少数民族である日本人の自己認識の低さと騙されやすさについて (おかあつ)
2010年12月05日 17:15
先日、師範大学に居る日本人留学生が8人集まるという飲み会が開催され、そこで僕が激怒してその場に居る全員に説教をした、という事件があった。 僕が現在居る場所=中国の昆明という街では極めて常識的な習慣「顔を見て出身を当てる」という行為の重要性を話したらところ、そこにいた8人全員が「そんなことあるか」と爆笑して鼻にもかけなかった。 この場所に居る8人のどう考えても超少数グループであるこの日本人たち以外の昆明に住む人たちは「顔を見て出身を当てる」という行為を常識的にやっているのだが、にも関わらず、彼らはそれを普通ではないと言って笑うのだった。
この「顔を見て出身を当てる」という行為は、タイやラオでも当たり前の様にやる。 ロシアの人からも同じような話を聞いたことがある。ロシア人からは顔だけでなく、お尻の形を見て判別するという話を聞いたことがある。 アメリカなど顔にはっきりとした差があるので更に激しくやっているだろう。 アメリカでは差別もからんでいるので「顔を見て出身を当てる」という事が違法だ、とすら言いかねない。 それくらいに、これは極めてよくやられることだ。 それを可笑しいと笑う、彼らは興味深い。 彼らは外国に長年に渡って住んでいるにも関わらず、外国の文化に対してまったくの盲目である。
顔を見て出身を当てるのは、とても大切な事だ。 何故だろうか。 答えは驚くほど簡単だ。 間違えると失礼だからである。 そして、当てることが出来ると非常に有利にコミュニケーションを進められるからである。 ここまで説明しても彼ら8人は何故顔を見るのが大切なのか理解出来ないかもしれないが、そんな彼らでも、自分が韓国人と間違えられたり、中国人と間違えられたりすれば、即座に激怒するだろう。 彼らも「顔を見ることが大切だ」と言える要素を持っている。 僕は、日本人として「自分がされて嫌だと思うことは、他人にもしてはいけない」と子供の頃から教わってきた。 彼らは、自分がされて嫌なことを平気で他人にするという意味で、日本人ではない。 また、彼ら8人が、仮に、自分が韓国人・中国人と間違えられて怒らなかったとしても、「あなた日本人でしょう!」と当てられると、喜びはするだろう。「何故わかったの?」とすぐに心を開いてしまうに違いない。 つまり、騙され易い。
その事件が発生した日、その中のメンバーで一人だけ年長の方がいたのだが、その方と後で飲みに行った。 帰りがけ、電話番号を交換しようということになった。 彼は自分自身の電話番号を覚えていなかった上、丁度、携帯電話を部屋に忘れて来ていた。 しかし、彼は自分のメールアドレスを覚えていたので、 後でメールで電話番号を交換しようという話になった。 メールでお礼の手紙を書いて送ったら、先日とても短い返事が送られてきた。 その時は忙しかったので、深く読まず何となくやり過ごしていたのだが、ふと今日になって、そのメールに、電話番号が書かれていないことに気がついた。 これはどういう意味だろうか。 こういう時の対応は非常に難しい。 タイやアメリカや中国だったら「酔っ払って忘れたんじゃないの?」と即座に返答出来る。 だけど日本だとひょっとしたら「もう電話をかけてくれるな」という暗黙のメッセージである可能性がある。 このメッセージを使う人と使わない人の両方が居る。 タイやラオ・中国だと、顔を見れば「こういうやり方を使う人」「こういうやり方を使わない人」の判別も大体つく。 だけど、日本人の場合、顔を見ただけでこの判別は無理だ。 慣れれば日本にも顔の地域差がある事に気がつくが、文化を当てる事が出来るほどには精度が高くない。 この日本人の場合も、「もう電話をかけてくれるな」という暗黙のメッセージか、そうでないかは判別がつかない。 しばらく様子を見ようと思う。
日本人の人間関係は、とにかく疲れる。 何故だろうか。 他人がどういう出方をしてくるのか、まったく読めないからだ。 これは多分、日本人がみんな誰かに言わずして自分の意図を汲んでもらい、合わせてもらおうとしているからではないだろうか。 日本人は個体差が非常に激しい。 タイ・ラオ・中国の様に、民族間の住み分けがある国では、民族によって出方に決まった傾向があり、それをみなよく知っているので、相手の出方を読むことが出来る。 しかし、小さな島国であるにも関わらず隅から隅まで超高速鉄道を引いてしまい、地域間の住み分けが完膚なきまで破壊されてしまっている日本では無理だ。
