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2009年6月15日月曜日

JMMについて (mixi05-u459989-200906151446)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
JMMについて
2009年06月15日14:46
僕は、村上龍が主催しているJMMというメーリングリストが好きでよく読む。 というか読んでいた。 最近あまり読んでない。 何故だろう。

今日のJMMの冒頭にこういうことが書いてあった。

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 Q:1015への回答、ありがとうございました。普段、まったく疑問を感じることなく使っている言葉の中には、奇妙なもの、あるいは奇妙な使い方もかなりあるようです。「こだわりの一品」「味にこだわる」など、「こだわる」は広く流通し一般的になっていますが、もともとは「ちょっとしたことを必要以上に気にすること(大辞泉)」というようにネガティブなニュアンスを含んでいるそうです。「絆」という言葉も、「家族の絆」「友情の絆」などけっこう流行っていますが、もともとは犬や家畜をつないでおく手綱のことで、「強制的につなぎとめる」というような意味合いが含まれているのだそうです。

 カンブリア宮殿にも登場いただいたソフトブレーン創業者の宋文洲氏は、日本に来たときに、「社員」という言葉を知って、びっくりしたとブログに書かれていました。文化大革命の中国にたくさん誕生した「人民公社」に勤める元農民のことを「社員」と呼んだらしくて、そのことを思いだし、違和感を覚えたのだそうです。会社の一員、という意味なのでしょうか。考えてみると、確かにどこか奇妙ですが、あまりにも一般化しているので、新しく代わりの呼称を考えるのは無理でしょう。

 わたしは、正しい日本語を使わなければいけない、と思っているわけではありません。言葉は、意味や使い方や言い回しが時代状況とともに変化していくので、そもそも何が正しいのかわかりづらいからです。ただし、真実や事実の隠蔽に便利だからという理由で急速に流通する言葉もあります。太平洋戦争時の「転進」や、近年の「勝ち組・負け組」などがその典型です。「転進」は「敗北・退却・撤退」でした。また、世の中には「勝者と敗者」がいるだけで、それぞれの「組」があるわけではありません。

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この数年で僕は急激に変化した。 4年前はタイ語は話せなかったし、ラオス語も知らなかった。 英語も今ほどは話せなかった。

日本語って他の言語より言葉の意味があいまいなことが多い。 ここでいうあいまいさとは、一般的に言われるような日本語の持っている「奥ゆかしさ」とか「やさしさ」とかそういうものとはまったく別物だ。

日本語は同じことを伝えるのにものすごくたくさんの言い方がある。 あまりにもたくさんの言い方があるので、その異なった言い方のバリエーション間で、本来は意味が同じなのに、その意味が同じだ、ということに気がつきづらいものが多い。

タイ語やラオス語と比べると、日本語は外来語が多い。 そもそも漢字だって外来語だし、日本人は漢字以外にもドイツ語ポルトガル語英語韓国語等々いろいろな言葉をまぜこぜにして、日本語に足りないものをドーピングしてきたのだろう。 だから日本語は他のアジア言語と比べて抽象的なことがらを表現するのが得意なところがある。

しかし、同じことを言うのにたくさんの表現方法を持ってしまったことによって、同時に、あいまいにもなっているように思う。 だから、そういう言葉のあいまいさにいろいろな都合の悪いものを滑り込ませてうやむやにされてしまいがちだ、ということは多いと思う。


日本語の語彙数は驚異的だ。 大体どの言語にも国などが英知を尽くしてつくったすべての語彙を網羅する最大の辞書があるものだ。 聞くところによると、その「最大の辞書」のページ数は、日本語で英語の2倍以上あるらしい。 さらに英語では辞書内の単語の数十パーセントが派生語なんだそうだ。

英語だと、論文や説明などでは「誰もが知っている語彙の範囲」で説明するのがマナーとされているように思う。 誰もが知っている語彙の範囲を超えるときは、その言葉の意味をその文章の中で定義するのが普通だ。

ところが、日本語だと「君はそんなことも知らないのかね?」といわれないようにしなければいけない、という無言のプレッシャーがある。 日本語の文章は、ありとあらゆる文献から出てくる膨大な単語をより集めて、それを説明することなく無断で使う。 そういう難しい単語をたくさん知って、語彙数の多い文章を読みこなすことこそが知的な証である、と考える傾向がある。 日本語では、読者のアクセシビリティーを考えることは、無能のすることである。

