理解
2010年05月01日17:50
ふと思った。
僕等は文章を読んで「あぁなるほどわかった」と思うが、ひょっとして、この「わかった」という事は、人によって信じられないほど意味が違うんではないだろうか。
僕はこの「わかった」のプロだ。 僕はこの「わかった」に到達することがものすごく好きだし、楽しい。 でも、この「わかった」には、実はたくさん種類があるのではないか。 僕はこの色々な形の「わかった」を楽しむのが好きだ。
◇
「わかった」の種類っていうのは、どういうものがあるんだろうか。
数学の教科書を読んで「わかった!」と思うのもひとつの「わかった」だ。 数学の問題には必ずひとつだけ答えがある。 その導き方を知ることが出来れば、次回新たに問題に出会ったとき、その問題がたとえ未経験の問題であっても解決する事が出来る。 こうして経験によらずに問題を解決するという大切な能力を身につける事ができる。
パソコンの説明書とかを見て「わかった!」と思うのもひとつの「わかった」だろう。 これも上記の「わかった」に近い。 パソコンのなかにあるデータの構造や動きを理解することによって、自分の考えた通りのデータ出力を得る事ができるようになる。
「約束を果たす」などというのもひとつの「わかった」ではないか。 誰かが何をしたいのか、決まった時間に何々をしてくれという依頼とその前後の文脈を理解することで、相手の意図の通りに行動する。
あるいは、マンガとかを読んで「面白い!」と思うのもひとつの「わかった」ではないか。 あるマンガを読んで「面白くない」と思うのは、ひとつの「わからない」である。 というのもマンガなどの文芸文化は、必ず背景となる時代的な文脈や流行があり、それらに対するアンチテーゼとして存在する。 マンガを面白いと思うためには、マンガにかかれていない背景を知識として持っている必要がある。 つまり、マンガだけを読んでも理解できない。 (もっとも、マンガの中でも、その背景となる物事が描写されるのが一般的だけど。)
新聞を読んで面白いと思うのもそれと似てる。 ひとつの事件がどういう意味を持っているのかを知る為には、時代背景や世界情勢の流れを知識として持っていなければならない。 文脈なくしては「わかった!」には到達できない。
音楽... ジャズなどの言葉を含まない音楽も含めて...音楽を「面白い!」と思うのもひとつの「わかった」ではないだろうか。 音楽も言葉と同じように「フレーズ」「リック」「リズム」という言葉の上での単語のようなものから出来ている。 これらの音楽的な要素の組み合わせには、必ず背景となった文脈があり、それらに対するアンチテーゼとして考え出される。 音楽を「面白い!」と思うためには、そこで描写されていないことに対する知識や洞察が必要になってくる。音楽は言葉ではない けれども「音楽を理解する」というのも、ひとつの「わかった」なのではないだろうか。
そして、人と相対しているときに、相手の気持ちが「わかった」と思うことも、これも、またひとつの「わかった」ではないだろうか。
◇
で、僕等は外国語を勉強する。 外国語が話せるというのは、つまり、外国語を聞いて読んで、「わかった」と思うことである。
これは一体、どういう事なんだろうか。
外国語の数学の本を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語のパソコンの本を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語で約束を交わして「わかった」と思うことだろうか。
外国語のマンガを読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語の新聞を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国の音楽を聞いて「わかった」と思うことだろうか。
あるいは、外国の人と一緒に居て、相手の気持ちがわかった、と思うことだろうか。
自分の言葉(日本語)で、自分が思っている「わかった」を相手に伝えることと、外国の言葉で自分の思っている「わかった」を相手に伝えることと、どれくらいの違いがあるんだろうか。
外国語を使っているときの「わかった」を作る能力は、実は、自国語を話している時の「わかった」を作る能力と、変わらないのではないか。 これらの「わかった」を得る能力は、使用している言語に関係しない。
◇
日本人として、外国語を勉強していると、必ず外国語が得意な人というのに出会う。
彼らは「あたしは外国語が得意なのよ」という。
「あたしは外国語が得意なのよ」ってどういう意味だろうか。
おそらく、外国語を聞いて「わかった」と思うことが出来るんだろう。
では、その人が「わかった」と言っていることは、どの「わかった」なんだろうか。
外国語の数学の本を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語のパソコンの本を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語で約束を交わして「わかった」と思うことだろうか。
外国語のマンガを読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語の新聞を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国の音楽を聞いて「わかった」と思うことだろうか。
外国の人と一緒に居て、相手の気持ちがわかった、と思うことだろうか。
◇
一体、その人は、本当に、外国の人と一緒に居て、相手の気持ちが「わかった」と思うことが、出来るんだろうか。これは、言語の違いによらず、非常に難しい問題ではないか。
我々は容易に「外国語がわかる」などと、言うべきではないのではないか。
◇
ラオの歌にこういうのがある。
コンバーンディアオカン(同郷の人)
http://www.youtube.com/watch?v=Z4kpOYu2QGU
♪ 同郷の人は目を見ただけで分かり合うことが出来る。 どれくらい疲れているか、どれくらい(人生の)重荷が重いのか...