日本人は、しばしば「どこかに自分を理解してくれる人が居る」と信じている。 これは幻想だ。 自分の意図は、自分の手で書いた文章や、自分の口で話した言葉が無ければ決して他人に伝わることはない。 自分の思いを文章にしたためることもせず、自分の思いを饒舌に語ることもなく、何故他人がその思いを理解する事が出来るのであろうか。 超能力者以外、無理である。
僕は普通の日本人とかなり性格が違う。 僕が日本に居る時は、日本での正常な日常生活を送るにあたって、他人に合わせる必用がある。僕は、高度に自分を演じなければいけないし、演じる事にとても大きな精神力を必要とする。 だから、コミュニケーションを運営する為に大きな精神力を使うことに慣れている。 ここまでは僕の責任である。 だが、残念な事に、日本人の多くの人は、僕が他人に合わせる為に使っている精神力の大きさ程、僕に合わせることに精神力を使ってくれない。 だから僕は常に他人に合わせっぱなしである。 僕がタイに居て楽だと思うのは、この合わせることに大きな精神力を使うことに慣れている人が多い、という事だ。 タイ人は人間関係に対してとても辛抱強い。 日本人はタイ人ほど辛抱強くない。
昨日僕は、学校のラオ人の生徒が国から持ってきたという白いギターを借り受けて、長らく遊んだ。 僕はギターが好きなのだが、もうかれこれ五年間、封印している。 語学やプログラミングに集中する為だ。 だが、昨日は久しぶりに長い時間演奏した。 夜寝る前に演奏し、そのまま寝て、朝起きてもずっと演奏していた。 僕はジャズギターを弾き始めて、もうかれこれ20年である。 ジャズ演奏を身につけるいう事は、日本で日常生活を送る者に取って、非常に大きな困難を伴うものだ。 長い訓練が必要である。(※) 僕は特に「厳しい」と思ってそういう訓練を続けて来た訳ではないし、むしろ楽しくて辞められなかったので訓練を続けてきたのだけど、僕がしている事を他人にやらせると10分も続かない。 一般的な感覚から見ると、厳しい訓練なのだと思う。 僕はこういう「厳しい」訓練を20年続けてきた訳だ。
※ ある文化圏に所属していると、ジャズ演奏の様なスキルを身につけることは、非常に簡単である。 この様な文化圏に住む人はまるで住民が全員ミュージシャンであるかの様だ。 そういう文化圏はたくさん存在する。
ところで、日本人は自己認識が苦手である。 特に自己主張を含む芸術をする人ほど、その傾向が顕著だ。 特に僕が指向しているギタリストという人種は、特に自己主張が強い芸術を志している人種であり、自己認識がへたくそな人の巣窟と言ってよい。 現実の自分と理想の自分の区別がなかなかつかない人が多いのである。 そして、多くの日本人もその「ギタリストの自己認識の低さ」を認識している。 仮に読者の前に、「僕はギタリストです」と言う人が居たら、その言葉を素直に受け止める人が日本人に居るだろうか。 居ないだろう。 「僕はギタリストです」などという様な人間は、往々にして卯建の上らないロッケンローラーの様な恰好をし、仕事もなく誰からも相手にされず、その滑稽さを自分で認識できないタイプの人間だろう。 ギタリストとは、自己認識が低い人種だと言える。
僕はそういう自己認識の低いギタリストではない。 18歳の時に、ある先生からジャズギターを習い始めて、早大のジャズ研に顔を出すようになった。ジャズの世界というのは、実に厳しい世界である。 僕が先生に習っている間に、僕がしたことといえば「採譜」「耳コピ」だけだ。 CDやテープから耳だけを頼りに音を拾い出すこの耳コピという作業は、非常に辛い苦行のような作業である。 僕は、習っている間、この「耳コピ」を続けたし、習っていない時期も「耳コピ」を続けた。 耳コピは10年以上続けている。 ジャズ研で実際の演奏経験もつんだ。 ジャズ研というのは「嫌な人間」の展覧会である。 ジャズ研に住む悪魔は、自己幻想が高いギタリストの実力の無さを罵り、あっさり暴露し、侮辱し、慢心を完膚なきまで破壊し尽くす。 しまいには、女の子の前でパンツを脱がされて、性器にキンカンを塗られて、激痛と屈辱に耐えながら、演奏させられるのである。 自己愛幻想が0の地点から全てを始める。 だからジャズ研出身の人は、自己認識が的確な人が多いのではないか。(精神的に屈曲した人が多いという説もあるが。)
