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2009年5月30日土曜日

ユダヤ人の友達 (mixi05-u459989-200905301753)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
ユダヤ人の友達
2009年05月30日17:53
この間イスラム街のアラブ料理屋で水タバコを吸っていたら、ひょんなことからイスラエルの人と仲良くなった。 ものすごく良くしゃべる人で朝までしゃべった。 こういう風に仲良くなった人の常で、メールアドレスを交換したけど、連絡がなくなってさようなら、というパターンが多いのだけど、この人はとても義理堅く、まめに連絡を取っていた。

色々あってイスラエルに帰ってしまった。 僕のほうもビザの更新があってバンコクを離れていたり仕事が忙しかったりしてしたので、結局再開できなかった。 だけど、話がまとまったみたいで、またバンコクに戻ってきた。 で、仕事を見つけてしばらくバンコクに住む、という話だった。

それで、昨日(28日の深夜)にかなり久しぶりに再開した。 本当に良くしゃべる人で、いろいろなことをしゃべった。 彼は国際政治でもまれるイスラエル出身であるだけでなく、世界のあちこちを渡り歩いて仕事をしている人で、何故か僕が好きなイサーン文化にも興味があって、くわしかった。 変わった人だと思った。



で、戦争の話とかになって、日本軍の話になった。 彼は日本軍はバカだ、といった。 かつての日本軍は強力な軍事力を誇って最強だったのだけど、戦略がないからダメなんだ、ということをいった。

普通戦争をするときは、どこの国にどういう資源があるのかを知った上で、順番を考えて占領しないといけないのだけど、日本軍はアジアの国を資源のことを考えないで片っ端から攻めていったので、資源が尽きたんだ、というようなことを言った。 僕は戦争史に詳しくないので、それが本当に正しいのかはわからない。 彼は続けた。

当時アジアはヨーロッパに攻められて大変だった。 日本がひとつのアジアと言って立ち上がってラオスやフィリピンなどヨーロッパ各国に占領されていた国を取り返していったのは、立派だし、アジアの人は、文化的にかけ離れたヨーロッパ人に占領されているよりもよほどうれしかっただろう、といった。 だけど戦略が無いのでアメリカと戦争して資源が尽きて負けたんだ、というようなことを言った。



何か頭の中の霧がさっと晴れるような話だと思った。 僕に国ではそういうことをいうと大変なことになる、と言ったら、そりゃそうだろう、という話だった。 そういう彼の国は今イランと一触即発の状態で、大変なことになっている。 大丈夫なの?と聞いた。 ニュースで言っているほど大変じゃないよ、ということだった。 ニュースではやたらと危ないように報じられているけど、安全だしバンコクと変わらないよ、ということだった。

これらはすべてプロパガンダなのだ。 多分、彼にとってプロパガンダなど日常なのだろう。



アメリカ人とタイ文化の話をすると、必ず児童買春の話が出てくる。 タイは売春・児童買春が
いまだに盛んで、人権的に問題がある、という話に必ずたどり着く。 タイに児童買春はあるだろうか。 多分あるだろう。 それは日本にあるのと同じようにあるだろうし、アメリカにあるのと同じようにあるだろう。

しかしだ。 インターネットで見つけることができる、児童ポルノの写真というのは、ほとんどがブラジル系・東欧系・ロシア系の子供だ。 しかもそういう児童ポルノ写真のほとんどがアメリカ人の写真家によるものだ、ということも漠然と見えてくる。 そして、タイ系の児童ポルノ写真というのは、実はほとんどない。

多分だけど、タイではポルノは極めて厳しく取り締まられているからだと思う。 加えて18歳以下の少女と交際を持つことも硬く禁じられていて、よく外人が警察にチクられて逮捕されて痛い目にあってる。

中華系移民が児童売春をビジネスとしてやっている話もある。 こういう残虐性のあるビジネスをやるのは大抵中華系のギャングだ。 しかし、タクシン以降取締りが厳しくなり、めっきり少なくなった、という話もある。 いずれにしても、タイでは人が思っているほど児童買春は盛んではない。