この歌は本当だ。 この中にも出てくるけど、タイでタクシーの運転手さん(ラオの人がものすごく多い)と目が合うとそれだけで、パッと通じるものがある。 常にものすごく人を観察していて、その人がどういう人なのか、一瞬で見抜く。 ラオの人は、すべからく(日本人から見れば)天才的ともいえる他者に対する嗅覚を持ってる。
これは気のせいなんかではなく、非常にシビアに結果として現れる。 僕はいつもタイでタクシーを拾うとき、みんな一発で止まってくれて、しかも一発で行きたい場所に一発でいくことが出来るし、それどころか手を使わないで「空気」だけでタクシーを止める事すら出来る。
一方、知り合いと一緒に居るとき(特にラオを嫌っている人なんかと居るとき)に、タクシーを止めようとすると、無視されたり、嫌がらせを受けたり、乗車拒否をされたりする。 あるラオ嫌いのおじさんとバスを止めようとしたら見事に無視されて更に一時間待ちぼうけを喰らったことも事があった。 嫌がらせである。 実は僕ひとりでバスを止めるとき、僕はこういう嫌がらせには一度もあったことがない。 この違いって凄い。
で、僕は、日本人を見て、日本人の「自閉症性」についてよく思う。 日本人には、外国人どころか、他者自体が存在しない様に感じる。 目を見ただけで分かり合うなどということは絶対に無理である。 言葉に言葉を重ねて説明した挙句、分かり合うことが出来ずに別れるということばかりだ。
何でか。
僕は「苦悩の少なさは人からリアリティーを奪う」 という見解を持っている。 誰だって辛いことは嫌だ。 だけど、もしも、人から辛い事をすべて奪うと、人は生きる力を失う。 そして、コミュニケーション力も失う。
◇
日本人ってラオに住むと必ずといっていいほど「僻地」という修飾詞を付けたがる。
だけど、日本人は日本が一番の僻地であることに、全く思いもよらないのである。
僕等は文章を読んで「あぁなるほどわかった」と思うが、ひょっとして、この「わかった」という事は、人によって信じられないほど意味が違うんではないだろうか。
僕はこの「わかった」のプロだ。 僕はこの「わかった」に到達することがものすごく好きだし、楽しい。 でも、この「わかった」には、実はたくさん種類があるのではないか。 僕はこの色々な形の「わかった」を楽しむのが好きだ。
◇
「わかった」の種類っていうのは、どういうものがあるんだろうか。
数学の教科書を読んで「わかった!」と思うのもひとつの「わかった」だ。 数学の問題には必ずひとつだけ答えがある。 その導き方を知ることが出来れば、次回新たに問題に出会ったとき、その問題がたとえ未経験の問題であっても解決する事が出来る。 こうして経験によらずに問題を解決するという大切な能力を身につける事ができる。
パソコンの説明書とかを見て「わかった!」と思うのもひとつの「わかった」だろう。 これも上記の「わかった」に近い。 パソコンのなかにあるデータの構造や動きを理解することによって、自分の考えた通りのデータ出力を得る事ができるようになる。
「約束を果たす」などというのもひとつの「わかった」ではないか。 誰かが何をしたいのか、決まった時間に何々をしてくれという依頼とその前後の文脈を理解することで、相手の意図の通りに行動する。
あるいは、マンガとかを読んで「面白い!」と思うのもひとつの「わかった」ではないか。 あるマンガを読んで「面白くない」と思うのは、ひとつの「わからない」である。 というのもマンガなどの文芸文化は、必ず背景となる時代的な文脈や流行があり、それらに対するアンチテーゼとして存在する。 マンガを面白いと思うためには、マンガにかかれていない背景を知識として持っている必要がある。 つまり、マンガだけを読んでも理解できない。 (もっとも、マンガの中でも、その背景となる物事が描写されるのが一般的だけど。)
新聞を読んで面白いと思うのもそれと似てる。 ひとつの事件がどういう意味を持っているのかを知る為には、時代背景や世界情勢の流れを知識として持っていなければならない。 文脈なくしては「わかった!」には到達できない。