多数の演奏者が居るなかで行う即興演奏とは、つまり空気読みの訓練である。 周囲の演奏内容をよく聞いて、その場の調和を乱さないよう、かつ、そこに一輪の花をそっと飾りつけるように、演奏しなければいけない。 ジャズは決まった譜面が用意されている訳ではないので、その場の雰囲気を見て、音色や演奏内容を変化させなければいけない。 決まりきった事をすれば合格、という作業ではない。 最高の答えというものは存在せず、答えは状況によって変化する。 独創性が求められるとても難しい作業だ。 失敗すると、その場に居る演奏者・聴者からの冷たいオーラが自身の体に突き刺さるのを感じる。 演奏に失敗するということは、極めて辛い経験である。 そこには何の本音も建前も無い。 演奏が失敗した時の、観客からの義理の拍手ほど心に重くのしかかるものはない。 演奏が上手く行った時の楽しさは何にも変えがたいが、失敗した時の苦痛は万死に値する。 ジャズの演奏は生易しい行為ではない。自分の中の甘さは、即座に露呈する。 僕はそういう厳しい世界に居た。
僕は今、外国に居て、英語・中国語・ラオ語・タイ語を習っている。 僕はジャズの訓練と、語学の練習にとても強い相似性を感じている。 雰囲気を読むところ、相手の意図を汲むこと、リックを作ったり研究したりして、それをいつでも必要な瞬間に演奏する訓練、聞く訓練等々、ジャズの訓練と同じである。 僕が今までに合ってきた日本人のジャズミュージシャンの半数以上はバイリンガルだった。上手・下手はあるにせよ、 英語などの外国語を話す人が多かった。 外国語を話さない人も多いが、この様な人は、いわゆる「自分節」みたいな、独特の話し方を持っている人だった。 いずれにせよ独特な言語感覚を持った人が多かったように思う。 僕は、こういう事をみるにつけ、言葉とジャズに強い相関性を感じる。 しかも、ジャズミュージシャンは非常に他人に合わせるのが上手い。 よい演奏者は、会話をする上でも空気を読むのも上手い。 その場の雰囲気を読んで、そこでおもしろいギャグを言う、という事に関して命をかけている様な人が多い。 これもジャズと似ている。
僕はそういう日本人と付き合うことが多かった。 だが、そういう日本人は、例外的なのだろう。 ほとんどの日本人は上で述べたようなジャズミュージシャンとは対極の存在だ。 日本人は他人に合わせるのが極端に下手だ。 なのに人から合わせてもらいたいと常に願っている。 とても矛盾した存在だと僕は思う。
◇
僕は、「タイ人が好きだ」といっている日本人をほとんど信じない。 何故なら、「タイ人が好きだ」といっている日本人は「俺はギタリストなんだ」と言っている人と同類だからだ。 タイ人は他人に合わせるのがとても上手い。 だが、これは合わせているだけであって、彼らの本音ではない。 だからタイ人と応対するとき、こちらも同様に相手に合わせなければならない。しかし、日本人は他人に合わせるのが下手だ。 だから、彼らタイ人が日本人とつきあうと、タイ人は常に日本人に合わせっぱなしになってしまう。 顔はニコニコしているが、内心欲求不満を溜め込んでいる。 日本人は察しが悪いので、この事に気がつかない。
本来、タイ人が好きな日本人は、タイ人と同じレベルで気遣いが出来なければならない。 日本人と比べると、タイ人は常にオープンで、相手が何を言おうと全て受け入れる面がある。 タイ人は「自分には何を言っても全部受け入れるぞ」という事を常にアピールする。「飯を食いたいならすぐ言えよ」「腹一杯食えよ」「自分の家に居るように振る舞えよ」「何でも言えよ」としつこいほどに言う。 ところが日本人はそうではない。日本人には言っていいことと悪いことがある。 例え、日本人が「自分には何を言っても全部受け入れるぞ」という事を常にアピールしていたとしても、それは建前であるかもしれない。 言葉を額面どおりに受け取って何でも言いたいことを言うと、あとで大変なしっぺ返しを喰らうことがある。 日本人と話すときは、相手の発言に関わらず、厳密に言葉を選ばないといけない。 日本人は、思っている事を言わないし、そもそも言う事が出来ない。 タイ人は、常に相手の意見を汲み取ってそれを行動に移していく。 日本人は相手の意見を汲み取るふりをしているだけで実際にはまったく汲み取っていない。 本来、日本人がタイ人と付き合うときは、日本人も、タイ人と同じようにタイ人に対して「自分には何を言っても全部受け入れるぞ」という事を常にアピールし、実際に意見を汲み取って行動をしなければいけないのだが、日本人はそれをやらない。 気遣いは常に一方通行である。 タイ好きな日本人は、タイ人に気を遣ってもらっているだけなのだ。 タイ人はそういう日本人を内心嫌っている。
日本人は言っている事と考えている事が一致している事は極めて稀だ。 そんな日本人が、外国に行くとどうなるか。 コミュニケーションが成立せず、相手にされないだけだ。 これは、日本人がひとつの少数民族である、ということを表している。 日本人のコミュニケーション方法は極めて珍しく、他のどこの国のそれともまったく違う。 日本語の文法も、発音も、他の主流な言語と大幅に違う。 日本語と似ている言語を探すのが大変な位だ。 どれもこれも、日本人がひとつの少数民族である、ということの良い証拠である。 日本人は色々な国に行って色々な少数民族を見ているが、本当は日本人が一番の少数民族なのだ。 何故か日本人はこの事実にどうしても目が向かない。
