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2009年7月4日土曜日

雑記 (mixi05-u459989-200907040640)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
雑記
2009年07月04日06:40
先月の6月26日ぐらいにバンコクに戻ってきて、6月30日にウドンタニーに行った。 日本にいる間にいろいろなことを済ませよう、と思っていたのだけど例によってほとんど終わらなかった。 プログラミングが忙しかった。 バンコクに戻ってきてからもプログラミングは続いた。 プログラミングは今、佳境にはいっておりかなりスピードアップしている。 簡単にはやめられない状況になっている。

しかし早急にウドンタニーに行く用事があった。 ウドンタニーではいろいろな問題がごった返しており、行かないわけにはいかなかった。 時間が切れてとりあえずウドンタニーに向かった。

僕にとってウドンタニーに行くことはほとんど修行に近いものがある。 行けばタイ語はまったく通じない。 タイ国内だけど、タイ語が通じないことはまれではない。 むしろタイ語が話せる人のほうがまれだ。 日本語も英語も通じない、加えてタイ語も通じない。 加えて、この地方の言葉には辞書もない。 教科書も無い。 使える物は感性だけだ。 この地方にいる間は、とにかく感性を研ぎ澄まして集中しているしかない。

加えて、今回のウドンタニー訪問は、以前から起こっていた問題が先鋭化してほとんど格闘状態になっている中に、息を止めて飛び込むような状態で、普段よりも精神的なタフさを求められる旅だった。 普段能天気なウドン人が人間関係のトラブルを抱えるとどうなるか。 そんなことを思い知る旅だった。

タイというのはのんきでいい国だ。 どんなダメ人間が来てもやさしく迎えてくれるし、どんな悪党が来ても親切におもてなししてくれる。 これはタイ人がタイ人に対してもそうだ。 どんなに無責任だろうと最後まで付き合う。 タイ人は優しい。 そこにくると日本人は冷たい。 ダメ人間はあっさり切り捨てるし、悪党は徹底的に叩き潰す。

しかし、たまには日本式のほうが楽だろう、と思うこともある。 なぜかというと、タイではいい人が最初に死んでだめな人が最後まで生き残る、という状況になりやすいからだ。 そんな残念な状況を何度も見た。 どうしても親切な人が怠け者の面倒をみる羽目になりやすい。 怠け者は散々悪態をついた挙句、逆恨みを始める。 親切な人はいつも貧乏くじだ。 そんなダメなやつは、ほうっておけ、といいたくなる。 しかし決して見捨てない。 ダメなやつに振り回されて全体がダメになる。 いいやつは逃げ出してしまう。 結果的にダメなやつだけが生き残る。 それでいいのか、タイ。 といいたくなる。 日本は少なくとも、仕事ができる人が生き残る確立が高いではないか。 (もっとも日本にもタイ式の人は少なくないが。)

しかし日本式にも悪いことはある。 日本式だと、ダメなやつは徹底的に叩きのめされて、再起のチャンスも与えられない、ということになりやすい。 実際、景気が悪くなったりすると、そうなることは決してまれなことではなくなる。 何とかまんなかをとってちょうどよいぐあいにならないものか、と思う。



今、僕は、バンコクで24Fの高級マンションに住んでいる。 プールもついているし、ジムもついている。 国内の一等地まで歩いて2~3分という立地。 駅まで5分。 高級だけど家賃は3
万円だ。

だけど、そろそろこのアパートを引き払おうと思う。 ウドンタニーに引っ越すか、もともと住んでいた東京の実家に戻るかしようと思う。 ウドンタニーには家があるので、いつでも引っ越せる。 だけどここにはインターネットはおろか、電話すらないので、仕事はプログラミングだけに限られることになる。 不便だけど、そのほうが集中できるのでいいかな、なんておもったりもする。

