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2009年8月12日水曜日

日本人のコミュニケーション下手くそさについて (mixi05-u459989-200908120816)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
日本人のコミュニケーション下手くそさについて
2009年08月12日08:16
日本人はものすごくコミュニケーションがへたくそな国民性だと思う。 日本人のコミュニケーションのへたくそさは、日本で発生する問題のありとあらゆる原因となっていると僕は思う。例えば英語版のwikiと比べて日本語版のwikiがなかなか充実しないことや、年功序列を不合理だと思いつつもなかなかそれを脱却できないことや、少子化が進んで止まらなくなってしまうこと、海外で日本人がつまらない小さな犯罪に巻き込まれやすいこと、日本の国際ニュースの解説がどうしようもなくトンチンカンなこと、それも他国のプロパガンダ(それも当の国では誰も信じてないようなひどいプロパガンダ)をまるまる鵜呑みにしがちな事、国際政治でどうしても他国の言いように振り回されてしまいがちなことや... その問題は多岐に渡ると僕は思う。 これが何故なのかについて、僕はよく考える。 そのひとつの理由は、日本人が内向的だからかなということを思う。

日本人はとても内向的だと思う。 ここでいう内向的というのはどういう意味だろうか。 内向的というのはつまり興味の対照が自分に向いているということではないかと思う。 自分が何を感じるか、自分が何を考え、何を思いつくかに興味が向いており、外界で起こっている色々な現象にあまり興味を持たないということではないかと思う。

外界に興味がなく自分にしか興味がない、ということは、自分以外の物を知らないということでもある。 つまり、自分自身と比べる対象を持たないということでもある。 これはすなわち、自分を知らないということではないかと思う。

これはいいことでもわるいことでもある。

世の中、色々な人がいる。 色々な人が色々な興味を持ち、色々なことをしている。 多くの人は正しいこともするが、間違ったことや破滅的なこともたくさんする。 人を正しい方向に導くこともあれば、間違っている方向に無理やり追いやったり、破滅的な方向に引っ張ったりもする。

自分にしか興味がないということは、そういう外部のノイズに惑わされる事なく物事を考えることが出来るということでもある。 他人に興味がある人は他人に惑わされやすくもある。 自分にしか興味がないということは、ある意味、聡明な思考の条件でもある。

日本人は良くも悪くも島国育ちで、海に守られている。 アルキメデスは地面に図形を書いて数学について考え事をしたそうだけど、晩年アルキメデスが考え事をしていたらローマ人の兵士がやってきてそれを踏んでしまったのだそうだ。 思わず怒ったアルキメデスはその場で兵士に斬られて死んでしまったのだそうだ。 そんなアルキメデスの図形を踏みにじる外国人は、日本にはこない。 日本人は安心して自分に集中できる。

そんな日本人はあまり外部とコミュニケーションを取ってこなかったのではないかと思う。 日本人は大体同じ特徴を持っていてほとんど同じ考え方をしている。 そういう同じような人としか触れ合ってこなかった。 「ツーカー」という言葉があるけど、何も言わなくても大体相手に通じてしまう。 そういうコミュニケーションに慣れきっている。 だから考え方が違う人とコミュニケーションを取るーすなわち他人の考え方を読むのが苦手になってしまったのではないか。

僕はこうやって外国に居て、外人を見て、それで日本人を見て、比べて、思うのだけど、他人が何を考えているのかを悟るのが極端に苦手な人が多いと思う。 例えば、日本人って、極度に騙されやすい。 外国に居て黙って日本人を見ていると、世界中の誰もついていかない様な見るからに胡散臭いおかしな人に日本人は平気でついていったりする。 他人の考え方を読むのが極端に苦手だからではないかと思う。 日本人は他の国の人と比べて極度に騙されやすい。 その理由は他人お考え方を読むのが苦手だからという理由だけではないかもしれないが、少なくともそれは理由の一つとしてランクインしているだろう。

と同時に、自分を知らない人が多い。 僕はタイにいるけど、僕はタイに居る日本人が「自分はタイに馴染んでおりタイ人と見分けがつかない」と言って粋がっているところを何度となく目にした。 自分は慣れてるから絶対にだまされないと粋がっているのも何度となく目にした。

だけど、日本以外の国では、多くの場合そういったコミュニケーションスキルというのは子供ですら持っている場合が多く、客観的に見たときかなり滑稽だ。 実際に日本人以外の人は、そういう風に粋がっている日本人を見て一抹の奇妙さを感じている。 その滑稽さというのはなかなか説明するのが難しいが、まるで、暗い場所に居て「暗い場所だけど...怖くないぜ!」とか「一人で着替えるなんて俺ってすごい!」とか子供のようなことで自慢している大人のを目撃するのと同じくらい滑稽なことなのかもしれない。 更に言えば、日本人の持っているコミュニケーションスキルは、外国で言う子供以下と言うことだ。

「空気読めない」と言う言葉がある。 他人の考えを読めない事を揶揄する言葉だけど、日本人は元々他人の考えを読むことにたけておらず、へたくそが更にへたくそを馬鹿にして安心するという不健全さがそこにある。