◇
日本人の反中感情は中国を有利にする。 日本の反中感情が収まったら、怒るのは案外中国ではないだろうか。
反日感情・反中感情の多くは、作られた物である。 中国の4000年の歴史の中で、他民族が中国を占領したのは、日本だけなのだろうか。 決してそんなことはない。
中国の長い歴史の中で、常に中国人が中国の王だった訳ではない。 かつてモンゴル人などの他民族によって征服されている。日本もそういう侵略者のひとつでしかない。 日本軍によって中国はそんなに壊滅的な打撃を受けたのだろうか。 中国人の人口は20億人居るそうだが、そこに仮に10万人程度の日本人の軍隊が攻め込んだとして、この20億人の中国人をひとりひとり全員を虐殺しレイプしていたのだろうか。 簡単に計算すると、日本人一人当たり、1万人をレイプする計算になる。 無理である。 これはそこに何かの誇張があるということを暗示している。 中国は多民族国家だ。 中にはたくさんの民族が居る。 漢族と言われている人も色々だ。 漢族とは少数民族以外、程度の分類でしかなく、中にはたくさんの言語や文化にわかれている。 各民族間の中は往々にして案外悪いものだ。 ある民族が日本軍に破壊し尽されて、違う民族が「いい気味だ」と考えていてもおかしくない。 こういう民族どうしの足の引っ張りあいは大陸ではよくある話だ。 つまり、日本が満州国を作ったとき、日本の悪行を知った中国人が決起したという話は、恐らくウソだろう。 民衆は自然に決起しない。 そこには必ず、扇動している政治家が存在する。 煽動が無ければ決起も起こらない。 インターネットもテレビも無い時代に1000KMも2000KMも離れた地域の事件が噂だけで伝わらることはありえない。そこで大きな権力を持った人がお金をかけて日本の行為を、大きく脚色した上で宣伝していた筈だ。 その嘘を考えたのは恐らく中国人ですらない。 当時、中国を占領していた国々には、アメリカ・イギリス・ドイツなど、西洋の列強もたくさんおり、競っていた。 その中のある国がこういう嘘を考えたとしても何の不思議もない。 相手に合わせるのがへたくそで、相手の気持ちを察するのがへたくそな日本人は、中国人・アメリカ人・イギリス人などが考えた見え透いたウソによって、あっさり悪者に仕立て上げられてしまっている。 自分たちまでそのウソを信じ込まされているという点で、日本人は極めてお気楽ノンキである。 日本人は、本当のことを言う日本人をバカにして蹴落としすらする。 これが敵を有利にしているなど想像もしない。 日本人はウソに弱いという点で、実に救いがたい。
日本にも同じウソが配布されている。 反中だ。「中国人」という存在しない民族を作り、それの悪いイメージばかり宣伝し、日本人は中国人をバカにしているだけで、本来の姿を知ろうとしない。 これは明らかに、アメリカやイギリスが考えたプロパガンダだ。 日本と中国が結託して巨大な勢力になったりすることが無いように、中国には日本の悪いことを、日本には中国の悪いことを告げ口して回っているのだ。 ある人間とある人間とにそれぞれ違う嘘を言うことにより喧嘩をおこし、人間関係をかき回してドサクサに紛れて漁夫の利を得るのは、基本ソーシャルスキルのひとつだ。 そんな基本的なテクにすら簡単に引っかかってしまう、素直な日本人。
西側に住む人の多くは中国人をバカだと思っている。 中国人をバカにするプロパガンダが満ち溢れているからだ。 しかし、これは事実ではない。 中国は今猛烈な勢いで大国になる準備をしている。 準備はインフラ整備の様な目に見える物だけでなく、人種差別問題・女性の社会進出・民主化・経済格差問題・平等問題など、多岐に渡っている。 そんなか、西洋の反中プロパガンダは中国を有利にしている。 中国が大国になる準備をしている事がおおやけになれば、ようやっと立ち上がったばかりの中国を脆弱な今のうちに破壊しようとする勢力が現れる。 だから中国人は舐められている方が有利だ。 敵を油断させ、敵が油断しているうちに、準備を終わらせて、一気に形勢を逆転させたいはずだ。 これは恐らく今から数年以内に起るだろう。
中国が大国になるとき、日本人は本当の意味で少数民族になる。 少数民族は辛い。 世界中どこに行っても、相手がいう「普通」をいやいやながらにひたすら受け入れ続ける必要がある。 相手の普通を受け入れるということは、大変な精神力を必要とする作業だ。 人生全てを他人の文化を学びつづける苦労に投げ捨てなければいけない。 日本人は、そういう作業を強いられる時になって初めて自分たちが少数民族だと気がついてももう遅いのだ、ということを認識しなければならない。