音楽... ジャズなどの言葉を含まない音楽も含めて...音楽を「面白い!」と思うのもひとつの「わかった」ではないだろうか。 音楽も言葉と同じように「フレーズ」「リック」「リズム」という言葉の上での単語のようなものから出来ている。 これらの音楽的な要素の組み合わせには、必ず背景となった文脈があり、それらに対するアンチテーゼとして考え出される。 音楽を「面白い!」と思うためには、そこで描写されていないことに対する知識や洞察が必要になってくる。音楽は言葉ではない けれども「音楽を理解する」というのも、ひとつの「わかった」なのではないだろうか。
そして、人と相対しているときに、相手の気持ちが「わかった」と思うことも、これも、またひとつの「わかった」ではないだろうか。
◇
で、僕等は外国語を勉強する。 外国語が話せるというのは、つまり、外国語を聞いて読んで、「わかった」と思うことである。
これは一体、どういう事なんだろうか。
外国語の数学の本を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語のパソコンの本を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語で約束を交わして「わかった」と思うことだろうか。
外国語のマンガを読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語の新聞を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国の音楽を聞いて「わかった」と思うことだろうか。
あるいは、外国の人と一緒に居て、相手の気持ちがわかった、と思うことだろうか。
自分の言葉(日本語)で、自分が思っている「わかった」を相手に伝えることと、外国の言葉で自分の思っている「わかった」を相手に伝えることと、どれくらいの違いがあるんだろうか。
外国語を使っているときの「わかった」を作る能力は、実は、自国語を話している時の「わかった」を作る能力と、変わらないのではないか。 これらの「わかった」を得る能力は、使用している言語に関係しない。
◇
日本人として、外国語を勉強していると、必ず外国語が得意な人というのに出会う。
彼らは「あたしは外国語が得意なのよ」という。
「あたしは外国語が得意なのよ」ってどういう意味だろうか。
おそらく、外国語を聞いて「わかった」と思うことが出来るんだろう。
では、その人が「わかった」と言っていることは、どの「わかった」なんだろうか。
外国語の数学の本を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語のパソコンの本を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語で約束を交わして「わかった」と思うことだろうか。
外国語のマンガを読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国語の新聞を読んで「わかった」と思うことだろうか。
外国の音楽を聞いて「わかった」と思うことだろうか。
外国の人と一緒に居て、相手の気持ちがわかった、と思うことだろうか。
◇
一体、その人は、本当に、外国の人と一緒に居て、相手の気持ちが「わかった」と思うことが、出来るんだろうか。これは、言語の違いによらず、非常に難しい問題ではないか。
我々は容易に「外国語がわかる」などと、言うべきではないのではないか。
◇
ラオの歌にこういうのがある。
コンバーンディアオカン(同郷の人)
http://www.youtube.com/watch?v=Z4kpOYu2QGU
♪ 同郷の人は目を見ただけで分かり合うことが出来る。 どれくらい疲れているか、どれくらい(人生の)重荷が重いのか...
