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2010年9月9日木曜日

昨日の日記の訂正 (mixi05-u459989-201009090804)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
昨日の日記の訂正
2010年09月09日08:04
罪と罰
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1578051292&owner_id=459989

昨日「外人というのは都合のよい言い訳だ」という事を書いた。 つまり、イサーン人には、僕が何を言っても「あぁ外人だから何を言ってるのかさっぱりわからない」と言い訳をして何も聞こうとしない、と書いた。

しかし、これには、若干訂正がある。 それは、別に外人でなくとも、誰でもやられるということだ。「あぁコイツは年よりだから何を言っているのかさっぱりわからない」とか「こいつは子供だから」とか「酔っ払ってるから」とか「口が悪いから」とか、パッと聞いた人が、パッと「あぁそうか」と納得しそうな理由なら、何でも使う。 このテクニックは、強力だ。 自分に有利な根回しを作る時、絶大な威力を発揮する。

こっちはネイティブのイサーン語話者ではない。 苦労してコツコツと練習している外人である。 こういうテクニックがスラスラ出てくるネイティブが作った堅牢な根回しに、更に裏をかいて、こっちに有利な根回しを構築するのは、実に容易ではない。 相手はプロである。

しかし、相手がプロだろうが、何であろうが、それは一切の言い訳の理由にならない。 勝ち負けは関係ないのである。 勝つまでチャレンジを繰り返す、それだけである。 騙され翻弄される中でテクを盗む。 そこに「根回し」がある限り、飽くなきチャレンジを繰り返す。 それだけである。 これが私が目指す「口だけ達者道」プロへの過酷な道のりなのである。

僕はイサーン地方の農村部に住んでいるけど、よくあるように恋人がイサーン人で恋人に面倒を見てもらって住んでいる訳ではないので、自分で自分の面倒を見なければいけない。 すべてを自分で出来る訳ではないので、出来ないことは助けを求めなければならないし、 助けてもらった分、他人の面倒も見なければいけない。

そんななか、悪い噂がたてば村での生活に支障も出る。 村にはいい人ばかり、見方ばかりが居る訳では決してない。 僕を騙そうとする人もたくさん居る。 だけど、村では人間関係の衝突は絶対にご法度である。

そういう中で、80年代 ワシントン対モスクワ級の暗闘が続くのである。

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あびる氏からこういうコメントを貰った。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1578051292&owner_id=459989


~部分引用~
聖書では「汝の敵を愛せよ」との御言葉がありますが自分を攻撃してくる敵に深く関わり続けていては自分の身が持ちません。ですが私は単に相手に深く関わり無批判に受け入れるという事だけが「愛する」という事ではないと考えるようになりました。自分と敵対する者を自分からは攻撃しないこと、また、そのために深く関わらないでいてあげること、時には目をつぶり無視してあげること、これも自分と敵対する者に対する最低限の愛の形であると思うのです。そっとしておいてあげる事も辛いかもしれませんが、愛なのかもしれませんよ。
~部分引用終わり~


それで次の様なコメントを書いた。


~引用~

こういう風に思える様になるまでは、辛いよね。

この日記(2010年09月08日03:24「罪と罰」)を書いたときは頭に血が登っていたので、かなりきつい書き方をしているのだけど、今日頭が冷えて色々考えて次のような事を思った。

バカというのは、すなわち無類の極めて良い人でもあるんだよね。 気持ちを第一に考えて、自分が辛いのを無視して、苦しむ人のそばにいつも身を寄せて励まして、人が一番心地が良いと思えることだけを、ひたすら続けるのね。

本物のバカっていうのは、非常に良い物でもあるのね。



ところが、そこにお金が入ってくると、話が一気に変わってくるのね。 気持ちを中心に考えるっていうのは、実にお金のかかることなのね。

そこにお金が入ってくると、快適とか安らぎとか愛とか幸福とか、とってもお金のかかるものだということになってくるのね。 お金は節約しないといけない。 そうすると勢い、快適とか安らぎとか愛とか幸福とかそういう物も同時に節約されていくのね。

