おかあつ昆明記:11月25日 (おかあつ)
2010年11月27日 14:08
今週月曜から4コマ取っている授業の半分を個人レッスンに変えてもらった。
(あらすじ:おかあつは今、タイ東北部を離れ、中国南部雲南省の昆明という街にある「華僑文化学校」という学校にてラオ人や北部タイ人ベトナム人の華僑の子孫の中に混じって中国語を勉強している。昆明には日本人は決して多くないのだが大体100人前後の日本人が住んでいるのではないか、という話である。)
僕は今、昆明にある華僑文化学校で中国語の授業を受けているのだが、この学校に入学したばかりの先月初頭は、入学したばかりでしょうがないということで、落ちこぼれグループ見たいなクラスに入れてもらって、いちから文法を教えてもらっていた。先週からもう追いついたからいいだろう、という事で普通の授業に編入した。 だけど、普通の授業に出ると、何というかいまいち進歩しているという手応えがなかった。
しかし、これはどうも僕が日本人だからこそ発生する問題であるようだった。 僕はタイ語が話せて、教室に居るラオ人やタイ人と会話をする事が出来る。 しかし、僕はタイ人ではない。 タイ人と僕の最大の違いは何か。 それは僕が漢字を読むことが出来るということだ。 タイ人が中国語を学ぶ際には、十年以上かけて苦労の上で漢字を学ぶ。 それなのに、僕は一切勉強しなくても漢字を読み書きすることが出来る。 これは極めて決定的な違いである。
多くの外国人に取って、中国語の発音はさほど難しくないらしい。 中国語の発音は子音の種類が多い。語尾のN/M/NGの区別がはっきりしている。 声調も厳格に決まっている。 日本人にとって、これらを正しく発音する事は、日本語にない発音を新しく学ぶ必要があることにより、かなり難しい。 だけど、ベトナム人・タイ人・ラオ人等、東南アジア圏の人たちにとっては、これらの発音区分の多くは母国語と共通であり、非常に簡単であるらしい。 西洋人にとっても、子音の数が日本語よりもずっと多いことがあるので、日本人ほどの苦労はしないらしい。
しかし中国語の文字は外人に取って一つの鬼門だ。 中国語の文字を学ぶ為に、多くの外国人は10年以上の年月をかける。 ところが、日本人にとって、この状況は真逆といってよい。 日本人は10年というような長い年月をかけなくとも全ての漢字を覚える事は可能だろう。 1年以内だって可能かもしれない。 もう既に一度学んだことばかりだからだ。 つまり、日本人にとって、発音は非常に難しいのだが、漢字は楽勝なのだ。
だから、タイ人や西洋人と一緒に勉強していると、漢字の勉強ばかりさせられ、発音の勉強をほとんどしないということになる。 これは日本人にとって実に無意味である。 日本人にとっては、漢字の勉強はほとんど必要がない。 実際僕は入学したばかりの段階で、6冊ある1年次の教科書のほとんどの内容を理解できた。 ほとんどの漢字は日本語と共通だからだ。しかも内容が抽象的になればなるほど、共通な単語は増える。 つまり、日本人にとっては、難しい文章になればなるほど、簡単になる。 この点、非漢字圏の外国人とまったく異なる。
一方全ての漢字の発音が日本語の音読みと異なる為、一つも正しく発音することが出来ない。 そんな日本人にとっては、漢字の勉強は一切せずに、じっくり時間をかけてピンイン表の発音をひとつひとつ学んでいくというのが、理想的である。
その事に気がついたので、他の生徒と一緒に授業を受けるのを断念して個人授業に変えてもらったのだ。
上海で中国語を勉強すると日本人ばっかりで全然勉強にならない、ってよく言われる。 しかしそれは本当なのだろうか。 日本人が中国語を勉強する時は、多少日本人同士で固まっていた方が良いのではないだろうか。 日本人が中国語を勉強するのは、他の国の人が中国語を勉強するのと別物だからだ。(それがそうでないとすると、これは日本人独特のコミュニケーション不全から来る問題だろう。)
◇