ところが、タイの話になると、必ずと言っていいほど児童買春の話になる。 一方で、東欧系・ロシア系・ブラジル系の児童ポルノを誰が撮影しているのか、という話はほとんど触れられない。 しかも、こちらの残虐性は非常に高いのにかかわらず、である。 2~3歳の子供と性交渉をしている場面の写真などは存在する。 タイよりもよほどむごいことをしている。

これも恐らくアメリカのプロパガンダなのだと思う。 ウソないしは極端に誇張された一般的事実だ。



最近良く思うのだけど、語学は大切だろうか。 語学は確かに最終的に大切だけど、日常でのコミュニケーションを行う上で、語学など使わなくても出来ることはたくさんある。 例えば、僕は今ではタイ語を相当うまく話せるけど、うまくなればなるほど、実はあまりタイ語を使わなくなってきている。 タイ語が上達すると同時にコミュニケーションも上達しているので、コミュニケーションが上達するにつれ話す必要が減ってきている。

相手が何を思っているかは、目を見れば大体わかる。 こうして考えてみると、日常のコミュニケーションを送る上で、語学など使わなくてもわかることというのは、山ほどある。 「あぁこれは○○語が話せないとわからないなぁ。」ということは、実は語学を使ってもわからないのだ。 言葉というのはコミュニケーションを行う上でのあくまで最終手段で、言葉を使う前に出来ることはたくさんあるのではないかと思う。

なのに日本の語学教育というのは、コミュニケーションを一切無視して、ひたすら言葉だけを教えている。 これは明らかに間違っている。 これは語学をヘタクソにする方法だ。



日本の新聞は、ウソや誇張された事実が多い。 これは新聞がバカなのではなくて、プロパガンダが混入しているからだと思う。 そういう日本の新聞をみて、僕はこれまで日本の新聞がバカなのだと思っていたけど、そうではないのだろう。

日本はアメリカのプロパガンダに忠実なところがある。 日本でしきりにタイの児童買春のことを報じられるのも、アメリカのプロパガンダの影響なのだろう。

プロパガンダもひとつのコミュニケーションなのだと思う。 これはどちらが正しくどちらが間違っている、という問題ではなく、結果的に人がどう動いて、誰がどう得をして、誰がどう損をするのか、という問題なのだと思う。



もっとまとめてきちんと書きたいのだけど、急用で日本に帰らないといけなくて、時間が無いので、とりあえずのままのかたちで、掲載しようと思う。
コメント一覧
ねこ☆ミ。   2009年05月30日 23:47
>で、戦争の話とかになって、日本軍の話になった。 彼は日本軍はバカだ、といった。 かつての日本軍は強力な軍事力を誇って最強だったのだけど、戦略がないからダメなんだ、ということをいった。

上記は正しいと思う。

日本軍は、短期決戦を想定していて、長期戦略をそもそも持っていなかったのだ。

日本人集団のなかで、やっても見ないうちから、「失敗した時のプランを考えよう。」なんて、大声で主張することは臆病者のすることでしょ?
目上の人の命令がどんなに無茶でも真っ正面から反対せずになんとかするのが組織に属する人間の最低の責務でしょ?
(な~んてことは自分は全く考えていなく地道に失敗時の対策を考えておくのが好きな人間なのだが。)

「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」という本があるのだけど、
この本は日本軍のその他いろいろの長所、弱点を詳細に分析している。

http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%B1%E6%95%97%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%AE%E7%B5%84%E7%B9%94%E8%AB%96%E7%9A%84%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%88%B8%E9%83%A8-%E8%89%AF%E4%B8%80/dp/4122018331


今の日本の会社も同じような行動をする傾向にあり、人間は無意識に歴史を引きずりながら生きてるとことを実感する。

今こっちに来て、"Atlas of World War II (Johen Keegan)"という、アメリカ側の第2次世界大戦の全体戦術が記述された本を読んでいるのだけど、この戦術を定義し明確に記述しようという習性は日本人はなかなか持ち得ないのではないかと思う。

