FLAGS

MENU

NOTICE

2010年9月8日水曜日

罪と罰 (mixi05-u459989-201009080324)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
罪と罰
2010年09月08日03:24
最近(というかこの5年間だけど)ずっと悩んでいて、どう考えても答えが出ない。 この問題は、非常に深刻な問題だと思う。 僕も色々見てきたけど、こんなに深刻な問題は見たことがない。

昨日、そのことであまりにも頭に来たことがあった。 あまりにもひどすぎる。
夜、(ウドンタニーの家の)向かいに住んでいるおばあさんに、思い切って相談してみた。

おばあさんは言った。

มีแต่คนหัวอนจริง [mii tee khon hua an cing]
(イサーン語)「世の中、真実を笑う人ばかりだ。」

本当にそうだと思う。
みんな現実を見ようとしない。
現実を見ると「そんなことあるわけないよ!」といってハハハと笑う。
みんな自分に取って都合のいいことしか見ようとしない。



何か最近、祈るようになった。

どう考えても、方法がない。 僕は理論的に考えるのが好きなので、理論的に考えてみるのだけど、理論的に見て、理論的に絶対に解決する方法が無いということがだんだんと明かになってきている。

人の力ではどうにもならない、というものがある。

罪という事も考える様になった。 僕は宗教とか好きじゃないので、罪ということもほとんど考えたことが無かった。 だけど、理論的に見て、この世に「罪深い」としか形容のしようの無い人間というのが存在するんだ、ということを最近考える様になった。

普通(=日本とかアメリカとかみたいにある程度競争が働くところでは)あまり罪というものが生まれない様な気がする。 悪い事をする人間は自然に痛い目にあって、磨かれるので、勝手に消滅する。

だけど、イサーンみたいに、慈悲深い人がたくさん居るところには、ごくまれにだけど、人の慈悲を踏みにじりつづける人というのが存在する。 踏みにじっているのに、それに気がつきもしない。 心の目がつぶれている。 これまでもたくさん人を苦しめてきたし、今もなお苦しめ続けているのに、そのことにまったく気がついていない。 反省する気配もない。 悪いことをしているという意識がない。 だから自分自身を必死で支えている恩人に向かって「何をバカなことやってるんだ」とか「バカは何をやってもダメだな」みたいなことを平気で言ってしまう。 これがどれだけ恩人を苦しめているのか、感じる感受性がない。

こういうバカはイサーン・タイ・ラオ・日本・アメリカ・ドイツ・ロシア・世界中のどの国を見回しても、稀有な存在だと思う。 僕は、ここまでのバカを他にひとりも知らない。

僕はどういう訳か、この5年で、このバカの人生をくまなく見るはめになった。 こんなバカは生まれてこの方見たことがない。 ここまでやりたい放題、迷惑放題、他人を不幸にし放題のバカを他に知らない。(しかも、かなり近いレベルのバカが、あと2人も居る。)

日本だったら、殴っていると思う。

だけど、そう思うのは僕が日本人だからだ。

ラオの心はそれすらも許す。 真実の無償の愛がここにある。

そんな稀有な無償の愛を踏みにじりつづける人がここに居る。

これを罪と呼ばずして何と呼ぼう。

この罪深き人間に罰のあらんことを。

祈る以外何も出来ない。

いや、罰を祈るなんて悪いことだ、とも思う。 僕は許さなければいけない。 それも考えた。 だけど、正直僕は、今、何の迷惑も被っていない。 こいつがバカだということを割と早く見抜いていて助けるのを止めたからだ。 僕は今、見ているだけだ。 僕が助けなくなった分、他の人に皺寄せが集まってはいるが。 許すのは簡単だ。

しかし、僕は許すべきだろうか。 許さざるべきだろうか。 大勢が寄ってたかってたったひとりの人間を踏みにじりつづけているのを見て、僕は許してしまっていいのだろうか。



僕がこのバカの真実を関係者に話すと「また外人が訳のわからんことを言っている」と笑う。

「そんなことあるか」と笑う。

誰も外人の僕が言うことを聞かない。

(外人っていうのは実に都合の良い言い訳だ)

僕は、今、かなりイサーン語がわかるようになっている。 話すことも出来る。

イサーン語で説明したら理解できる?

いやいや。 わかりやすくはっきり言えば言うほど怒るだけだ。

結局僕が悪者になって終わり。

僕はこれまで神というものを考えたことはなかった。

だけど、神は真実を知っている、と思う。

彼の運命は神が決める。


Wed, 08 Sep 2010 01:23:27 +0700
カオサンのマクドナルドで。

コメント一覧
ダヌパット   2010年09月08日 11:25
イサーン人は「助ければ、助けるほど、ダメになっていきます」
もう、たかりに来ても、助けません。

外国人に依存する体質を改めなさい。

お金が無いと、酒に逃げて、働かない。
お金が欲しければ働けば?