あるいは、いい加減、他の国に行こうかとも思う。



今、僕は、ラオス語がかなりわかるようになってきているようだ。 前よりもずいぶん話についていけるようになってきた。 言葉も聞き取れるようになってきた。 ただ問題は、僕がラオス語を話すと笑われることだ。 ラオス語はタイではタイの東北弁ということになっているので、僕がラオス語を話すと ダニエル・カール のようなことになってしまい、何もしていないのに笑われてしまう。 最初は笑われるのも楽しいのだけど、水を買ったり用事を頼んだりするたびに笑われるのは、かなりうっとうしくもあり、生活上問題でもある。 バランスが難しい。 言葉というものは不思議なもので、話さない言葉はなかなか聞き取りも上達しない、という現象がある。 だから、聞けばわかるけど話せない、ということになってしまう。 上達も遅くなりがちだ。


次回のビザ更新のとき、またラオスに行くことになるので、ドンドーク大学で二週間くらいのラオス語集中講座をやってもらおうかなと思う。



結局、世の中に外国の文化を深く理解できる人など、そうそういない、ということなのだと思う。

僕は今まで、あった日本人で、僕ほどラオスの文化を知っている人に出会ったことが無い。 こうやっていうとみんな一様に「なんて生意気な奴だ」と思うらしい。 だがそれは事実だ。 ラオス語が上手だっていう人がラオス語を話すのを聞くと、大抵発音がボロボロだったり敬語がボロボロだったり、(言葉は完璧でも)コミュニケーション力がボロボロだったりする。

しかし、同様に、僕は今まであったラオス人の中で、日本語が上手な人を見たことが無い。 確かに敬語は無茶無茶うまいが「今日は暑いですねぇ」とかいう。 年中暑いビエンチャンにいて今日は暑いもクソもあるか、と僕は思う。 型を覚えているだけで何も理解してないのだ。 あるいは、敬語がボロボロだったり、発音がボロボロだったりする。

日本語がうまいタイ人もあまり見たことが無い。 日本大好きで日本に何年も住んでまるでネイティブみたいな日本語を話す人もいるけど、努力が嫌いで無責任なのは何も変わらなかったりする。 (タイだと無責任はある程度許容されるけど、日本だと許容されない。 だから無責任っていうのは言葉が上手なだけでは打ち消せない文化的ギャップになりえる。)

タイ語がうまい日本人も見たことが無い。 タイが好きでタイで高校・大学を卒業した、という人もいる。 確かにタイ語はメチャメチャうまいけど、相変わらずタイ人を無責任だアホだ、と馬鹿にしてばかりいたりする。 タイの文化は心の文化で、仏教に深く根ざしている。 決して、文学や数学・科学といった技術には根ざしていない。 タイの独特な心の文化をきちんと学ぼうと思ったら、数学や科学を学ぶのと同じくらい難しい訓練が必要だ。 タイ人を見て「バカだアホだ」というのは、何もわかっていない証拠なのだ。

僕は英語に関してはあまり自信が無い。 だけど、おそらく英語に関しても、さほど大きな違いは無いのではないか、と思う。 敬語がボロボロか、発音がボロボロか、文法は完璧なのにコミュニケーションがボロボロか、のいずれかなんだと思う。 「英語が得意でござい」とえばっている人は、日本人得意の足の引っ張り合いをしているだけで、何も学んでいないのだろう。



問題は能力の高さではない。 問題は、問題に出会ったときに恒常的に努力を維持できるかにかかってる。 常に問題に興味を持ち続け、問題意識を絶やさないで、問題と長年付き合うことができるかどうかにかかっている。 これが一番大切なことだ。 発音がいいかわるいか、文法がいいかわるいか、コミュニケーションがいいかわるいか、は結果であって問題ではない。 大切なのは、問題意識を持ち続けることだ。

そういう問題に対する正しいスタンスを持っている人はおのずとレベルも高いし、人と比べてえばったり人と比べて卑下したりもしないものだ。 その人が比べるものは唯一、問題だ。



僕の問題は、そうやって本質から外れている人ときちんとコミュニケーションを取る方法を持つことだ。 僕は中卒で、物事を学ぶことにかなりの苦労をしてきている。 だから、きちんと教育を受けてきちんと両親から育ててもらっているのに、本質から離れて怠けてしまう人をやさしく許す心の広さ、というものをあまり持ってない。

だけど、人というのは、元来、怠け者でバカでのろまなものだと思う。 バカでノロマだから幸せなのではないかと思う。 それを許して、仲良く付き合っていくのも、また幸せなことではないかと思う。