この「顔を見て出身を当てる」という行為は、タイやラオでも当たり前の様にやる。 ロシアの人からも同じような話を聞いたことがある。ロシア人からは顔だけでなく、お尻の形を見て判別するという話を聞いたことがある。 アメリカなど顔にはっきりとした差があるので更に激しくやっているだろう。 アメリカでは差別もからんでいるので「顔を見て出身を当てる」という事が違法だ、とすら言いかねない。 それくらいに、これは極めてよくやられることだ。 それを可笑しいと笑う、彼らは興味深い。 彼らは外国に長年に渡って住んでいるにも関わらず、外国の文化に対してまったくの盲目である。
顔を見て出身を当てるのは、とても大切な事だ。 何故だろうか。 答えは驚くほど簡単だ。 間違えると失礼だからである。 そして、当てることが出来ると非常に有利にコミュニケーションを進められるからである。 ここまで説明しても彼ら8人は何故顔を見るのが大切なのか理解出来ないかもしれないが、そんな彼らでも、自分が韓国人と間違えられたり、中国人と間違えられたりすれば、即座に激怒するだろう。 彼らも「顔を見ることが大切だ」と言える要素を持っている。 僕は、日本人として「自分がされて嫌だと思うことは、他人にもしてはいけない」と子供の頃から教わってきた。 彼らは、自分がされて嫌なことを平気で他人にするという意味で、日本人ではない。 また、彼ら8人が、仮に、自分が韓国人・中国人と間違えられて怒らなかったとしても、「あなた日本人でしょう!」と当てられると、喜びはするだろう。「何故わかったの?」とすぐに心を開いてしまうに違いない。 つまり、騙され易い。
その事件が発生した日、その中のメンバーで一人だけ年長の方がいたのだが、その方と後で飲みに行った。 帰りがけ、電話番号を交換しようということになった。 彼は自分自身の電話番号を覚えていなかった上、丁度、携帯電話を部屋に忘れて来ていた。 しかし、彼は自分のメールアドレスを覚えていたので、 後でメールで電話番号を交換しようという話になった。 メールでお礼の手紙を書いて送ったら、先日とても短い返事が送られてきた。 その時は忙しかったので、深く読まず何となくやり過ごしていたのだが、ふと今日になって、そのメールに、電話番号が書かれていないことに気がついた。 これはどういう意味だろうか。 こういう時の対応は非常に難しい。 タイやアメリカや中国だったら「酔っ払って忘れたんじゃないの?」と即座に返答出来る。 だけど日本だとひょっとしたら「もう電話をかけてくれるな」という暗黙のメッセージである可能性がある。 このメッセージを使う人と使わない人の両方が居る。 タイやラオ・中国だと、顔を見れば「こういうやり方を使う人」「こういうやり方を使わない人」の判別も大体つく。 だけど、日本人の場合、顔を見ただけでこの判別は無理だ。 慣れれば日本にも顔の地域差がある事に気がつくが、文化を当てる事が出来るほどには精度が高くない。 この日本人の場合も、「もう電話をかけてくれるな」という暗黙のメッセージか、そうでないかは判別がつかない。 しばらく様子を見ようと思う。
日本人の人間関係は、とにかく疲れる。 何故だろうか。 他人がどういう出方をしてくるのか、まったく読めないからだ。 これは多分、日本人がみんな誰かに言わずして自分の意図を汲んでもらい、合わせてもらおうとしているからではないだろうか。 日本人は個体差が非常に激しい。 タイ・ラオ・中国の様に、民族間の住み分けがある国では、民族によって出方に決まった傾向があり、それをみなよく知っているので、相手の出方を読むことが出来る。 しかし、小さな島国であるにも関わらず隅から隅まで超高速鉄道を引いてしまい、地域間の住み分けが完膚なきまで破壊されてしまっている日本では無理だ。
日本人は、しばしば「どこかに自分を理解してくれる人が居る」と信じている。 これは幻想だ。 自分の意図は、自分の手で書いた文章や、自分の口で話した言葉が無ければ決して他人に伝わることはない。 自分の思いを文章にしたためることもせず、自分の思いを饒舌に語ることもなく、何故他人がその思いを理解する事が出来るのであろうか。 超能力者以外、無理である。
