ以下でもない。

その店員に講釈はしなかった。

   ◇   ◇   ◇

僕が泊まっているゲストハウスのそばに、コーヒー屋さんがあって、マスターがとても親切な人で仲良くしてもらっている。 そこのマスターに仏教の教えを教えてもらった。 タイでも「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのだそうだ。 だけど、これは苦行で火のついた炭火の上を歩くことを言うのではないのだそうだ。 ここでいう、火というのは、怒りの感情のことで、集中する事により、怒らずに冷静で居ることが出来るのだ、という意味を持っているのだそうだ。

タイの人は、死生観、人生観、気持ちに対する実直さを持っていると思う。一方、僕が知っている日本の人は、とても合理的な考え方を持っている。 日本人は合理的だからこそ、仕事が得意なのだと思う。 しかし、日本人は、気持ちに対して、タイ人ほどの深さは持っていない。 タイの人は仕事は苦手かもしれない。 だけど、自分の気持ちをコントロールするという事、他人を受け入れるということに対しては、大変な高いスキルを持っている。

タイ人は、日本人をバカにするし、日本人は、タイ人をバカにする。 視点や価値観が違うので、どうにもならない。 どちらもお互いを理解する能力を持たないという点では決定的なバカであり、大差ない。「目くそ鼻くそを笑う」「五十歩百歩」だ。

   ◇   ◇   ◇

権力の為の48の法則( The 48 Laws of the Power )という本がある。 この本を嫌う人は無数に居るのだけど、僕はこの本が好きだ。 この本には本当の事が書いてある。 不愉快な本当の事がたくさん書いてあるから、嫌いな人が多いのだろう。日本語訳も出ているのだけど、あまり訳が良くないような気がする。 いくつかを自分で訳してみた。


法則9 - 行動によって勝ち取れ、決して論ずるな。

討論によって得られた一時的な勝利は、犠牲が多く利益が無い。 討論の敗北によって作り出された不平と悪意は、極めて強く、長期間失せない。 一時的に変更された意見は直に元に戻ってしまうが、生み出された悪意はそれよりもずっと長く燻りつづける。 行動によって一切言葉を発することなく得られた賛同は、討論によって得られた賛同よりもずっと力強い。 示せ。説くな。


法則32 - 人々の幻想と戯れよ

真実は、往々にして人々から避けられる。何故か。真実は、常に見苦しく目障りで不愉快だからだ。 決して真実を主張してはならない。 幻滅によって巻き起こされる怒りに対する充分な準備が出来ていない限りは。 人生とはとても耳障りで堪え難い。 それゆえ、人々は狂喜に満ちたロマンスや夢の世界を量産し耽る。まるで、砂漠の中のオアシスに出会ったかの様に。 人々は、そのオアシスに群がる。 群集幻想の再利用には、巨大な力が宿っている。

   ◇   ◇   ◇

今日中に病院にいって狂犬病の注射をうけなければいけないのに、この日記を書いていたらすっかり遅くなってしまった。 急いで出発しなければ...。
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出展 2011年04月29日18:24 『葛藤』