この歌は本当だ。 この中にも出てくるけど、タイでタクシーの運転手さん(ラオの人がものすごく多い)と目が合うとそれだけで、パッと通じるものがある。 常にものすごく人を観察していて、その人がどういう人なのか、一瞬で見抜く。 ラオの人は、すべからく(日本人から見れば)天才的ともいえる他者に対する嗅覚を持ってる。
これは気のせいなんかではなく、非常にシビアに結果として現れる。 僕はいつもタイでタクシーを拾うとき、みんな一発で止まってくれて、しかも一発で行きたい場所に一発でいくことが出来るし、それどころか手を使わないで「空気」だけでタクシーを止める事すら出来る。
一方、知り合いと一緒に居るとき(特にラオを嫌っている人なんかと居るとき)に、タクシーを止めようとすると、無視されたり、嫌がらせを受けたり、乗車拒否をされたりする。 あるラオ嫌いのおじさんとバスを止めようとしたら見事に無視されて更に一時間待ちぼうけを喰らったことも事があった。 嫌がらせである。 実は僕ひとりでバスを止めるとき、僕はこういう嫌がらせには一度もあったことがない。 この違いって凄い。
で、僕は、日本人を見て、日本人の「自閉症性」についてよく思う。 日本人には、外国人どころか、他者自体が存在しない様に感じる。 目を見ただけで分かり合うなどということは絶対に無理である。 言葉に言葉を重ねて説明した挙句、分かり合うことが出来ずに別れるということばかりだ。
何でか。
僕は「苦悩の少なさは人からリアリティーを奪う」 という見解を持っている。 誰だって辛いことは嫌だ。 だけど、もしも、人から辛い事をすべて奪うと、人は生きる力を失う。 そして、コミュニケーション力も失う。
◇
日本人ってラオに住むと必ずといっていいほど「僻地」という修飾詞を付けたがる。
だけど、日本人は日本が一番の僻地であることに、全く思いもよらないのである。
コメント一覧
さい 2010年05月02日 06:59
わかった感覚が人によって違うかどうかは考えたことがなかった。
自分自身は1種類しか持っていない。
言語学によれば言語は広い宇宙であり
それを解き明かすことはめどすら立っていないのだそうだ。
第二外国語を操るには脳のワーキングメモリを大目に必要とするらしい。
苦悩そのものは不幸でしかないが
それを燃料に変換できる人だけが
幸福をもってこれる。
中にはなぜか苦悩に翻弄されっぱなしの人もいる。
まるで不幸の無限ループみたいな人で
結局何も手にすることができない。
せいぜい死後に「あの人は苦労人だった」と
親戚知人から評価されるくらいだ。
生きているときには愛されないのに。
だからあながち「苦悩は嫌」という感覚も
間違いはない。
おいしくない毒を避けるように。
自分自身は1種類しか持っていない。
言語学によれば言語は広い宇宙であり
それを解き明かすことはめどすら立っていないのだそうだ。
第二外国語を操るには脳のワーキングメモリを大目に必要とするらしい。
苦悩そのものは不幸でしかないが
それを燃料に変換できる人だけが
幸福をもってこれる。
中にはなぜか苦悩に翻弄されっぱなしの人もいる。
まるで不幸の無限ループみたいな人で
結局何も手にすることができない。
せいぜい死後に「あの人は苦労人だった」と
親戚知人から評価されるくらいだ。
生きているときには愛されないのに。
だからあながち「苦悩は嫌」という感覚も
間違いはない。
おいしくない毒を避けるように。
ラチャ@サバイディー 2010年05月02日 20:28
ただ、その感じは実は古来日本人は大切にしていたものであって、それが戦後に忘れられた(忘れさせられた)文化というか感覚だと思うのです。
日本には「阿吽の呼吸」だとか、鋭敏な感覚が少なくとも江戸時代までは確実にあったと思っています。
それが多少なりとも生き残っているのが武道文化などに代表される「道」の文化(茶道なども含めて)や職人などの修行の世界(日本の食文化のレベルの高さは修行を重ねた職人技によって維持できていると思います)だとも思っています。(ものによりますが・・・)
日本には「阿吽の呼吸」だとか、鋭敏な感覚が少なくとも江戸時代までは確実にあったと思っています。
それが多少なりとも生き残っているのが武道文化などに代表される「道」の文化(茶道なども含めて)や職人などの修行の世界(日本の食文化のレベルの高さは修行を重ねた職人技によって維持できていると思います)だとも思っています。(ものによりますが・・・)
おかあつ 2010年05月02日 23:50
>中にはなぜか苦悩に翻弄されっぱなしの人もいる。
>まるで不幸の無限ループみたいな人で
>結局何も手にすることができない。