この華僑学校にも日本人がいたことがあるという。 僕が色々な不満を先生に言った時、先生に「この学校にも日本人の生徒がいたことがあるし、文句を言われたこともない、ちゃんと対応できる。」って言われた。 だけど、この授業の内容で日本人が納得する筈がない。 日本人には日本人専用の特別なプログラムが必要なという事は明らかで、それがないということは、日本人が満足していることはありえない。恐らく、日本人は多分不満を持ちつつも相手の顔をたてて言わなかったのであろう。
この様に、日本人は何か苦情を持っていても相手に伝える事はまずない。 それを心の中にとどめて我慢する。 その我慢している心情を理解してもらえないと、密かにフラストレーションを溜めこむ。 それが我慢しきれないレベルに達すると、爆発するか、何も言わずにその場所を去る。 だからこそ、学校の先生も事実を知らない。
一方、時間を守らないとか、規則を守らないとか、授業を時間前に終わってしまうとか、そういう事は、ものすごくはっきりと苦情を述べる様だ。これは日本人が相手の顔を立てる為に苦情を言ってはならないのだが、規則で決まっている事が守られない時に限り、苦情を言うことが許される、と思っているからだろう。
この様な習性から、日本人は、相手の行動に大きな不満を持ってその不満を言わずにグッと我慢しているにも関わらず、多くの国の人から、むしろ逆に口うるさい人だ、という風に思われがちである。 日本人のこの性格は非常に損ではないかと僕は思う。
東南アジアの人はこういう約束に対する習慣を持っていない。 相手が多少約束を守らなくても、大目に見ている。 あまり細かい事をブツブツ文句言わない。 一方、本当に深刻な不満を持っている場合は、タイミングを見つつはっきりと苦情を言う。
この様な東南アジアの人たちの苦情に関する習慣は、大筋、僕がアメリカにいた時に見た習慣とかなり近い様に思う。 アメリカに住んでいる様々な民族出身の人は、東南アジアの人とほぼ同じような苦情に対する習慣を持っている。 恐らくだが、ほとんどの国の人が同じ習慣を持っているのではないだろうか。
上で、アメリカと東南アジアの苦情に関する習慣を「ほぼ同じだ」と書いたが、実際には結構違う。 しかし、この二つと日本とを比べた時、この二つはほとんど同じと言っても差し支えがない程に、日本はこの二つと違っている。 日本人はこの点かなりユニークなのではないか。 日本人は、多国籍人間関係の中で、馴染めずに浮きやすい様に思う。 それは、苦情に関する習慣が多くの国と異なるからではないだろうか。 怒る時の起爆ポイントが他の国の人とずいぶん違うので、いきなり爆発してまわりから「何で怒ってるんだろう」と不思議がられる事が多い。
◇
授業で、ピンイン表を片端から読んでいくという練習をしている。 全ての子音と母音を組み合わせ、全ての音節を導き出した表がある。これの一つの発音に付き、全部で四声ある声調を全部当てはめる。 これを全部発音する。全部読み終えるのに1時間程度かかる。 授業中に一回、復習時に一回読む。
この学校に来た時、世話になったタイ人の同級生が居るのだが、僕は最初この人が中国語で何を言っているのか聞き取ることがまったく出来なかった。 今日、ふと気がつけば、彼の言う言葉の基本部分は聞き取れる様になっていた。 はっきりとした進歩だと思った。 この調子で頑張ろうと思う。
日本人は、中国語に関して、ある程度基礎単語を学び、初級を脱出したならば、それ以上勉強する必要はないのではないか、と思う。ピンイン表を使って発音を学んでしまえば、中国語の漢字の発音を覚えていく作業は、いわば「新しい音読」の学習とでも言うべき作業で、さほど手間取ることなく頭に入っていく。 この「新しい音読み」を中学校で習う漢文の様に並べていけば多少間違っていても通じる。 最も大切な事は、ピンイン表を使って発音を学ぶ事で、これさえ学べば、後は時間の問題ではないかと思われる。
◇
最近HSKという中国語検定試験を受験する為に、ラオスからたくさん学生が僕が滞在している華僑学校に来訪している。 500USD 払うと飛行機代から宿泊費、補講費まで全部コミコミで面倒見てくれるという。 みんな非常にお金持ち的な雰囲気でエリート的である。同級生のラオ軍団は、みんな尻込みしてしまって話しかけられない。