明確に全体像や目的を単純性(Simplicity)をもって記述することは日本人は得意でないので、大本営と末端組織の戦略がずれたりする。

どんな文化にも得意なことと不得意なことがあるので仕方がないと思ふ。
TOYOTAがGMに勝ったりもするし、熟練度を必要とする持久戦には米国より強いと思ふし。

鎖国状態から開国し→世界大戦→敗戦→経済復興をした前世紀の日本の活躍は奇跡的だった。
今世紀はどうなるのかわからないが。

















ねこ☆ミ。   2009年05月31日 00:45
日常のコミュニケーション能力と、語学力っていうのは、まったくの別物だよね。
語学が日本の中学3年生ほどにもできなくとも、コミュニケーション能力が高く、
友達を作るのがうまい人もいるし。


日本の語学教育は、今はどうなっているのか知らないが、そもそも、英語の文献を理解し、正確に日本語に置き換えることに重点が置かれててた。
そんな明治時代からの努力の上に、日本語で世界の様々なことを考えられるようになった。
それはそれで重要なことだと思うが、コミュニケーションを取ることとは、また、方向性が違うことですね。

しかし、コミュニケーションをとる訓練は、実際どうしたらよいかと考えてみるに、学校ではどう教えればいいのかよくわからない。
まずは、「語学さえできればコミュニケーションが可能である。」といふ、幻想をすてることなのでせうか?
そのうえで、実地で鍛える問題なんでせうか?
それよりも、まずは、「日本人同士でコミュニケーションをとれるのか」という問題なのかもしれないが。




複数の国のニュースを比較すると、プロパガンダに気がつきやすいよね。
最近自分が興味は、豚インフルとか、北朝鮮ミサイルとか。

そうすると、それらのプロパガンダにより誰が得するのかを考えてしまいます。
ジャコビ   2009年05月31日 10:30
>当時アジアはヨーロッパに攻められて大変だった。 日本がひとつのアジアと言って立ち上がってラオスやフィリピンなどヨーロッパ各国に占領されていた国を取り返していった

大東和共栄圏の事ですよね。西欧諸国もその昔はアジア、アフリカに植民地を持っていたし、アメリカにも奴隷制度が存在したし、しかもアメリカ自体、現地民を騙して奪い取った土地です。今の世界の先進国の富は100年、200年前のアジアやアフリカの人びとを搾取する事によって築かれたようなものです。

ドイツと日本が20世紀に入ってから行おうとしたのは、他の西欧諸国がもっと昔に行っていた事と変わらないのに、やりはじめるのが遅かったというだけで倫理的に非難されてしまう…私もそんなふうに考えた事もありました。でも、それだと結局は「お前が悪い」「いやお前も昔は同じ事をやっていたじゃないか」という水掛け論から抜け出る事ができません。

以前私は、日本人というアイデンティティーにこだわったりしている所があって、自分の責任でも何でもない日本国の歴史を背負わされていると感じる事もありました。でも、結局は、地球上に住む人間の一人一人が平和に暮らすという単純な事を優先して考えると、日本対欧米諸国とかではなく、個人対国家という図式の方がすんなりと納得出来る事に気づきました。そうしたら、憑き物が取れたみたいに楽になりました。

国々は「国家の利益」の為に戦争を始め、自国の兵士も敵国の兵士も一般市民も殺したり、プロパガンダを流して民心をコントロールしようとしたりします。自分の頭で考える力を持ち、注意していないと、受動的に与えられる情報だけでは簡単に翻弄されてしまいます。でも、幸いにも、今はインターネットがあるので、その気になりさえすれば、良い情報も悪い情報も含め、様々な情報が簡単に手に入ります。

毎日アメリカで流されるニュースには、アメリカの国内で起っている様々な形の児童虐待事件が沢山あります。例えば、数年前明るみに出た、アメリカ各地のカトリックの神父達が長年行っていた子供達に対する性的虐待は、かなり大きなスキャンダルになったので、知らない人はいません。それでも、滅多に報道されないタイの児童虐待の方がアメリカ人の脳裏に焼き付いてしまうのは、やはり人種差別なのでしょう。
おかあつ   2009年06月01日 05:24
> 語学が日本の中学3年生ほどにもできなくとも、コミュニケーション能力が高く、友達を作るのがうまい人もいるし。
>それよりも、まずは、「日本人同士でコミュニケーションをとれるのか」という問題なのかもしれないが。