結果的に、膨大な単語数を並べることによって敵をびびらせる、そのことだけに命を書ける物書きが現れることになる。 哲学の本を書く人に多いのではないか。



日本語には一般的な文章の中で使ってもよい語彙の定義 = 「標準語彙」が必要だと思う。 それは常用漢字のように漢字だけに対して定義するのではなく、漢字、熟語、慣用表現を含めたすべての要素に対する語彙の範囲を定義すべきではないか。 この範囲を超える文章はかならず文中にその言葉の定義を書く必要がある、と定める。

英語だとそういう常用語彙を超える言葉がたくさん出てくる文章などでは GLOSSARY グロッサリーといって、きちんとその言葉の意味を定義する習慣がある。 日本語ではあまりみかけないような気がする。 あるいはついていても申し訳程度で「わかる人が読めばわかる、わからない人がよんでもわからない」といったものが多くないか。

悪文が生まれる理由とは本来センスのなさだけが原因ではないと思う。 これは単に「きちんと理解できる文章」のルールにのっとっていないだけだ。 ただ、「 きちんと理解できる文章」というものが各人の判断にゆだねられているため、結果的にセンスの問題に帰着してしまうのではないか。

「きちんとした文章」の定義は本来、法律のようにを明示的に言葉で表現されたガイドラインのようなものが必要なんじゃないかと思う。 これだけで、かなりの量の「悪文」を防ぐことができるのではないだろうか。

日本人はそんなあやふやな言葉であやふやなコミュニケーションをとっている。 そしてコミュニケーションが成立しないと 「お前は勉強がたりん!」「勉強がたりんのはお前じゃ!」と不毛なケンカを始める。



今こうして外国語がわかるようになって、改めて、村上龍の文章を読むと「あぁ日本語で考える人なんだ」と思うようになった。

近年、外国語がわかる人は増えている。 それはインターネットのによって海外の情報に触れやすくなったのが、もっとも大きい。 インターネット前、インターネット後で、巨大な格差がある。 インターネット前に長い年月をかけて勉強したことが、インターネット後だとほんの数か月の労力で知り尽くすことができる。

当然、外国語がわかる物書きも増えている。 この人たちは当然日本語の限界に気がつきながら文章を書く。 そういう「日本語を離れた」文章は増えてきている。 日本語を離れた文章はもはや村上龍の専売特許ではなくなってきているのではないか。

そういう中で『世の中には「勝者と敗者」がいるだけで』 という指摘については、「何をいまさら」という感はぬぐえないものがある。

JMMで村上龍は、そういう日本語のあいまいさを指摘することは多かった。 しかし、あくまでも日本語の範疇で日本語のあいまいさを指摘するにとどまり、結果的にあまり多くの人に伝わってこなかったのではないか。 そしていまだに同じ方法でそのあいまいさを指摘し続けている。



もちろんJMMは好きだし、村上龍も好きだけど、今の僕はいろいろと違う視点から見ることもできるようになってきた。 ただ、僕は村上龍ほど日本語の文章がうまくない。 そこが課題ではある。


コメント一覧
ねこ☆ミ。   2009年06月15日 16:00
>日本語の語彙数は驚異的だ。大体どの言語にも国などが英知を尽くしてつくったすべての語彙を網羅する最大の辞書があるものだ。聞くところによると、その「最大の辞書」のページ数は、日本語で英語の2倍以上あるらしい。さらに英語では辞書内の単語の数十パーセントが派生語なんだそうだ。

なるほどなぁ。全然気がつかなかった。
本質的な気がする。

>日本語には一般的な文章の中で使ってもよい語彙の定義 = 「標準語彙」が必要だと思う。それは常用漢字、というような漢字だけではなく、漢字、熟語、慣用表現を含めたすべての語彙だ。この範囲を超える文章はかならず文中にその言葉の定義を書く必要がある、と定める。

そういう規範があっても良いと思う。確かに曖昧さが回避されると想う。
例えば、常用漢字表がなければ、もっと、漢字の表現は多彩で曖昧だったと想う。
しかし、実用文はいいが、その他は嫌だな。

