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2010年5月16日日曜日

地方と中央 (isaan05-c987254-201005161351)

おかあつがミクシコミュニティータイ東北イサーン語研究会として著した記事を紹介します。
地方と中央 (おかあつ)
2010年05月16日 13:51
─── 中央とは権力を持った地方である。
─── 地方とは、教育・報道機関・政府・権力・軍隊以外の全てを持った中央である。

                                 おかあつ


2010年5月13日 21:04:35 +0900 神戸のネットカフェにて(関西旅行 手記1)



岡山駅を出たら駅前でラッパ型のスピーカーを地面において街頭宣伝をしている人が居た。 この人は、沖縄に駐留するアメリカ軍について触れる中で、いかにアメリカと日本の地位が等しくないか、それがいかに隠蔽されているか、民主党が色々な問題があるにせよ、少なくともこの問題をきちんと把握していることなど指摘しつつ説明していた。 しかし、この人が言うことに耳を傾ける人は皆無であり、例外なくこの人に冷たい視線を投げかけていた。

僕は街頭宣伝の人を見て、僕がミクシで書く文章もこの人と同じように冷たい視線を投げられているんだろうということを思わざるを得なかった。

この人の言うことにはまったく説得力がなかったが、少なくともいっていることは間違っていなかった。 言っている事は、しごく当然であり矛盾していない。 しかし、考えてもみれば、街頭で叫ぶだけのこの人に誰が興味を持つというのだろう。 人々が信じるのは、論理的に正しいことではなく、信頼あるテレビが言うことであり、信頼ある新聞が言うことだ。 それがいかに論理的に正しくなくても、それがいかに現実から乖離していても、人々が信じるのは、信頼があるテレビ新聞である。

ましてや、この地方都市である。 世の中の情勢は全て例外なくテレビからのみ入ってくる。 東京や京都、大阪など東京に匹敵する大都市に居ればもう少し直接自分の目で世界変化の現実を見る機会もあるだろうが、岡山では無理である。 人々は疑うすべもなく、テレビの言うことを信じてしまうのではないか。

新聞テレビの信憑性というのは、薄氷の上に乗っている様に実に危うい存在だ。 新聞テレビが報道する事の多くは、その証拠をまったく提示していない場合がほとんどだからだ。 新聞社、テレビ局が自主的に取材している場合であっても、取材した記者が事実を意図的に偏向させて記事にしている疑いは常につきまとう。 偏向がないということを確証する方法は存在しない。 新聞テレビが言うことを信じるかどうかは、あくまでも個人の責任である。

僕は、会社と契約する等して特定の団体と利害関係を結んでいないので、僕が書くことは基本的に、間違っている事はあっても偏向はない。 しかし、僕の文章を読んで、その内容が妥当だと感じる人は、実はごく少数派だ。

僕の書くことは、苦いんだろう。 僕が書くことは、ほとんどの場合、人々にまったく知られていない未知の事実、という訳ではい。むしろ非常によく知られたことだと思う。 よく知られているのだが、人々が直視できない直視したくない事実を僕は好んで書く。 人々が目を背けて見たくないと考えている事を強引に目の当たりにさせるような僕の文章は、明らかに不愉快以外の何物でもないだろう。

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─── とはいえ、イサーンは、もうラオイサーンに戻れないでしょう。 イサーン文化もタイ同化政策が浸透してきましたし、何よりも「近代的」な生活にあこがれる人が増えすぎてしまっています。ということになれば、次に進むべき道は、富の分配をすすめ、教育レベルを引き上げ、政治・経済の中枢に入る人を増やす、ということでしょう。 ─── (ラオイサーンの文化は、近代化を主題に置くタイ文化とは全く異なり、独自の農耕文化なのだという僕の意見に対してのある方の反論 )───


僕は、関東生まれの関東育ち。 8歳の頃から渋谷を歩き回った。 毎週の様に秋葉原に行く。 京浜工業地帯のど真ん中、電子の街 蒲田で育った僕は、近所にある無数のパソコン屋に毎日の様に通った。 ナムコの本社が家から歩いていける距離にあった。 蒲田のゲームセンターには稀にナムコが開発中のテストゲーム機が置いてあり、一風変わったプレイ感を楽しんだり出来た。 最新ゲームは発売前にチェック出来た。 セガの本社もあった。セガ直営のゲームセンターも毎日の様に通った。 僕は間違いなく、根っからの都会人、関東っ子である。 だから、関東の事はものすごくよく知っている。 逆に関東のことしかしらない。

そんな僕だが、何故か関西系の会社に就職して、10年近く働いた。 同僚上司すべて関西人だった。 理屈が通じず口が達者で隙あらばごまかしてこちらにとって不利な事をねじ込んでくる関西人は、合理主義が大好きで理屈至上主義の僕にとって頭痛の種だった。 煮え湯を飲まされたことも一度や二度でない。 うっかりスキを見せたが為に何年ものあいだトラブルに巻き込まれたこともある。 だから、僕は関西人が嫌いである。