僕は普通の日本人とかなり性格が違う。 僕が日本に居る時は、日本での正常な日常生活を送るにあたって、他人に合わせる必用がある。僕は、高度に自分を演じなければいけないし、演じる事にとても大きな精神力を必要とする。 だから、コミュニケーションを運営する為に大きな精神力を使うことに慣れている。 ここまでは僕の責任である。 だが、残念な事に、日本人の多くの人は、僕が他人に合わせる為に使っている精神力の大きさ程、僕に合わせることに精神力を使ってくれない。 だから僕は常に他人に合わせっぱなしである。 僕がタイに居て楽だと思うのは、この合わせることに大きな精神力を使うことに慣れている人が多い、という事だ。 タイ人は人間関係に対してとても辛抱強い。 日本人はタイ人ほど辛抱強くない。
昨日僕は、学校のラオ人の生徒が国から持ってきたという白いギターを借り受けて、長らく遊んだ。 僕はギターが好きなのだが、もうかれこれ五年間、封印している。 語学やプログラミングに集中する為だ。 だが、昨日は久しぶりに長い時間演奏した。 夜寝る前に演奏し、そのまま寝て、朝起きてもずっと演奏していた。 僕はジャズギターを弾き始めて、もうかれこれ20年である。 ジャズ演奏を身につけるいう事は、日本で日常生活を送る者に取って、非常に大きな困難を伴うものだ。 長い訓練が必要である。(※) 僕は特に「厳しい」と思ってそういう訓練を続けて来た訳ではないし、むしろ楽しくて辞められなかったので訓練を続けてきたのだけど、僕がしている事を他人にやらせると10分も続かない。 一般的な感覚から見ると、厳しい訓練なのだと思う。 僕はこういう「厳しい」訓練を20年続けてきた訳だ。
※ ある文化圏に所属していると、ジャズ演奏の様なスキルを身につけることは、非常に簡単である。 この様な文化圏に住む人はまるで住民が全員ミュージシャンであるかの様だ。 そういう文化圏はたくさん存在する。
ところで、日本人は自己認識が苦手である。 特に自己主張を含む芸術をする人ほど、その傾向が顕著だ。 特に僕が指向しているギタリストという人種は、特に自己主張が強い芸術を志している人種であり、自己認識がへたくそな人の巣窟と言ってよい。 現実の自分と理想の自分の区別がなかなかつかない人が多いのである。 そして、多くの日本人もその「ギタリストの自己認識の低さ」を認識している。 仮に読者の前に、「僕はギタリストです」と言う人が居たら、その言葉を素直に受け止める人が日本人に居るだろうか。 居ないだろう。 「僕はギタリストです」などという様な人間は、往々にして卯建の上らないロッケンローラーの様な恰好をし、仕事もなく誰からも相手にされず、その滑稽さを自分で認識できないタイプの人間だろう。 ギタリストとは、自己認識が低い人種だと言える。
僕はそういう自己認識の低いギタリストではない。 18歳の時に、ある先生からジャズギターを習い始めて、早大のジャズ研に顔を出すようになった。ジャズの世界というのは、実に厳しい世界である。 僕が先生に習っている間に、僕がしたことといえば「採譜」「耳コピ」だけだ。 CDやテープから耳だけを頼りに音を拾い出すこの耳コピという作業は、非常に辛い苦行のような作業である。 僕は、習っている間、この「耳コピ」を続けたし、習っていない時期も「耳コピ」を続けた。 耳コピは10年以上続けている。 ジャズ研で実際の演奏経験もつんだ。 ジャズ研というのは「嫌な人間」の展覧会である。 ジャズ研に住む悪魔は、自己幻想が高いギタリストの実力の無さを罵り、あっさり暴露し、侮辱し、慢心を完膚なきまで破壊し尽くす。 しまいには、女の子の前でパンツを脱がされて、性器にキンカンを塗られて、激痛と屈辱に耐えながら、演奏させられるのである。 自己愛幻想が0の地点から全てを始める。 だからジャズ研出身の人は、自己認識が的確な人が多いのではないか。(精神的に屈曲した人が多いという説もあるが。)
多数の演奏者が居るなかで行う即興演奏とは、つまり空気読みの訓練である。 周囲の演奏内容をよく聞いて、その場の調和を乱さないよう、かつ、そこに一輪の花をそっと飾りつけるように、演奏しなければいけない。 ジャズは決まった譜面が用意されている訳ではないので、その場の雰囲気を見て、音色や演奏内容を変化させなければいけない。 決まりきった事をすれば合格、という作業ではない。 最高の答えというものは存在せず、答えは状況によって変化する。 独創性が求められるとても難しい作業だ。 失敗すると、その場に居る演奏者・聴者からの冷たいオーラが自身の体に突き刺さるのを感じる。 演奏に失敗するということは、極めて辛い経験である。 そこには何の本音も建前も無い。 演奏が失敗した時の、観客からの義理の拍手ほど心に重くのしかかるものはない。 演奏が上手く行った時の楽しさは何にも変えがたいが、失敗した時の苦痛は万死に値する。 ジャズの演奏は生易しい行為ではない。自分の中の甘さは、即座に露呈する。 僕はそういう厳しい世界に居た。