古典とのつながりを最小限に保つために、少なくても伝統的仮名遣い,を読めるようにした方が良いと想ってるので、「標準語彙」は、かなり抵抗があるなぁ(^^;;;;

常用漢字表は明治時代にも議論があったけど、GHQの占領下で漢字が全面廃止されるまでの間に当面使用される漢字として、1850文字を定めて制限したものだったりする。

韓国は漢字を廃止してしまったが、日本語に数は減ったが漢字が残っただけでも、良かったと想う。
そんなこんなで、単純な合理性から言語を改変することには抵抗感がある。

言葉はただの道具ではなく、文化そのもので、人間を形作ると想う。

ねこ☆ミ。   2009年06月15日 16:06
元の文章は、そんなことを言ってるのではなくて、明確なコミュニケーションを取るときには、共通の定義された言葉を日本語全体で使おうということを言ってるのだと思う。

でも、言葉に対する共通の認識を持つためには、多くの人が共通で読む名文、例えば、古典文学等が必要と思う。

言葉の移り変わりが速すぎて世代によって言葉が分断されてる気がする。
おかあつ   2009年06月15日 16:32
> しかし、実用文はいいが、その他は嫌だな。

当たり前だけど、論文と文学は別だよね。 それは英語でも同じじゃないだろうか。

言葉でも何でも最小限に抑えようとする努力がないと、無限に大きくなっていくものだと思う。

>そんなこんなで、単純な合理性から言語を改変することには抵抗感がある。

確かに、日本人誰もが同じ学校に通い、同じような家族を持ち、同じような家族構成で、同じような食事を取り...という場合には、同じであるということを高度に求めることができる。 しかし、もうそういう時代でもない。日本語を話す者、日本語を聞く者ですら日本人でない、ということはもうまれじゃない。この人たちが古典を習うっていうことに、どれくらいの意義があるだろう。

日本人は、外人に邪魔されることなく共通認識を築き上げるのに膨大な時間をかけられる。だからこそ、言葉が複雑でいられるのではないか、と思う。 だけど、今の世代格差は外人同士って言っていいくらいの差がある。親父と若者という、日本人同士ですら、言葉が通じなくなっている現状がないか。


日本語が国際語になれない理由もこの辺にある。 日本語を国際語として話す人ですら、古典を読めなければいけないのか。 日本語を話すものはすべて季語を覚えなければいけないのか。 それはそうではないはずじゃないだろうか。


次の話は極論だけど、実際起こっていることじゃないかと思う。

たとえば、コミュニケーションの齟齬から医療事故になって死者が出るとか、そういうことが起こっていても「合理性から言葉を改造するのはよくない」って言えるだろうか。こういう問題は、それぞれの業界ごとに意味があいまいにならないような取り組みが行われ、一定の共通認識の下でルールが定められていたりするけども、これは本来言葉が持っていなければいけない機能のひとつ、とはいえないだろうか。



>言葉はただの道具ではなく、文化そのもので、人間を形作ると想う。

それは間違いない。 だからこそ、日本人はあいまいなんだと思う。 だからこそ、コミュニケーションがへたくそなんだと思う。

言葉の表現力の限界ってある。 特に、日本語では、ある程度より複雑なことをいおうとすると、意味が一意に決まらなくなることがある。 そうすると日本人は「他人の考え方は究極的には理解できない」とか「それは君の考え方だから(暗に自分には絶対理解できないというあきらめの表明)」とか、そういうことを言い始める。

日本人が理解できない、って言っていることを当たり前のように理解したり話し合ったりしている国はある。 「他人は究極には理解できない」ということが間違っているということは自明なのだけど、日本人にとっては、日本語で日本人としか話したことがないので、その外がわがどうなっているのか理解できず、「世の中いろいろな人がいる」とか「他人の考え方は究極的には理解できない」という「他人理解不能論」的な発想につながる。
おかあつ   2009年06月15日 16:40
1. たとえば、ここに書いてあることを、すべて、隣にいるアルゼンチン出身の女性に説明することができるだろうか。 そのためには、どこから説明しないといけないだろう。 (とんでもなく基本的なところから説明しなければいけないはずで、そういう基本的なことを説明する練習は絶対に必要だ。)