僕のラオ語が話せる珍しさを武器に「お前が行って話しかけてこい」という話しになった。 で、しばらく様子を見ていた。 昨日学校の入り口にある万国旗の前で写真を取っているのを見つけた。それで「写真撮りましょうか」ってラオ語で話しかけた。 そうしたら「この人何を言っているんだろう」「ウーン」とか言っているのが聞こえた。 しばらくしたら「ラオ語だ!」って言われて、この人ラオ語が話せるんだよ!っていう風になった。それで仲良くなった。
このHSK受験群団には、南部ラオから来ている人も居た。 僕の中国語初級クラスのラオ軍団には、北ラオ・中央ラオ・南ラオの全地域からやってきたラオ人が揃っている。 うちにも南部の人居るよ!っていう話をしたら興味を持ってくれて、同級生ラオ軍団とジョイントすることに成功した。
HSK 受験群団に引率の先生が居るのだけど、この人が色々な事をはなしてくれた。 しかしラオ語は難しいと思った。 この時、先生が何を言ってるかほとんど聞き取ることができなかった。 中国語・タイ語・英語よりずっと難しいと思う。 中国語もタイ語も英語もきちんと教科書があって、学校もある。 間違った発音を直してくれる先生も居る。 だけど、ラオ語にはこのどれも存在しない。 ひたすら感性と直感だけに頼って勉強する必要がある。 この点、ラオ語の学習には、人間として本質的な能力が求められる。
◇
ラオHSK受験群団の中で仲良くなった人にビエンチャンから来ている男の子が居た。 しばらく色々な事を話していたら、実は、ビエンチャンのコプチャイドーカフェで働いている人だということを教えてくれた。 コプチャイドーに限らず、ラオのビジネスは必ず親族稼業だ。 つまり彼はコプチャイドーのオーナーと親戚の間柄という事だった。 ラオスに居る時は、コプチャイドーにほとんど毎日の様に行くので、とてもビックリした。 まさかコプチャイドーの関係者と、こんなところでこんな形で出会うとは思いも寄らなかった。
何となく思うのだけど、ラオスは、ラオ語が話せるだけだと、何かいまいち人間関係が広がらない様に思う。 だけど、ラオ語が話せて、もう一個何か言葉が話せると、すごく人間関係が広がる様に思う。 ラオ語が話せると、何か村の中の人だけものすごく仲良くなるというか、人間関係がものすごく特定の一ヶ所に集中しがちな気がする。 だけど中国語が話せるとその状況がかなり変化する。 多分だけど、バンコクやイサーン・ウドンタニーも同じだろう。
あまりこういう言い方は良くないが、しばしばこういう事を思う。 僕はかなり貴重な事を知っているし、色々な能力を持っているけど、僕が住んでいるウドンの村の人にしてみれば、口うるさくて小賢しい邪魔者でしかない。だけど、僕が持っている音楽の知識とかコンピューターの知識とかを欲しがっているラオの人もたくさん居る。 僕はそういう人とこそ付き合うべきだ。 何故わざわざ僕を嫌う人と頑張って付き合わなければいけないのだろう。 僕が住んでいる村の人には散々な目に合わされたが、僕はそれに対処する方法を学び、彼らが僕を強くしてくれたとも言える。僕が対処する方法を学んでしまったからこそ、余計僕が煙たいのだろうが。
僕は理屈っぽい文章ばかり書いているが、パッと見るとあまりそういう風な人間には見えない様だ。 あまり難しいことは考えそうもない人に見えるらしい。 僕は、文章を書いたり、外国文化について研究したり、プログラムを組んだり、ギターを演奏したりするが、そういう事をする人には見えないらしい。
ある世界に深く入っていくと他の世界の人と疎遠になる。 ある違う世界に入っていく為には、深く集中する必要がある。 一度集中が終わってしまえば、何も考えずともその世界に馴染むことが出来る。 そして、一度集中が終わってしまえば、他の世界と疎遠になる。
一番難しいのが、切り替えだ。 切り替えが出来ないと、その世界に深く入っている価値が少なくなる。 切り替えが出来ると、突然価値が爆発的に生まれてくる。
だけど、僕は切り替えが出来ない。