僕は今、外国に居て、英語・中国語・ラオ語・タイ語を習っている。 僕はジャズの訓練と、語学の練習にとても強い相似性を感じている。 雰囲気を読むところ、相手の意図を汲むこと、リックを作ったり研究したりして、それをいつでも必要な瞬間に演奏する訓練、聞く訓練等々、ジャズの訓練と同じである。 僕が今までに合ってきた日本人のジャズミュージシャンの半数以上はバイリンガルだった。上手・下手はあるにせよ、 英語などの外国語を話す人が多かった。 外国語を話さない人も多いが、この様な人は、いわゆる「自分節」みたいな、独特の話し方を持っている人だった。 いずれにせよ独特な言語感覚を持った人が多かったように思う。 僕は、こういう事をみるにつけ、言葉とジャズに強い相関性を感じる。 しかも、ジャズミュージシャンは非常に他人に合わせるのが上手い。 よい演奏者は、会話をする上でも空気を読むのも上手い。 その場の雰囲気を読んで、そこでおもしろいギャグを言う、という事に関して命をかけている様な人が多い。 これもジャズと似ている。
僕はそういう日本人と付き合うことが多かった。 だが、そういう日本人は、例外的なのだろう。 ほとんどの日本人は上で述べたようなジャズミュージシャンとは対極の存在だ。 日本人は他人に合わせるのが極端に下手だ。 なのに人から合わせてもらいたいと常に願っている。 とても矛盾した存在だと僕は思う。
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僕は、「タイ人が好きだ」といっている日本人をほとんど信じない。 何故なら、「タイ人が好きだ」といっている日本人は「俺はギタリストなんだ」と言っている人と同類だからだ。 タイ人は他人に合わせるのがとても上手い。 だが、これは合わせているだけであって、彼らの本音ではない。 だからタイ人と応対するとき、こちらも同様に相手に合わせなければならない。しかし、日本人は他人に合わせるのが下手だ。 だから、彼らタイ人が日本人とつきあうと、タイ人は常に日本人に合わせっぱなしになってしまう。 顔はニコニコしているが、内心欲求不満を溜め込んでいる。 日本人は察しが悪いので、この事に気がつかない。
本来、タイ人が好きな日本人は、タイ人と同じレベルで気遣いが出来なければならない。 日本人と比べると、タイ人は常にオープンで、相手が何を言おうと全て受け入れる面がある。 タイ人は「自分には何を言っても全部受け入れるぞ」という事を常にアピールする。「飯を食いたいならすぐ言えよ」「腹一杯食えよ」「自分の家に居るように振る舞えよ」「何でも言えよ」としつこいほどに言う。 ところが日本人はそうではない。日本人には言っていいことと悪いことがある。 例え、日本人が「自分には何を言っても全部受け入れるぞ」という事を常にアピールしていたとしても、それは建前であるかもしれない。 言葉を額面どおりに受け取って何でも言いたいことを言うと、あとで大変なしっぺ返しを喰らうことがある。 日本人と話すときは、相手の発言に関わらず、厳密に言葉を選ばないといけない。 日本人は、思っている事を言わないし、そもそも言う事が出来ない。 タイ人は、常に相手の意見を汲み取ってそれを行動に移していく。 日本人は相手の意見を汲み取るふりをしているだけで実際にはまったく汲み取っていない。 本来、日本人がタイ人と付き合うときは、日本人も、タイ人と同じようにタイ人に対して「自分には何を言っても全部受け入れるぞ」という事を常にアピールし、実際に意見を汲み取って行動をしなければいけないのだが、日本人はそれをやらない。 気遣いは常に一方通行である。 タイ好きな日本人は、タイ人に気を遣ってもらっているだけなのだ。 タイ人はそういう日本人を内心嫌っている。
日本人は言っている事と考えている事が一致している事は極めて稀だ。 そんな日本人が、外国に行くとどうなるか。 コミュニケーションが成立せず、相手にされないだけだ。 これは、日本人がひとつの少数民族である、ということを表している。 日本人のコミュニケーション方法は極めて珍しく、他のどこの国のそれともまったく違う。 日本語の文法も、発音も、他の主流な言語と大幅に違う。 日本語と似ている言語を探すのが大変な位だ。 どれもこれも、日本人がひとつの少数民族である、ということの良い証拠である。 日本人は色々な国に行って色々な少数民族を見ているが、本当は日本人が一番の少数民族なのだ。 何故か日本人はこの事実にどうしても目が向かない。
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日本人の反中感情は中国を有利にする。 日本の反中感情が収まったら、怒るのは案外中国ではないだろうか。