節約は必要。 だけど、質素節約勤労感謝の果てに日本人は果たして本当に幸せになっただろうか、と僕は思うのね。 そんなことはわかりきっている。 幸せになんか、なってないよね。 物は手に入ったし、お金も手に入ったけど、幸せになっただろうか。 バンコクにはお金も物もたくさん手に入ったのに、何かが欠乏している気がしてしかたがない、虚ろなゾンビみたいな日本人がいっぱい歩いている。 (いや、歩いていた、というべきかも。 お金がなくなって日本人はめっきり減った。 幸せを捨てた挙句、お金もなくなって全部なくしているよね。)

僕が居るタイのイサーン地方にはお金はないけど、お金以外のすべての物がある。

バカから学ぶことがここにあると思うのね。

一方、人間にとって極めて大切だけど、バカには絶対に出来ない事がある。 それはたったひとつ、医療だと僕は思う。 これだけはどうしてもお金を使わないと実現できない。 イサーンの医療はお世辞にもよいとは言えないのね。 というか、非常に悪いのね。

僕もこの事について色々なことを考える。本当に年がら年中、このことについて考えるんだけどね。 これは人間にとって極めて根本的な矛盾であるような気もしているのね。

~引用終わり~


自分の中に複数の相反する思考パターンがあるっていうのは、非常に辛い事だと最近よく思う。 思考パターン間の善悪の概念がまったく一致しない。 自分の中のある一方の考え方は燃え上がるように怒り狂うのだけど、自分の中のある一方の考え方は、その怒りを受け入れる事が出来ない。 それで自分の中で延々と闘いを続ける。 非常に精神パワーを浪費する事だと思う。

一方で、これはすごく本質的な問題で、考え続けたら何かおもしろいことがわかりそうな気もする。


うーん、全然まとまらん。

コメント一覧
うう   2010年09月09日 10:55
こんにちわ。

>思考パターン間の善悪の概念がまったく一致しない。

あたしは善悪という軸で考えることをやめました。
その軸が個人差があり、
地域差があり、文化によっても違う主体的なものなのに、
客観的なものような顔をしていて、
何かの大義名分として使われるからです。

おかあつさんが考えていらっしゃるように、
善悪の軸で世の中を見た時に、
あたしに「これは善、これは悪」と分けられるものが
ほとんどないのです。
わけようとすると迷って悩んで混乱する。

で、あたしは「好き嫌い」で分けることにしました。
これはわかりやすいです。
自分の気持ちに聞けばいいことだから。
それに世の中的にこの軸は、
大義名分には使えないので、
人に押し付けるということができないので、
しなくなりました。

この好き嫌いと善悪が混同されると、
例えば、
「あたしはシイタケが嫌い」
→「シイタケは悪だ!」
 →「シイタケ撲滅!」
みたいなことになって、

「いや、シイタケは悪ではない!」
とかいうシイタケloverも出てきて収拾がつきません。

でも好き嫌いだと、
「あたしはシイタケが嫌い。だから食べない」
「ぼくはシイタケ好きだ。だから食べる」

これだけの話です。

これじゃ、単純すぎる?
風我   2010年09月09日 15:38
>「あたしはシイタケが嫌い。だから食べない」
>「ぼくはシイタケ好きだ。だから食べる」

...世の中がこう動けば人間関係の問題はなくなるのに
なかなかそうならないのは何故でしょうね。
おかあつ   2010年09月13日 17:27
> なかなかそうならないのは何故でしょうね。

付き合いっていうものがあるからね。

「お前がシイタケを食べるなら、俺も食わなアカン。だから頼むからくわんといて!」
「いやーワイはどうしてもくわんと気がすまん!」
みたいなね。

いくら個人主義って言っても、誰もひとりきりでは生きていけない訳で。

みんなが譲り合うゆとりを持っていればいいんだけどね。
譲ってばかりいるのもつかれるしね。
世の中モラルのある人ばかりじゃないし。
譲ってばかりいると、全部譲りっぱなしになったりもするしね。

ほんと。
 
出展 2010年09月09日08:04 『昨日の日記の訂正』