考えてみれば、切り替えはひとつのパフォーマンスだ。 自分に取っては小指の先でつつく程に楽勝な事を、さも大変な事であるように見せかけたり、ものすごく大変な労力が必要な事を、さも簡単な事であるかの様に見せかけたりする。 半分は本当の事なのだが、もう半分はウソの世界だ。 真実っていうのは、一部のマニアを除いて難解で頭の痛い事なのだろう。僕はそういうマニアが大好きなのだけど。その僕が大好きなマニアの世界を一旦忘れ、加えて、それが何の楽しみもない頭の痛い事である事に理解を示して、しかもそれが楽勝であるかの様に演技をする。
◇
これから師範大学の日本人群団と食事に行く。先日から金曜日に食事に行こうという約束があったのだが、今しがた電話で聞いたら8人の日本人が来るという。 その中には中国語だけじゃなくてタイ語も話せる日本人がいる。
そこにタイ人の男の子が1人 ... 中国語・タイ語・北部タイ語・そして日本語が話せるという優秀なタイ人の男の子が加わる。 この子は非常に性格がよいこだ。
本当は、華僑学校のラオ群団を引率してジョイントしたらおもしろい、と思っていた。 だけど日本人8人はちょっと多い。 こういう時に日本人のコミュニケーション力の低さが顕著に明かになる。 日本人って実にコミュニケーション力が低いので、こういうジョイントの仕方をすると相手の文化をまったく受け入れる事が出来ずに、どうやっても取り繕うことが出来なくなってしまうのだ。
僕が今一番頻繁に電話をやりとりしている日本人は、タイ語・中国語が話せるという極めて優秀な日本語教師なのだが、彼の人間関係の観察力の無さには特筆すべきものがあって、僕は正直一緒にいて非常に疲れる。 だから、今、行こうかいくまいか非常に迷っている。
彼は中国にいて何を学んでいるんだろうか。 彼はまだ若く、28歳だというのだが、年齢は関係ないだろう。 もう少し本質を見る目を養って欲しい物だと思う。 彼の子供っぽさは、ラオ人で言えば10歳の子と変わらない。 15歳の悪ガキだって、彼より世の中というものを知っているだろう。
しかしタイ人の男の子は8人の日本人を相手にして、よく疲れない物だ。 日本人ですら疲れている位なのに。
(あらすじ:おかあつは今、タイ東北部を離れ、中国南部雲南省の昆明という街にある「華僑文化学校」という学校にてラオ人や北部タイ人ベトナム人の華僑の子孫の中に混じって中国語を勉強している。昆明には日本人は決して多くないのだが大体100人前後の日本人が住んでいるのではないか、という話である。)
僕は今、昆明にある華僑文化学校で中国語の授業を受けているのだが、この学校に入学したばかりの先月初頭は、入学したばかりでしょうがないということで、落ちこぼれグループ見たいなクラスに入れてもらって、いちから文法を教えてもらっていた。先週からもう追いついたからいいだろう、という事で普通の授業に編入した。 だけど、普通の授業に出ると、何というかいまいち進歩しているという手応えがなかった。
しかし、これはどうも僕が日本人だからこそ発生する問題であるようだった。 僕はタイ語が話せて、教室に居るラオ人やタイ人と会話をする事が出来る。 しかし、僕はタイ人ではない。 タイ人と僕の最大の違いは何か。 それは僕が漢字を読むことが出来るということだ。 タイ人が中国語を学ぶ際には、十年以上かけて苦労の上で漢字を学ぶ。 それなのに、僕は一切勉強しなくても漢字を読み書きすることが出来る。 これは極めて決定的な違いである。
多くの外国人に取って、中国語の発音はさほど難しくないらしい。 中国語の発音は子音の種類が多い。語尾のN/M/NGの区別がはっきりしている。 声調も厳格に決まっている。 日本人にとって、これらを正しく発音する事は、日本語にない発音を新しく学ぶ必要があることにより、かなり難しい。 だけど、ベトナム人・タイ人・ラオ人等、東南アジア圏の人たちにとっては、これらの発音区分の多くは母国語と共通であり、非常に簡単であるらしい。 西洋人にとっても、子音の数が日本語よりもずっと多いことがあるので、日本人ほどの苦労はしないらしい。