2. 「勝ち組」とか「負け組」とか そういう言葉の意味を説明できるだろうか。 勝ち組というときと勝者というときと、どういう意味の違いがあるのか。 何故勝者って言うよりも、勝ち組って言うほうが好まれるんだろう。

おかあつ   2009年06月15日 16:43
敗者というと、負けたその人ひとりのことしか言わない。 だけど負け組というときは、負けた人たちという複数のことを意識しているように思う。 私は敗者といえば、自分は負けたということをいうだろうけど、私は負け組、といえば自分以外にも負けた人がたくさんいる、ということを暗示していないか。 この言い方には、そういう厳しい現実の痛みを麻酔によって和らげている部分があるのだと思う。



この間、犬のハイジャンパーがテレビに出てた。 大会で入賞経験すらしたことがあるという自信満々だった犬だったが、普段飛べていたバーを落としてしまった。 そうしたら、すっかりしょげちゃって、二回目も失敗してしまった。 これをみて、犬にも「精神面」があるのか、と思った。

厳しい現実を受け入れることが常にもっとも前向きな姿勢である、とは限らない。
ねこ☆ミ。   2009年06月15日 17:05
考えてみれば、自分も仕事では無意識に自主的な運用語彙制限をしてたなぁ。

明確に記述しなくてはならないときには、すべての関係者が同じ意味にとらえられる誤解のない単語を選ぶ必要があるから。

ちなみに上の文章では、語彙という単語は、自分の運用語彙制限に引っかかる。
また、運用という言葉は、曖昧すぎるのでアウト。

「文章を記述する際に利用する単語を制限する」と、書いていたと思う。

実用文と、それ以外は別に考える必要があるなぁ。
おかあつ   2009年06月15日 17:09
I am a looser っていうのと、 I am one of the losers. って言うとずいぶん意味が違うけど、考えてみれば、この「負け組」っていう言葉には、そういう「社会問題の結果として出てきた敗者の1人なのだ」という意味合いがこめられてないか。

おかあつ   2009年06月15日 17:23
>考えてみれば、自分も仕事では無意識に自主的な運用語彙制限をしてたなぁ。

英語(というかたぶんCJK以外の多くの言語)には最初からそれがあるんじゃないだろうか。

>実用文と、それ以外は別に考える必要があるなぁ。

マイクロソフトのWIN32ヘルプとか、すごく語彙数少ないよね。
あれは絶対に「読む人が英語ネイティブじゃない」って言うことを意識してると思う。



予断だけど、そこにくると、SUNのドキュメントは大幅に語彙数多いと感じる。 たとえば

http://java.sun.com/javase/6/docs/api/java/lang/String.html

Returns a new string that is a substring of this string. The substring begins at the specified beginIndex and extends to the character at index endIndex - 1. Thus the length of the substring is endIndex-beginIndex.

beginIndex - the beginning index, inclusive.
endIndex - the ending index, exclusive.

こういうのとかは、簡単じゃないよね。 substring っていう特殊な言葉を知らないと理解できないし。 (ちなみにOXFORDには substring っていう単語はのってなかった。)

マイクロソフトのドキュメントよりずっと書き方が厳密ともいえるけど、こうやって読者の読解レベルを高くすることで高品位を演出しているのかもしれない。 MSよりずっと格好つけてるんだよね。

ねこ☆ミ。   2009年06月15日 17:35
今度は、実用文以外の話。

>日本語が国際語になれない理由もこの辺にある。 日本語を国際語として話す人ですら、古典を読めなければいけないのか。 日本語を話すものはすべて季語を覚えなければいけないのか。 それはそうではないはずじゃないだろうか。

いやいや、現在は英語が普遍語(Universal Language)であるが、過去には、フランス語にしろ、ドイツ語にしろ、中国語にしろ、普遍語であった。
これらの普遍語には世界に認められる古典文学がある。

世界に認められる古典文学がない言語は普遍語にはなれない。

例えば、Shakespeare ENGLISH EDUCATION IMPORTANCE Elementaryの単語でググれば、
http://www.google.com/search?hl=ja&q=Shakespeare+ENGLISH%E3%80%80EDUCATION%E3%80%80IMPORTANCE%E3%80%80Elementary&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
で、その一番上にでてきた、
http://www.folger.edu/template.cfm?cid=3219
を読めば、イギリスでは、小学生でも、シェークスピアにふれあってる。
日本より古典が読めると思う。