前、こういうことがあった。 その人はフランスが好きなんだそうで、ずっとフランスのウンチク話をして他人をバカにしてばかりいる。 そういう人を見たことがあった。 僕は結構うんざりしたので、こういった。

「... 君は何もわかってないね。 君が言う○○の件なんか無知丸出しだよね。 パリぐらいの都会では普通なことかもしれないけど、ブルゴーニュとかの日本人が少ない地方に行けば××とかはさほど珍しくない。 それくらいはわかってないと変だよね。 それなのに何をそんなにえばっているの?」

彼は恐れ入って話に聞き入ったのだが、そうやってひとしきりケンカを売った後で、僕が実はフランスなど一度も行ったことがないということを白状した。 僕が話したことは全部でっち上げの大ウソだということを伝えた。 彼は大笑いして、ウンチク話を止めた。 僕がいわんとしている趣旨を捉えたのだ。

本質は考えることで、知ることではない。



雑記、終わり。
コメント一覧
ちえぞう   2009年07月04日 08:01
海外に一度も行ったことのない自分にとって、おかあつさんの日記のような感覚がわかるわけないと思う方が多数だとは思いますが>だけど、おそらく英語に関しても~のところで「そうなのよ!」と感じました。
ものすごく。
今、自分の子どもの周辺のお母さん方(一歳児の親)の話を聞いていると、色々な教育、特に英語に関しての情報交換が多いのですが。
いくら一才から勉強させたって日常で英会話が交わされているわけではないから特に効果がないような気もするし、どんなに詰め込むことができたとしても「型を覚えているだけで何も理解してないのだ。 あるいは、敬語がボロボロだったり~」みたいなことになるような気がするのです。
文化を深く理解しているわけではないから。
大切なことはコミュニケーションを取ることに研ぎ澄ます感性を育てることの方だと思うのです。。。
おかあつ   2009年07月04日 08:26
(わからないけど)子供のころから外国語を勉強させると、その分母国語はへたくそになるような気がしていて、実際若いころから語学留学している人って、結構そのケがある人、多いと思うのです。 外国語もあまり大してしゃべれないし、かといって日本語もいまいちきちんと話せない、という人多いです。

ねぇもうちょっと日本語きちんと話そうよ、とかいうと、あたしは子供のころから英語勉強してたから日本語が苦手でゴメンネとか、えばった感じでいったりします。 それは全然えばれないことで、非常に大きな問題なんだけど、その人はそれがいいことだと勘違いしているみたいです。

もしも子供をバイリンガルにしようとするなら、子供に二つの学校をフルタイムで行かせるぐらいの覚悟が本当は必要だと思うのです。 それは大人になってからやるとしてもおなじで、新しい言葉を勉強すれば結局人生ふたり分苦労するような感じなんだと思うのです。



人一人分の苦労をきちんとしていれば、もう一人分の苦労をするのは、そんなに大きな苦労ではなくなる、ということはあるのかもしれません。

でも小さいころから、頭の文化の切り替え訓練をするのは、それはそれで、すごくいいことだと思うのです。なんか最初と言っていることが矛盾しているのですが...この訓練ってすごく頭が疲れるんですが、この頭の疲れる感じがよい練習になるような気がします。巷によくある頭が疲れない訓練だったら、たぶんしなくても同じだと思います。
ちえぞう   2009年07月04日 08:56
頭の文化の切り替え訓練。
これはハードそうだけどどうなんでしょうね。
話さなければならない環境に身をおくことが大事なのかな。
結構なストレスになるような気もしなくもないですが。
近所の公園では小学生のお姉ちゃんが同級生とは日本語で、一緒にいる妹には英語だったり日本語だったりで話すけど、幼稚園くらいの妹は英語を話す(日本語の理解はできている)という光景を目にすることがあるのですが、毎回すごいなーと感心してしまいます。
かつお   2009年07月07日 20:15
タイ出張から戻りました。華人や日本人との接待に疲れました。バンコクの繁華街で日本人を見ることが少なくなったのですが、不景気の影響でしょうか。バンコクよりウドンやラオスのような田舎の方が落ち着きます。
 
出展 2009年07月04日06:40 『雑記』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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