しかし中国語の文字は外人に取って一つの鬼門だ。 中国語の文字を学ぶ為に、多くの外国人は10年以上の年月をかける。 ところが、日本人にとって、この状況は真逆といってよい。 日本人は10年というような長い年月をかけなくとも全ての漢字を覚える事は可能だろう。 1年以内だって可能かもしれない。 もう既に一度学んだことばかりだからだ。 つまり、日本人にとって、発音は非常に難しいのだが、漢字は楽勝なのだ。
だから、タイ人や西洋人と一緒に勉強していると、漢字の勉強ばかりさせられ、発音の勉強をほとんどしないということになる。 これは日本人にとって実に無意味である。 日本人にとっては、漢字の勉強はほとんど必要がない。 実際僕は入学したばかりの段階で、6冊ある1年次の教科書のほとんどの内容を理解できた。 ほとんどの漢字は日本語と共通だからだ。しかも内容が抽象的になればなるほど、共通な単語は増える。 つまり、日本人にとっては、難しい文章になればなるほど、簡単になる。 この点、非漢字圏の外国人とまったく異なる。
一方全ての漢字の発音が日本語の音読みと異なる為、一つも正しく発音することが出来ない。 そんな日本人にとっては、漢字の勉強は一切せずに、じっくり時間をかけてピンイン表の発音をひとつひとつ学んでいくというのが、理想的である。
その事に気がついたので、他の生徒と一緒に授業を受けるのを断念して個人授業に変えてもらったのだ。
上海で中国語を勉強すると日本人ばっかりで全然勉強にならない、ってよく言われる。 しかしそれは本当なのだろうか。 日本人が中国語を勉強する時は、多少日本人同士で固まっていた方が良いのではないだろうか。 日本人が中国語を勉強するのは、他の国の人が中国語を勉強するのと別物だからだ。(それがそうでないとすると、これは日本人独特のコミュニケーション不全から来る問題だろう。)
◇
この華僑学校にも日本人がいたことがあるという。 僕が色々な不満を先生に言った時、先生に「この学校にも日本人の生徒がいたことがあるし、文句を言われたこともない、ちゃんと対応できる。」って言われた。 だけど、この授業の内容で日本人が納得する筈がない。 日本人には日本人専用の特別なプログラムが必要なという事は明らかで、それがないということは、日本人が満足していることはありえない。恐らく、日本人は多分不満を持ちつつも相手の顔をたてて言わなかったのであろう。
この様に、日本人は何か苦情を持っていても相手に伝える事はまずない。 それを心の中にとどめて我慢する。 その我慢している心情を理解してもらえないと、密かにフラストレーションを溜めこむ。 それが我慢しきれないレベルに達すると、爆発するか、何も言わずにその場所を去る。 だからこそ、学校の先生も事実を知らない。
一方、時間を守らないとか、規則を守らないとか、授業を時間前に終わってしまうとか、そういう事は、ものすごくはっきりと苦情を述べる様だ。これは日本人が相手の顔を立てる為に苦情を言ってはならないのだが、規則で決まっている事が守られない時に限り、苦情を言うことが許される、と思っているからだろう。
この様な習性から、日本人は、相手の行動に大きな不満を持ってその不満を言わずにグッと我慢しているにも関わらず、多くの国の人から、むしろ逆に口うるさい人だ、という風に思われがちである。 日本人のこの性格は非常に損ではないかと僕は思う。
東南アジアの人はこういう約束に対する習慣を持っていない。 相手が多少約束を守らなくても、大目に見ている。 あまり細かい事をブツブツ文句言わない。 一方、本当に深刻な不満を持っている場合は、タイミングを見つつはっきりと苦情を言う。
この様な東南アジアの人たちの苦情に関する習慣は、大筋、僕がアメリカにいた時に見た習慣とかなり近い様に思う。 アメリカに住んでいる様々な民族出身の人は、東南アジアの人とほぼ同じような苦情に対する習慣を持っている。 恐らくだが、ほとんどの国の人が同じ習慣を持っているのではないだろうか。