それを考えると、日本の国語教育は貧弱だと思うし、伝統から切り離されている。

物事を明確に表すことは必要であるが、言葉はそのためだけの道具ではない。

もう、アメリカが衰退しようとも、英語は普遍語なので、日本語が普遍語になることはないが。
ねこ☆ミ。   2009年06月15日 17:51
しかし、よーろっぱのげんごと、にほんごの差はおおきい。
おかあつ   2009年06月15日 18:02
> これらの普遍語には世界に認められる古典文学がある。

僕は古典文学が不要だとは言ってないよ。 僕が言いたいのは、正確なコミュニケーションする上で古典を知らないと理解できないような表現は避けるべきだ、という点だけ。


>世界に認められる古典文学がない言語は普遍語にはなれない。

これには因果関係がないと思う。 探さないけど、反例もたくさん見つかると思う。

... たとえばタイ語には古典文学はないと思う。 (だけど古くから伝わる仏典はある。文学よりこちらのほうが重視されていると思う。) だけど、タイは東南アジアでは覇権をもっていて歴史的には少なくとも三つ以上の国で使われていた。(今はひとつの国という扱いになっちゃったけど)


>日本語が普遍語になることはないが。

これも事実と反すると思う。 アジアではかなり多くの人が日本語を話している。 たとえば日本に出稼ぎに来ている人は、日本で国際語としての日本語を話してる。 中国人とインド人とか 韓国人とロシア人とか、そういう組み合わせの中で日本語でコミュニケーションをとってる。

アジア言語を話す人にとっては、英語より日本語のほうが簡単、ということは少なくないよ。

ねこ☆ミ。   2009年06月15日 18:07

>こういうのとかは、簡単じゃないよね。 substring っていう特殊な言葉を知らないと理解できないし。 (ちなみにOXFORDには substring っていう単語はのってなかった。)

自分の持っているすべての辞書を、引いたのですが、出てないですね。
ジーニアス英和、リーダース英和、Longman英英、 Longman英和、日経パソコン用語辞典、ATOK標準辞書

SUNのドキュメントは難しいですね(^^;;;、
ねこ☆ミ。   2009年06月15日 18:18
上の普遍語周りは、これ以上は、調べないと自分もよく分らない。

タイ語には、上座部仏教(Theravada Buddhism)の仏典が多数あるなぁ。。。
一冊こっちに来る前に買ったのだけど、日本においてきた。。。
おかあつ   2009年06月15日 18:30
科学的な物事には「気遣い」がないことが多い。

たとえば 1+1はどう数えても2だ。

だけど、昨日は夜勤明けで疲れていました...それで卵をひとつ割ってしまいました。そして今日その疲れを残したまま出勤してさらにもうひとつ割ってしまいました。 などという場合は、1+1が2にならないことがある。あぁいいですよ、疲れていたんですよね。 じゃぁ帳面上0に変えておきましょう、とかいう話になったりする。

気持ちは大切だ。

だけど、僕がラオスにいるとき、こういうことがあった。店員が 「そろそろ、商品の在庫が切れそうだ ...。 でも店長に話すと心配するから言わないでおこう。」 というのだ。 在庫が切れると困るのは店長だ。 だから心労を気遣って在庫のことを僕に言わなかった。

ここでは、気持ちは大切ではない。 いち早く問題を解決する必要がある。 1+1は必ず2なのである。

ここで、当然だけど、気持ちが大切なのか、気持ちが大切ではないのか、は、事実の深刻さによらない。 ところが、日本人は、この点において独特の共通認識を持っていて、一定の判断で「気持ちが大切」と「気持ちは大切でない」を無意識のうちに切り替えている。

本来は、どんな状況であっても1+1は2だ。 卵を割ってしまったら1。 夜勤明けであろうが疲れていようが、状況がどうであろうと1は1だ。 しかし、日本にはこれを厳密に適用できない事情がある。

往々にして卵を割ってしまったという事実には前後に文脈がある。本来ならば、勤務状態を観察したり、構造的な問題を分析したりした上で、解決策について討論しなければいけないはずだ。ところが、日本人はここで、きちんと討論ができないことが多い。何をどう説明しても1+1は2だ、ということを納得しないオヤジが必ずあらわれて、ようやく合意に至りそうだった取り決めをひっくり返して帰っていく。