元々「空気を読む」ということ自体に無理があるのではないか。このことを説明するとき、僕はいつもアメリカのマサチューセッツ州に滞在したときの思い出を思い出す。 電車に乗っていたとき、横長の座席に横に向いて体育座りをしている人が居たのだ。電車はかなり混雑しており、この女性はかなり迷惑になっていた。この女性がこの後どうするのか僕はとても興味があってしばらく見ていた。

しばらくしたらサラリーマン風の人が彼女に話しかけた。「そこすわってもいいですか?」「あぁいいですよ。」 「ありがとうございます。」 女性は何事もなかったようによけたし、男性も何事もなかったかのようにそこに座った。 それを見ていた僕はショックだった。 この国は国民全員空気読めないのか、と思った。しかも、この国では、空気読めないことは罪ではないのか、とも思った。 そういう新鮮なショックを感じた。

日本ではこうはいかないだろう。

日本人は、空気読む派と空気読まない派のダブルスタンダードの中に居る。 空気が読めなければ読めないでいい。 きちんと話し合えばいいだけの話だ。 空気を読むなら読むで徹底的に読めば良い。 もっとも日本人は表情に乏しいので言葉によらずに何を考えているのかを読むのは極端に難しいのだが。

そんな日本だが、近年、外国人と触れる機会は増えた。 更に日本自体が極端に多様化してしまい、日本人同士ですら外人といっていいほど違いが生まれてしまっている。 「空気を読む」という方法論は破綻しつつある。


今の時点でコミュニケーションが下手なのは問題ではない。 空気を読むコミュニケーションにせよ、空気を読まないコミュニケーションにせよ、きちんとコミュニケーションを取ろうとしていさえすればいい。 そうすればいずれ出来るようになる。

そして、幸運にしてコミュニケーションスキルを身につけることが出来た人は、コミュニケーションスキルを持たない人を馬鹿にしてばかりいないで、きちんとコミュニケーションスキルを持たないことを尊重し、その上でコミュニケーションスキルの大切さを伝えることではないだろうか。


元来、日本人は和を大切するコミュニケーションが得意な民族だと思っているところがある。 これは客観的にいろいろな外国と比べると現実から大きくかけ離れた誤った認識と言わざるを得ない。 問題は、この様に日本人が日本人自身に対しての大きな幻想を持っていることではないだろうか。


伊レストラン事件で覆面調査も
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=926017&media_id=2
コメント一覧
カオソーイ   2009年08月12日 08:21
一言でいうと、「外部」というものを予め捨象した上で、内部だけでしか通用しない、虚構の「和」や「コミュニケーション」を大切にする民族だといったらいいすぎでしょうか?

例えば、敗戦直後の外務省で、人員削減をした際に、真っ先に犠牲になったのは、本当に「外部」にいるユダヤ人や、国際社会との和やコミュニケーションを大切にした「杉原千畝」で、堂々と居残ったのは、対米関係改善のために’39年に駐米大使になった野村吉三郎(元外務大臣)で、彼が帰国する民間人(実は米国でスパイ活動を行っていた人物)の送別会を中華料理店でやる際に大使館に暗号無線担当の留守番を置かなかったという失態のために、真珠湾攻撃前に宣戦布告ができず、騙し打ちになってしまった責任者ですが、堂々と外務省に居残り、出世してます。

このように、本来「外部」とのコミュニケーションを司るはずの役所の高級官僚でさえ、「内部」の調整を優先することが当然視されるのが、
悪しき日本だと思います。
あび   2009年08月12日 12:48
この日記を読んで思ったけど、最近よく言われる「空気読め。」的な圧力というのは、「相手の立場になって考える。」とか、「周囲の人への印象や雰囲気に配慮」するというような綺麗なものではなくて、「あなたは、私と同じ感覚持ってて当然ですよね。」という根拠の無い強制力の行使なのかなと感じました。

それと文末で引用されていたニュースについてですが・・・。

例えば、「オニーサン、イイコ、イルヨ!」とかいう明らかに怪しげなポン引きとか、親しげに近寄ってきて金品を奪おうとする泥棒とか、夜の歓楽街のぼったくりバーとかなら、危険を察知できるかもしれないけど、街中の高級イタリアンレストランでぼったくられるというのは、ちょっと察知する自信ないなー。

やっぱり、他人の考えを読むことにたけた人なら、ローマの街中の高級イタリアンレストランに入っても、「あ、俺、カモにされるかも。」って勘付く事ができるんだろうか?

個人的には、一般的に「高級レストラン」と呼ばれるものは、ブランドや顧客からの信用、周囲の評判などで成立している商売だと考えてしまうので、そのような店の看板に傷をつけるようなぼったくりはしないと判断してしまいます。
oxoofo   2009年08月13日 03:51
あ♪れ? 居る?(いま日本?)   イマドコ?


>日本人の...について
んーーー
やっぱ、、、
ちょっとだけ、 オーバーなんとからいぜーしょん
                   ( カテゴライゼ(ーション)?、 クラシフィケ?、 ... )
 なんじゃないかって、いつもちょっとだけおもったりしてみますが、いやでも。

僕は、他を、なまで、見てないからなー。「実際に複数種類を見ないとこの感じは分からんよ」と言われれば、そうかも知れない。 でも、やっぱり、「そんなに国ごとに均質なん?」とかって、思ったりもするけど、でも実際、自分で見たら、そうだねーと思うかも知れないし。
 
出展 2009年08月12日08:16 『日本人のコミュニケーション下手くそさについて』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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