つまり、こうも言える。

─── とはいえ、関西人は、もう関西に戻れないでしょう。 関西文化も関東同化政策が浸透してきましたし、何よりも「近代的」な生活にあこがれる人が増えすぎてしまっています。ということになれば、次に進むべき道は、富の分配をすすめ、教育レベルを引き上げ、政治・経済の中枢に入る人を増やす、ということでしょう。 ───

あるいは、こういってもいいだろう。

─── 関西人は知性が低いので、正しい論理を身につけることが出来ない。 これを解決する為の唯一の策は、教育である ───

この「関西人」と書いてあるところを「東北人」「沖縄人」「九州人」と置き換えても、関東人の僕にとって大きな意味は変わらない。

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今回僕はあちこちの市役所を回って戸籍謄本を作って回っている訳だが、そういう中で気がついたことがある。 それは、関東の戸籍担当と比較すると、地方の戸籍担当は、読解力のレベルが桁違いに低いということだ。

関東の市役所だと、だいたい戸籍課には必ず戸籍謄本マニアみたいに戸籍法に異様に詳しい人がいる。 戸籍自体は単なる名簿録だけど、こういう人に見せると、単なる名簿録からありとあらゆる情報を読み取ることが出来る。 彼らは嬉々としながら戸籍について語る。 実は長男と書いてある○○さんは実は次男の筈だとか、先妻が居るはずだとか、そこに書かれていない情報を裏読み出来る。 彼らは日付を見ることでそこに書かれていない人物の生存を確かめたり出来る。

ところが、地方の市役所だと、まずこういうタイプの人が居ない。 よしんば知識があったとしても、仕事に対する前向きさがない。 僕が戸籍について色々な質問をすると、嫌々ながらに返答をする。僕の親戚の戸籍は非常に複雑なのだけど、別れ際、色々な煩雑な手続きをお願いした件、丁寧にお礼をいうと、嫌な顔すらする人もいる。

僕は地方を差別するつもりはない。 だけど、僕はコテコテに方言が入った酒場のオフクロさんとではなく、市役所の職員と話しているのである。 相手は標準語を話すから、僕も標準語を話す。 僕は手加減なしに関東のはっきりした遠慮のない仕事口上で話す。 ところが、彼らには僕がいうことがほとんど通じていない。 何度も何度も同じ事を説明する必要があったりする。 間違った説明を受けてそれについて訂正を提案しても、あっさり否定してきたりする。 話にならない。 東京でいうところの高校生のバイトの様な対応をしてくる。 相手の間違いについて真意を念押ししたりという東京では当たり前の様にやることが出来ない。やると嫌な顔すらする。

この特徴は市役所の職員に限らない。 地方出身の彼らは、標準語を使い、標準的な方法を目指している。 だからこそ、僕としても、東京式の合理的な方法で付き合おうとしているのである。 一方で、僕の東京式にまったくついてこれない彼ら。 彼らの思いは現実と一致していない。

彼らは標準語を話し、関東の文化にしたがって粛々と色々な事を進めていくが、本心はそうしたいなんてまったく思っていないのだろうと僕は思う。 彼らの本音はまったく別なところにある。 標準語は建前なのだ。

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僕はラオ語を勉強している。 ラオ語には、現在タイ・ラオス間の国境があるメコン川よりも南、タイ側のラオ・イサーン語と、メコン川よりも北、ラオス国側のラオ・ビエンチャン語とある。 僕は特にラオ・イサーン語を学んでいる。

ラオ・イサーン語とラオ・ビエンチャン語は方言の関係だ。 方言と言っても違いはほとんどなく、同じ言葉といってもほとんど差し支えない。 言い回しの特徴に若干の違いが見られるが、双方ともに理解できる範囲内である。

一方、ラオ語とタイ語は、文法、単語ともに違いは決して少なくない。 ラオイサーン語話者が会話する内容を、タイ語話者はまったく理解出来ない。 にも関わらず、ラオイサーン語はタイ語の方言と考えられている。

ラオ・ビエンチャン語とラオ・イサーン語が言語的に非常に近く、双方の話者同士は意思疎通に何の問題がないのに、国際的には異なる言語として考えられている。 一方で、タイ語話者とラオイサーン語話者には意思疎通に大変な障害が存在するのに、ラオイサーン語はタイ語の方言と考えられている。 この事実は、驚きに値するだろう。

言い換えると、ラオイサーン語とラオビエンチャン語は、言葉自体は同じ言葉なのだが、その政治的な存在意義が大きく違うとも言える。 ラオイサーン語はあくまでもタイ国の方言であり、ラオビエンチャン語はあくまでラオス国の標準語である。 これは一体どういう意味合いを持つのだろうか。

標準語と方言の関係を実にうまく言い表した言葉がある。ここで紹介してみたい。

─── 標準語とは、軍を持ったひとつの方言である。
  マックス ヴェインレイク(ロシアの言語学者)
"A language is a dialect that has an army and a navy."
Max Weinreich