上で、アメリカと東南アジアの苦情に関する習慣を「ほぼ同じだ」と書いたが、実際には結構違う。 しかし、この二つと日本とを比べた時、この二つはほとんど同じと言っても差し支えがない程に、日本はこの二つと違っている。 日本人はこの点かなりユニークなのではないか。 日本人は、多国籍人間関係の中で、馴染めずに浮きやすい様に思う。 それは、苦情に関する習慣が多くの国と異なるからではないだろうか。 怒る時の起爆ポイントが他の国の人とずいぶん違うので、いきなり爆発してまわりから「何で怒ってるんだろう」と不思議がられる事が多い。
◇
授業で、ピンイン表を片端から読んでいくという練習をしている。 全ての子音と母音を組み合わせ、全ての音節を導き出した表がある。これの一つの発音に付き、全部で四声ある声調を全部当てはめる。 これを全部発音する。全部読み終えるのに1時間程度かかる。 授業中に一回、復習時に一回読む。
この学校に来た時、世話になったタイ人の同級生が居るのだが、僕は最初この人が中国語で何を言っているのか聞き取ることがまったく出来なかった。 今日、ふと気がつけば、彼の言う言葉の基本部分は聞き取れる様になっていた。 はっきりとした進歩だと思った。 この調子で頑張ろうと思う。
日本人は、中国語に関して、ある程度基礎単語を学び、初級を脱出したならば、それ以上勉強する必要はないのではないか、と思う。ピンイン表を使って発音を学んでしまえば、中国語の漢字の発音を覚えていく作業は、いわば「新しい音読」の学習とでも言うべき作業で、さほど手間取ることなく頭に入っていく。 この「新しい音読み」を中学校で習う漢文の様に並べていけば多少間違っていても通じる。 最も大切な事は、ピンイン表を使って発音を学ぶ事で、これさえ学べば、後は時間の問題ではないかと思われる。
◇
最近HSKという中国語検定試験を受験する為に、ラオスからたくさん学生が僕が滞在している華僑学校に来訪している。 500USD 払うと飛行機代から宿泊費、補講費まで全部コミコミで面倒見てくれるという。 みんな非常にお金持ち的な雰囲気でエリート的である。同級生のラオ軍団は、みんな尻込みしてしまって話しかけられない。
僕のラオ語が話せる珍しさを武器に「お前が行って話しかけてこい」という話しになった。 で、しばらく様子を見ていた。 昨日学校の入り口にある万国旗の前で写真を取っているのを見つけた。それで「写真撮りましょうか」ってラオ語で話しかけた。 そうしたら「この人何を言っているんだろう」「ウーン」とか言っているのが聞こえた。 しばらくしたら「ラオ語だ!」って言われて、この人ラオ語が話せるんだよ!っていう風になった。それで仲良くなった。
このHSK受験群団には、南部ラオから来ている人も居た。 僕の中国語初級クラスのラオ軍団には、北ラオ・中央ラオ・南ラオの全地域からやってきたラオ人が揃っている。 うちにも南部の人居るよ!っていう話をしたら興味を持ってくれて、同級生ラオ軍団とジョイントすることに成功した。
HSK 受験群団に引率の先生が居るのだけど、この人が色々な事をはなしてくれた。 しかしラオ語は難しいと思った。 この時、先生が何を言ってるかほとんど聞き取ることができなかった。 中国語・タイ語・英語よりずっと難しいと思う。 中国語もタイ語も英語もきちんと教科書があって、学校もある。 間違った発音を直してくれる先生も居る。 だけど、ラオ語にはこのどれも存在しない。 ひたすら感性と直感だけに頼って勉強する必要がある。 この点、ラオ語の学習には、人間として本質的な能力が求められる。
◇
ラオHSK受験群団の中で仲良くなった人にビエンチャンから来ている男の子が居た。 しばらく色々な事を話していたら、実は、ビエンチャンのコプチャイドーカフェで働いている人だということを教えてくれた。 コプチャイドーに限らず、ラオのビジネスは必ず親族稼業だ。 つまり彼はコプチャイドーのオーナーと親戚の間柄という事だった。 ラオスに居る時は、コプチャイドーにほとんど毎日の様に行くので、とてもビックリした。 まさかコプチャイドーの関係者と、こんなところでこんな形で出会うとは思いも寄らなかった。