歌にも外国人のルーククーイ(娘婿)を賛美した
物がラジオから流れています。
あび   2010年09月08日 12:47
たしかに、その人に罰が与えられる事を祈るのは辛いだけですよね。そのような時には、その人があるべき姿へと立ち返る事ができるように、また、そのために神様が必要な助けと支えと導きを、その人に与えて下さるように祈ると良いのではないかと私は感じました。

人が人を救える力には限界があります。もし自分の力では、その人の全てを救えないのであれば、できる範囲だけで助けてあげて、あとは神様に全てをお任せする気持ちで深く祈れば良いと思います。

聖書では「汝の敵を愛せよ」との御言葉がありますが自分を攻撃してくる敵に深く関わり続けていては自分の身が持ちません。ですが私は単に相手に深く関わり無批判に受け入れるという事だけが「愛する」という事ではないと考えるようになりました。自分と敵対する者を自分からは攻撃しないこと、また、そのために深く関わらないでいてあげること、時には目をつぶり無視してあげること、これも自分と敵対する者に対する最低限の愛の形であると思うのです。そっとしておいてあげる事も辛いかもしれませんが、愛なのかもしれませんよ。

神様は人の善い行いも罪も全てご存知の方です。おかあつさんの祈りが神様に聞き届けられ、必要な赦しと支え、導きが与えられますように。
おかあつ   2010年09月09日 07:41
~引用~
聖書では「汝の敵を愛せよ」との御言葉がありますが自分を攻撃してくる敵に深く関わり続けていては自分の身が持ちません。ですが私は単に相手に深く関わり無批判に受け入れるという事だけが「愛する」という事ではないと考えるようになりました。自分と敵対する者を自分からは攻撃しないこと、また、そのために深く関わらないでいてあげること、時には目をつぶり無視してあげること、これも自分と敵対する者に対する最低限の愛の形であると思うのです。そっとしておいてあげる事も辛いかもしれませんが、愛なのかもしれませんよ。
~引用終わり~

こういう風に思える様になるまでは、辛いよね。

この日記を書いたときは頭に血が登っていたので、かなりきつい書き方をしているのだけど、今日頭が冷えて色々考えて次のような事を思った。

バカというのは、すなわち無類の極めて良い人でもあるんだよね。 気持ちを第一に考えて、自分が辛いのを無視して、苦しむ人のそばにいつも身を寄せて励まして、人が一番心地が良いと思えることだけを、ひたすら続けるのね。

本物のバカっていうのは、非常に良い物でもあるのね。

ところが、そこにお金が入ってくると、話が一気に変わってくるのね。 気持ちを中心に考えるっていうのは、実にお金のかかることなのね。

そこにお金が入ってくると、快適とか安らぎとか愛とか幸福とか、とってもお金のかかるものだということになってくるのね。 お金は節約しないといけない。 そうすると勢い、快適とか安らぎとか愛とか幸福とかそういう物も同時に節約されていくのね。

節約は必要。 だけど、質素節約勤労感謝の果てに日本人は果たして本当に幸せになっただろうか、と僕は思うのね。 そんなことはわかりきっている。 幸せになんか、なってないよね。 物は手に入ったし、お金も手に入ったけど、幸せになっただろうか。 バンコクにはお金も物もたくさん手に入ったのに、何かが欠乏している気がしてしかたがない、虚ろなゾンビみたいな日本人がいっぱい歩いている。 (いや、歩いていた、というべきかも。 お金がなくなって日本人はめっきり減った。 幸せを捨てた挙句、お金もなくなって全部なくしているよね。)

僕が居るタイのイサーン地方にはお金はないけど、お金以外のすべての物がある。

バカから学ぶことがここにあると思うのね。

一方、人間にとって極めて大切だけど、バカには絶対に出来ない事がある。 それはたったひとつ、医療だと僕は思う。 これだけはどうしてもお金を使わないと実現できない。 イサーンの医療はお世辞にもよいとは言えないのね。 というか、非常に悪いのね。

僕もこの事について色々なことを考える。本当に年がら年中、このことについて考えるんだけどね。 これは人間にとって極めて根本的な矛盾であるような気もしているのね。

おかあつ   2010年09月09日 07:50
ダヌパットさん、
>イサーン人は「助ければ、助けるほど、ダメになっていきます」

多分、助ければ助ける程ダメになっていくのは、日本人も同じだと思います。

ただ、自分が助けてもらっている分だけは少なくとも助け返さないといけない筈です。
 
出展 2010年09月08日03:24 『罪と罰』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




おかあつ日記メニューバーをリセット


©2022 オカアツシ ALL RIGHT RESERVED