結果的に「1+1だけど○○さんに言ってもどうせわからないので、しょうがない、0にしておきましょう」という風なルールの柔軟な適用の仕方で衝突を回避する必要性が出てくる。

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日本語には、こういう1+1を2にしない「気遣い」の表現が多い。 一方で事実を的確に表現するためには、「気遣い」の表現というのは、害悪以外の何者でもない。 1+1は確実に2と伝える厳密さが必要だ。

一方、気遣いのない表現は、日本人を感情的にする。 結果的に不要なトラブルを招きがちだ。 日本人は西洋人のようにすべてを合理的に割り切って感情的にならずに問題に対処していく精神的な強さを持ち合わせていない。

気遣い重視・合理重視という、この二つは相容れない関係だ。 どちらかを立てればどちらかはひっこむ関係にある。 日本人は常にこの「気遣い」を考えながら、問題のドラスティックな解決に踏み込むことができない、というケースが多くないか。

僕はこれを「アジアの壁」って呼んでる。

これは日本だけでなく、タイもそうだ。 タイの場合、日本よりもずっと厳しい壁がある。 一方で、気遣いの文化は日本ほど荒廃していない。 精神衛生上日本にいるよりもずっとすごしやすい場合が多い。
おかあつ   2009年06月15日 18:31
普遍語って普通、国際語とかいう言い方するよね。
タビビト   2009年06月15日 18:35
私もJMM好きで、購読しています。

>英語だと、論文や説明などでは「誰もが知っている語彙の範囲」で説明するのがマナーとされているように思う。 誰もが知っている語彙の範囲を超えるときは、その言葉の意味をその文章の中で定義するのが普通だ。

論文や新聞の解説記事などについては日本語でも「誰もが知っている語彙の範囲」で説明されているのではないでしょうか?(論文はほとんど読んだことがないのですが)


>日本語の文章は、ありとあらゆる文献から出てくる膨大な単語をより集めて、それを説明することなく無断で使う。

私は英語が苦手で自分で判断して言えないのですが、普通の新聞や「newsweek」くらいだとなんとか読めるが、「TIME」誌になると、そうとうな教養がないと読めないということも聞いたことがあります。「必要な語彙の範囲」ということについては、何語ということではなく、所謂クオリティ・ペーパーかどうかということのほうが大きいのではないかと思います。


>マイクロソフトのWIN32ヘルプとか、すごく語彙数少ないよね。
>あれは絶対に「読む人が英語ネイティブじゃない」って言うことを意識してると思う。>そこにくると、SUNのドキュメントは大幅に語彙数多いと感じる。

おかあつさんの意見に8割方賛成なのですが、マニュアル等に関しては、ネイティブの人が書いたもの平易な文章になっているけれども、非英語圏の人が書いたものは、無理矢理直訳したため、難しい単語を使ってしまっているという面もあると思います。(私も英語でQ&Aを書いたことがあるため。)


おかあつ   2009年06月15日 18:44
コメントありがとうございます^^

>論文や新聞の解説記事などについては日本語でも「誰もが知っている語彙の範囲」で説明されているのではないでしょうか?(論文はほとんど読んだことがないのですが)

考えてみれば、そうですね。

考えてみれば、僕が念頭においていたのは、「技術書」「哲学書」「社会学の本」「論理学の本」と「日本語のWIKI」です。 これらは一長一短あり、これらをゴチャゴチャに考えるのはよくないですね。

ところで、日本語のWIKIを見ているといろいろ思います。 英語のWIKIみたいに討論がきちんとかみ合っていないように思うことが多いのです。 英語のWIKIと比較すると、レベルがとても低いです。

とはいえ、英語のWIKIもしばらく見ていると、コンピューターサイエンスや天文学等々の学術的な項目で討論が高度に展開されている一方、医療とかの項目では、学術的な見方を好む人と民間療法の見地から文を書こうとしている人と、分かれており、あいまいな記述がまぎれこむことが多いような気もしています。

一方たとえば、車とかアニメとか あと PSG音源とか FM音源とか、日本人が得意な分野の項目は、日本語のWIKIのほうがレベルが高い、というところもあります。

 
出展 2009年06月15日14:46 『JMMについて』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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