何となく思うのだけど、ラオスは、ラオ語が話せるだけだと、何かいまいち人間関係が広がらない様に思う。 だけど、ラオ語が話せて、もう一個何か言葉が話せると、すごく人間関係が広がる様に思う。 ラオ語が話せると、何か村の中の人だけものすごく仲良くなるというか、人間関係がものすごく特定の一ヶ所に集中しがちな気がする。 だけど中国語が話せるとその状況がかなり変化する。 多分だけど、バンコクやイサーン・ウドンタニーも同じだろう。
あまりこういう言い方は良くないが、しばしばこういう事を思う。 僕はかなり貴重な事を知っているし、色々な能力を持っているけど、僕が住んでいるウドンの村の人にしてみれば、口うるさくて小賢しい邪魔者でしかない。だけど、僕が持っている音楽の知識とかコンピューターの知識とかを欲しがっているラオの人もたくさん居る。 僕はそういう人とこそ付き合うべきだ。 何故わざわざ僕を嫌う人と頑張って付き合わなければいけないのだろう。 僕が住んでいる村の人には散々な目に合わされたが、僕はそれに対処する方法を学び、彼らが僕を強くしてくれたとも言える。僕が対処する方法を学んでしまったからこそ、余計僕が煙たいのだろうが。
僕は理屈っぽい文章ばかり書いているが、パッと見るとあまりそういう風な人間には見えない様だ。 あまり難しいことは考えそうもない人に見えるらしい。 僕は、文章を書いたり、外国文化について研究したり、プログラムを組んだり、ギターを演奏したりするが、そういう事をする人には見えないらしい。
ある世界に深く入っていくと他の世界の人と疎遠になる。 ある違う世界に入っていく為には、深く集中する必要がある。 一度集中が終わってしまえば、何も考えずともその世界に馴染むことが出来る。 そして、一度集中が終わってしまえば、他の世界と疎遠になる。
一番難しいのが、切り替えだ。 切り替えが出来ないと、その世界に深く入っている価値が少なくなる。 切り替えが出来ると、突然価値が爆発的に生まれてくる。
だけど、僕は切り替えが出来ない。
考えてみれば、切り替えはひとつのパフォーマンスだ。 自分に取っては小指の先でつつく程に楽勝な事を、さも大変な事であるように見せかけたり、ものすごく大変な労力が必要な事を、さも簡単な事であるかの様に見せかけたりする。 半分は本当の事なのだが、もう半分はウソの世界だ。 真実っていうのは、一部のマニアを除いて難解で頭の痛い事なのだろう。僕はそういうマニアが大好きなのだけど。その僕が大好きなマニアの世界を一旦忘れ、加えて、それが何の楽しみもない頭の痛い事である事に理解を示して、しかもそれが楽勝であるかの様に演技をする。
◇
これから師範大学の日本人群団と食事に行く。先日から金曜日に食事に行こうという約束があったのだが、今しがた電話で聞いたら8人の日本人が来るという。 その中には中国語だけじゃなくてタイ語も話せる日本人がいる。
そこにタイ人の男の子が1人 ... 中国語・タイ語・北部タイ語・そして日本語が話せるという優秀なタイ人の男の子が加わる。 この子は非常に性格がよいこだ。
本当は、華僑学校のラオ群団を引率してジョイントしたらおもしろい、と思っていた。 だけど日本人8人はちょっと多い。 こういう時に日本人のコミュニケーション力の低さが顕著に明かになる。 日本人って実にコミュニケーション力が低いので、こういうジョイントの仕方をすると相手の文化をまったく受け入れる事が出来ずに、どうやっても取り繕うことが出来なくなってしまうのだ。
僕が今一番頻繁に電話をやりとりしている日本人は、タイ語・中国語が話せるという極めて優秀な日本語教師なのだが、彼の人間関係の観察力の無さには特筆すべきものがあって、僕は正直一緒にいて非常に疲れる。 だから、今、行こうかいくまいか非常に迷っている。
彼は中国にいて何を学んでいるんだろうか。 彼はまだ若く、28歳だというのだが、年齢は関係ないだろう。 もう少し本質を見る目を養って欲しい物だと思う。 彼の子供っぽさは、ラオ人で言えば10歳の子と変わらない。 15歳の悪ガキだって、彼より世の中というものを知っているだろう。
しかしタイ人の男の子は8人の日本人を相手にして、よく疲れない物だ。 日本人ですら疲れている位なのに。
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