ここに僕は意見を持っている...んだけど、うまく言葉に出来ないや。
ちょっとまっててください。
>まるで不幸の無限ループみたいな人で
>結局何も手にすることができない。
ここに僕は意見を持っている...んだけど、うまく言葉に出来ないや。
ちょっとまっててください。
おかあつ 2010年05月02日 23:59
> それが多少なりとも生き残っているのが武道文化などに代表される「道」の文化(茶道なども含めて)や職人などの修行の世界(日本の食文化のレベルの高さは修行を重ねた職人技によって維持できていると思います)だとも思っています。(ものによりますが・・・)
僕も近い意見を持っています。
でも、思ったよりも日本文化ってたくさん残っているような気もします。 就職すると社員研修として座禅をやる会社がたくさんあったり、ビジネスをするのでも「ビジネス道」とか「スケジュール管理術」とか そういう術や道を究めようとしますし、マンガですら「マンガ道」とかあったりしますし...。
タイの座禅の話を聞いて最初びっくりしたんですが、日本の座禅と違って「全てを忘れるため」に座禅するのだそうです。 問題があろうが、どんなに気になるトラブルを抱えていようが、何も問題が無いかように振舞う事が出来るのが、理想なんだそうです。 問題を克服するためじゃないんだそうです。 「ビジネスに克つ!」とか「道を究める!」とか「集中力を高める」とか言って座禅をする日本とはずいぶん趣が違う物だと思いました。
僕も近い意見を持っています。
でも、思ったよりも日本文化ってたくさん残っているような気もします。 就職すると社員研修として座禅をやる会社がたくさんあったり、ビジネスをするのでも「ビジネス道」とか「スケジュール管理術」とか そういう術や道を究めようとしますし、マンガですら「マンガ道」とかあったりしますし...。
タイの座禅の話を聞いて最初びっくりしたんですが、日本の座禅と違って「全てを忘れるため」に座禅するのだそうです。 問題があろうが、どんなに気になるトラブルを抱えていようが、何も問題が無いかように振舞う事が出来るのが、理想なんだそうです。 問題を克服するためじゃないんだそうです。 「ビジネスに克つ!」とか「道を究める!」とか「集中力を高める」とか言って座禅をする日本とはずいぶん趣が違う物だと思いました。
おかあつ 2010年05月03日 00:00
子供ですら「ミニ四駆道を極めよ!」とかやってますし。
(しかし CANNAを使ってるんだけど誤変換が多くてイライラするな...)
(しかし CANNAを使ってるんだけど誤変換が多くてイライラするな...)
ラチャ@サバイディー 2010年05月03日 01:23
日本でも究極的にはそうだと思いますよ。
自然体を追求して呼吸と姿勢の安定から精神状態を限りなく無に近づけるのは、言葉を変えれば無意識からくるコンプレックスによる感情の漣や波をまとめて鎮めてしまうってことですから。
ここら辺が一つ一つのコンプレックスを分析して治療して行こうって言う精神医学(心理学)との大きな違いというか。(コンプレックスなんて細分化されて無限にあるので向き合いきれませんから)
自分の身体を通してコンプレックスの影響を受けなくしようってことなんですよね、それによって物事を正しく見る(正見っていいますね)ことが出来るっていう。(仏教的な正しさは一般的な正義みたいなものとは違いますが)
そして自分の心が究極的に鎮まったところに何かのきっかけによって閃きが内側から湧き出てくる。
それを悟りっていうわけですね。
自然体を追求して呼吸と姿勢の安定から精神状態を限りなく無に近づけるのは、言葉を変えれば無意識からくるコンプレックスによる感情の漣や波をまとめて鎮めてしまうってことですから。
ここら辺が一つ一つのコンプレックスを分析して治療して行こうって言う精神医学(心理学)との大きな違いというか。(コンプレックスなんて細分化されて無限にあるので向き合いきれませんから)
自分の身体を通してコンプレックスの影響を受けなくしようってことなんですよね、それによって物事を正しく見る(正見っていいますね)ことが出来るっていう。(仏教的な正しさは一般的な正義みたいなものとは違いますが)
そして自分の心が究極的に鎮まったところに何かのきっかけによって閃きが内側から湧き出てくる。
それを悟りっていうわけですね。
かつお 2010年05月03日 05:45
同じ僻地でも、ラオスは『陸の孤島』。未だに、反政府勢力がいて、立入禁止区域があるから。日本は、『本当の孤島』かな。大陸と違い、閉鎖的な国民性。出家して、悟りをひらいてみるのもいいかもしれない。