─── 方言とは=政府・学校・中流階級・法律・軍隊以外のものは全てを持っている標準語である。
  トムマッカーサー
"Dialect: A language variety that has everything going for it, except the government, the schools, the middle class, the law and the armed forces"
Tom McArthur

何を以って標準語であり何を以って方言とするのか。 これは学術的な問題ではなく、政治的な問題である。

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ラオイサーン語を学ぶのはひとつの業苦である。 何故か。 それを以下で述べる。 彼らは自分たちがラオイサーン語を話すことを隠す。 決して人前でそれを話さない。 とはいえ、タイ語もさほど得意ではない。 あくまでも「話せないこともない」という程度である。 タイ語で話しかけても理解力の欠乏から大変なコミュニケーション障害を生む。 しかも彼らが普段話す言葉は全てタイ語ではなくラオ語である。 こちらが言うことを向こうは辛うじて理解するも、こちらは彼らが何を言っているか全くわからない。 であれば、こちらもラオ語を話せば良いのだが、彼らは決して外人にラオ語を話させようとはしない。 ラオ語はあくまで『方言』であり、程度の低い言葉である、と彼ら自身が考えている。 そして「我々もタイ語が話せるのである」という他愛もない心の拠り所を作り出すべく、外人にタイ語で話しかけ、外人にタイ語を話させる。 しかし現実的にタイ語を話すことは得意でなく、会話にならない。 彼らはこの現実を決して認めようとしない。 このことを指摘すると大変なもめごとが起こる。 この様にタイ語を話しても通じない、ラオ語も話したくない、話しかけられもしたくないという、ダブルバインドに陥る。 この様な矛盾を言葉に出さずに飲み込みながら、長期間に渡って苦しく地道な努力を続ける必要がある。

本心は、ラオ人はタイ流で物事を進めたい等とは、微塵も思っていない。 タイ風に自分たちを見せたいだけである。 本心では、自分たちをはっきりラオと意識しており、ラオの歌を歌い、ラオの言葉遊びを覚え、ラオの昔話を語り継ぐ。 だけど、人前ではそれを隠し、タイ語を話そうとする。 外人がラオ語を話すなど、言語道断である。

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一方で、僕は、郷土文化が好きである。 だからこそ、ラオ文化が好きだ。 ラオ文化もひとつの郷土文化だ。 郷土文化は合理や論理ではない。 あらゆる不合理がある。 そのなかに多様性があり、合理では測れないふくよかな豊かさがある。 方言があり、言い回しに個性があり、そこに論理にはない暖かな表現力がある。

都会人はお金を重視する。 都会人がお金を重視する様に、ラオ人は気持ちを重視する。 お金よりも大切な何かを常に考える。 人が幸せになる為の条件をいつも考えている。 人の気持ちについて常に考えている。 それを大切にする。

そんな人たちが作る料理がまずい訳がない。 そんな人たちが作る音楽が面白くない訳がない。 そんな人たちが考えるストーリーが悲しくない訳がない。 そんな人たちが考えるギャグに毒がない訳がない。 お金の事ばかり考えて作られた都会の音楽が面白くないのは道理だ。

論理は、ひとつの偏見だ。

他人に論理を押し付けることは、ひとつの価値観の押し付けである。

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ところで、そんな僕は、タイにたくさんいる『タイ通』を名乗ってはばからない日本人を見ていて、彼らの多くが地方出身者であることを観察している。

彼ら『タイ通』はラオ人を「イサーン人」として一括りでまとめたがる。 僕がそれが事実と違うといくら説明しても決して納得しない。

僕は「イサーン人」という言葉が嫌いだ。 タイの東北地方=イサーン地方に住む人という意味で言うなら、民族は10種類以上住んでいる。 確かにラオ人が最大のマジョリティーであることには違いないが、ラオ人だけがイサーン人という訳ではけっしてない。 しかも彼らはタイ人ではない。彼らはそれぞれ違った言語・違った文化を持つ個別の民族である。 それは大阪人が東京人と違う様に違う。 いや、大阪人と東京人は言葉くらいは通じるだろう。 タイ人とラオ人は言葉すら通じないのである。 ラオ人とクメール人も言葉は通じない。 プータイとラオも言葉は通じない。


しかしこういった地方出身の田舎者『タイ通』に限って、イサーン人をひとまとめで扱いたがり、その違いを無視し、弱いものとして、見下そうとする。

これを「弱いものが更に弱いものを虐めている」と言わずして、何といおうか。

これを「自分が見えていない」と言わずして、何といおう。

これを「劣等感」と呼ばずして、何と呼ぼう。

ラオ人には自分たちが持つ劣等感すらギャグとして笑い飛ばす、懐の深さがある。

彼ら『タイ通』には、それすらないではないか。
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出展 2010年05月16日 13:51 『地方と中央』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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