反日感情・反中感情の多くは、作られた物である。 中国の4000年の歴史の中で、他民族が中国を占領したのは、日本だけなのだろうか。 決してそんなことはない。
中国の長い歴史の中で、常に中国人が中国の王だった訳ではない。 かつてモンゴル人などの他民族によって征服されている。日本もそういう侵略者のひとつでしかない。 日本軍によって中国はそんなに壊滅的な打撃を受けたのだろうか。 中国人の人口は20億人居るそうだが、そこに仮に10万人程度の日本人の軍隊が攻め込んだとして、この20億人の中国人をひとりひとり全員を虐殺しレイプしていたのだろうか。 簡単に計算すると、日本人一人当たり、1万人をレイプする計算になる。 無理である。 これはそこに何かの誇張があるということを暗示している。 中国は多民族国家だ。 中にはたくさんの民族が居る。 漢族と言われている人も色々だ。 漢族とは少数民族以外、程度の分類でしかなく、中にはたくさんの言語や文化にわかれている。 各民族間の中は往々にして案外悪いものだ。 ある民族が日本軍に破壊し尽されて、違う民族が「いい気味だ」と考えていてもおかしくない。 こういう民族どうしの足の引っ張りあいは大陸ではよくある話だ。 つまり、日本が満州国を作ったとき、日本の悪行を知った中国人が決起したという話は、恐らくウソだろう。 民衆は自然に決起しない。 そこには必ず、扇動している政治家が存在する。 煽動が無ければ決起も起こらない。 インターネットもテレビも無い時代に1000KMも2000KMも離れた地域の事件が噂だけで伝わらることはありえない。そこで大きな権力を持った人がお金をかけて日本の行為を、大きく脚色した上で宣伝していた筈だ。 その嘘を考えたのは恐らく中国人ですらない。 当時、中国を占領していた国々には、アメリカ・イギリス・ドイツなど、西洋の列強もたくさんおり、競っていた。 その中のある国がこういう嘘を考えたとしても何の不思議もない。 相手に合わせるのがへたくそで、相手の気持ちを察するのがへたくそな日本人は、中国人・アメリカ人・イギリス人などが考えた見え透いたウソによって、あっさり悪者に仕立て上げられてしまっている。 自分たちまでそのウソを信じ込まされているという点で、日本人は極めてお気楽ノンキである。 日本人は、本当のことを言う日本人をバカにして蹴落としすらする。 これが敵を有利にしているなど想像もしない。 日本人はウソに弱いという点で、実に救いがたい。
日本にも同じウソが配布されている。 反中だ。「中国人」という存在しない民族を作り、それの悪いイメージばかり宣伝し、日本人は中国人をバカにしているだけで、本来の姿を知ろうとしない。 これは明らかに、アメリカやイギリスが考えたプロパガンダだ。 日本と中国が結託して巨大な勢力になったりすることが無いように、中国には日本の悪いことを、日本には中国の悪いことを告げ口して回っているのだ。 ある人間とある人間とにそれぞれ違う嘘を言うことにより喧嘩をおこし、人間関係をかき回してドサクサに紛れて漁夫の利を得るのは、基本ソーシャルスキルのひとつだ。 そんな基本的なテクにすら簡単に引っかかってしまう、素直な日本人。
西側に住む人の多くは中国人をバカだと思っている。 中国人をバカにするプロパガンダが満ち溢れているからだ。 しかし、これは事実ではない。 中国は今猛烈な勢いで大国になる準備をしている。 準備はインフラ整備の様な目に見える物だけでなく、人種差別問題・女性の社会進出・民主化・経済格差問題・平等問題など、多岐に渡っている。 そんなか、西洋の反中プロパガンダは中国を有利にしている。 中国が大国になる準備をしている事がおおやけになれば、ようやっと立ち上がったばかりの中国を脆弱な今のうちに破壊しようとする勢力が現れる。 だから中国人は舐められている方が有利だ。 敵を油断させ、敵が油断しているうちに、準備を終わらせて、一気に形勢を逆転させたいはずだ。 これは恐らく今から数年以内に起るだろう。
中国が大国になるとき、日本人は本当の意味で少数民族になる。 少数民族は辛い。 世界中どこに行っても、相手がいう「普通」をいやいやながらにひたすら受け入れ続ける必要がある。 相手の普通を受け入れるということは、大変な精神力を必要とする作業だ。 人生全てを他人の文化を学びつづける苦労に投げ捨てなければいけない。 日本人は、そういう作業を強いられる時になって初めて自分たちが少数民族だと気がついてももう遅いのだ、ということを認識しなければならない。
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