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2010年5月9日日曜日

マニアックとは(REMIX) (mixi05-u459989-201005091507)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
マニアックとは(REMIX)
2010年05月09日15:07
僕はマニアックらしい。 実際、僕はマニアックだとよく言われる。 これまで何回もマニアックだねと言われてきた。

そもそも、マニアックとはどういう意味だろうか。 大まかに言って「偏執的だ」ということではないだろうか。人が好まないことを好み、物事を微に入り細をうがって詳細を突き詰める、その病的なまでに緻密な姿勢が、そうでない人々から「マニアック」という言葉を引き出すのだろう。

僕は色々な特技を持っているが、その多くは「マニアック」という形容詞で語られることが多い。例えば、僕の持っている特技の中でマニアックと呼ばれる代表格はプログラミングである。プログラミングは、全てに渡って矛盾なく論理を組み立てる能力や、様々な形で表出するる問題を抽象化してひとつの論理で説明する能力などが、求められる。これらは普通であれば頭痛の種であり、拷問のような苦痛だ... 苦痛らしい。 僕はそれこそが醍醐味であると思っているので、正直よくわからない。こういった、人が好まないことを進んで好む姿勢が「マニアック」という言葉を引き出すのだろう。

ジャズギターも僕の好きな事のひとつだ。ジャズを学ぶということは、どういうことだろうか。 僕はこう思っている。好きな音楽を研究して、全体の流れや構成要素を研究する。それを訓練によって実践的に身につけることによって、まるで言葉の様に即興演奏出来るようになる。 これもマニアックだとよく言われる。

僕は今趣味で語学を勉強しているが、これについても「マニアック」と言われることは少なくない。 僕は今、タイ語とラオス語を学んでいる。ラオス語(ラオ語)は、タイ語の様に比較的学習メソッドがきちんと確立している言葉と違って教材が何もないので、ジャズと同じように辛抱強い地道なワークが必要とされる。 とはいえ、僕はそういう作業には慣れているし、嫌いな作業ではない。 趣味として続けている。こういう僕の姿勢は、確かに「マニアック」かもしれない。実際に、僕が語学について書くことを「マニアック」過ぎるという人は少なくない。

しかし、正直、僕は僕が「マニアックだ」と呼ばれる事にかなり抵抗を感じている。 僕がすることは、ある人たちの間では別段特別な事としては扱われず当たり前の様に実践されている。 それなのに、何で僕だけ「マニアック」なんだろうか。



僕は本当にマニアックなのか。 何故僕がそう思うかといえば、それをマニアックだと思っていない人が存在することを既に知っているからだ。例えば、僕が知っているラオ文化についての知識は、しばしば日本人からはマニアックだと形容される。 しかし、こういうことが言える。 ラオ人の性格を一言でいえば「能天気」である。 「マニアック」とはもっともかけ離れた人たちである。 しかし彼らは僕が持っているラオに関する知識を全て持っている。 ラオはマニアックか。 絶対に違う。 確かに、僕が知っているラオについての数々知識の数々は「日本の普通」の人の間では、「マニアック」なことかもしれない。だけど、僕が知っている「マニアック」な知識は、ラオ人の間では常識的に知られていることである。 ここでは僕はマニアックではない。 ここでは、マニアックなのはむしろ日本の普通の人たちである。

この様な例はたくさんある。 ジャズもジャムセッションなどで、ある耳慣れない「リック」や「フレーズ」を演奏すると「マニアック過ぎる」とか言われて敬遠される。しかし、これら「マニアックフレーズ」もある地域にいけば、ごく一般的なこととして受け入れられているものがほとんどである。その地域ではそのような些細な音楽の知識を持つことは「マニアック」ではない。 知っている事が当然なのである。 そこでは、その知識をマニアックな事としてひけらかしても単に恥ずかしいだけだ。 それらは知識ですらない。 単なる常識、ないしは口癖、習慣である。

プログラミングもそうだ。 僕が普段プログラミングについて語ることの大半は、海外のプログラマの間では常識的なことだ。 だが、僕は、日本のプロのプログラマにすら「マニアック」だと揶揄される。

わかった。僕は「マニアック」なのだろう。しかし「マニアック」の道とは、山を登り、山の頂上を越えて向こうのふもとに降りていくようなところがある。我々はある知識を得るために「マニアック」に向けて歩いていくのだが、ある点を過ぎるとそれはマニアックではなくなり、それが普通になってしまう。

例えば、誰かがスワヒリ語を勉強したとする。 マニアックに細かな事を調べて練習して身につけていく。 知識の量を粋がって友達に自慢したりする。 しかし、いつしかレベルが一定以上を越えると、日常的に付き合う人が、日本人からネイティブのスワヒリ語話者にシフトしていく。 ここでは君が知っている事は常識である。 知っている事を自慢しても誰も褒めてくれない。 知っているのが当たり前であり、知らないほうが異常なのである。マニアック山の頂上を越えると「スワヒリ語が上手な外国人」から「口下手なスワヒリ話者」の領域へと入っていく。 この領域に入ると求められるレベルは衝撃的に上がる。 一方で自分がやって来た場所である日本の知識は「マニアック」な知識として敬遠されるようになる。

日本でも同様な事が起こる。 外人が日本に来て日本語を勉強する。 日本人はみな、日本語がヘタクソなうちは外人に優しい。 しかし日本語が上達し、ギャグも嫌味も理解する様になってくると、外人は「日本語が上手な外国人」から「空気が読めないバカ外人」へと変貌する。 ましてやその外人がアメリカ人やフランス人ではなく、フィリピン人や中国人だったりすると、まったく容赦がなくなるだろう。 同じ事である。

「マニアック」でない人たちはしばしば「フランス」や「アメリカ」や「ドイツ」にあこがれて、語学を志す。そしてその国について色々と学ぶ。 語学を志す彼らにとって、彼の国は『神の国』である。神の国での知識を深めることは、神についての知識を深めることと同じだ。 だから語学の勉強とは神聖な行為である。

しかしである。 語学の勉強は基本的に「マニアック」の道だ。 これは基本的にある地点を過ぎるとマニアックではなくなってしまう。「マニアック」な知識は、頂点を越えたところで、単なる常識と化す。そこでは、知らない人はマニアックどころか、むしろバカ・アホ・トンマと蔑まれる。 知っていることは自慢にも何にもならない。 神格でも神聖でもなんでもない、実になんの変哲もない場所に来る。

ところが「マニアックでない人」はそれが認められない。 語学を飽くまでも神格化して特別な事として置いておきたいのだ。 だからこそ、日本国内で「ミーのおフランス人」とか「アメリカ『では』の杜」「タイ通」とかいう魔物が生まれるのではないだろうか。

「マニアック」という言葉はひとつの島国根性の表出である。その知識や行為が「マニアック」か「マニアック」でないかは、単に文化の違いによってのみ左右されるものだからだ。 「マニアック」と言う言葉は、ひとつの価値観の一方的な押し付けである。


要するに、僕は「マニアック」だが、こうして僕がマニアックだと揶揄されること自体が、世の中にこの「マニアック山」の頂上すら越えられない人がたくさんいる、ということの実証なのだろう。



「バカ」とはつまり、自分の「バカ」を発見できない人のことだ。

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出展 2010年05月09日15:07 『マニアックとは(REMIX)』