コミュニケーションを行うという意味において、日本ってすごく特殊な国だと思う。 日本人にとっては、色々な意味で自分しか存在せず、他人は存在しない。 それがいいかわるいかはわからないけど、それはあらゆる面から見てそれが事実だと思う。

そんな日本人が外国に出ると、そもそも他人とはいったい何なのか、そんな他人とのコミュニケーションって言うものはどういうものなのか、それがそもそも何なのか、理解するまでに大変な時間がかかるんじゃないかと思う。

日本人は「和の心を重んじて」とか思っていてコミュニケーションがうまいと思っているところがあるけど、実はぜんぜんそんなことない。

「語学が日本の中学3年生ほどにもできなくとも、コミュニケーション能力が高く...」 っていうのはきっとクラスに居る南米・中南米出身の生徒をみたときの感想じゃないだろうか。 僕も最初(15年ぐらい前)見て、びっくりした。 日本人的には見ると本当に驚く。 しかし、今こうして思うけど、世界的にみてそちらの方が普通だ。 日本人の方がずっと珍しい。


コミュニケーションって言うと日常会話を思い浮かべるかもしれない。 だけど、文章でも論文でも音楽でも絵描きでも、マンガでもオタクでも同じコミュニケーションだ。 文章はコミュニケーションか?と思うかもしれないけど、文章も書くのも人であり、読むのも人であり、最終的には、ひとつのコミュニケーションでしかない。



ではコミュニケーションはどうやったらうまくなるのか、と思うかもしれない。 コミュニケーションは相撲じゃないかと思う。 コミュニケーションは格闘技じゃないか。 技術がうまくても負けるときは負けるし、ヘタクソでも勝つときは勝つ。 勝負事は時の運だけど、とはいえやっぱりうまい人とへたくそな人はいる。 何故運次第なのに、いつも勝つ人といつも負ける人がいるのか。 それは何故なのか。 色々な人の胸を借りて当たって砕けるしかないんだと思う。

すぐにはうまくならない。 あまり無理するとかなりキツいカルチャーショックに落ちて、ひどい目にあったりするし。 気長に地道にやっていくしかないと思う。





おかあつ   2009年06月02日 10:51
>ドイツと日本が20世紀に入ってから行おうとしたのは、他の西欧諸国がもっと昔に行っていた事と変わらないのに、やりはじめるのが遅かったというだけで倫理的に非難されてしまう…私もそんなふうに考えた事もありました。でも、それだと結局は「お前が悪い」「いやお前も昔は同じ事をやっていたじゃないか」という水掛け論から抜け出る事ができません。

良く思うのですが「善悪」っていうのは、本来すごくあいまいではっきりしないものなんだと思います。 数学みたいに 「無限+無限=無限」 「無限×無限=無限」 というような厳密な定義を重ねることで、絶対に間違いが発生しないように性質を定義することが出来るものでは、きっとないのだと思います。

で、善悪というものも、よくよく考えてみれば善悪って単に利害関係でしかないんじゃないか、という風に僕は思うのです。

人を殺してはいけないのは、殺された人が決定的に損だからじゃないか、と思います。 人を殺してもかまわないという風に考える人は、同様に自分が殺されてもそれを受け入れる必要があるはずです。 いつ人から殺されるかと常に心配しながら生活するのは不便です。 だから人を殺してはいけない、というルールがあるのではないか、などと考えます。

ところで、人に命がある、というのはきっと普遍的なもので、だからこそ誰にとっても対称的に適用できるルールなんじゃないかと思います。 これがもしも誰にとっても普遍的でないものであると、話はもう少し複雑になるのではないかと思います。

「強姦をしてはいけない」という問題が、いい例ではないでしょうか。 男性にとっては強姦というのは特殊な状態をのぞいては損害ではない、あるいは損害になりえない物ですが、女性にとっては明らかに損害であり、脅威です。 しかし男女の間で、その善悪感に多少の温度差があるのが普通じゃないでしょうか。 同様に電車の中でポルノ雑誌を読むのが良いか、悪いか、なども、そういう立場の違いが現れやすい題目なんだと思います。 この問題は、すべての人にとって必ず生命があることとは同じ問題ではなく、立場に偏りが現れるからではないか、と思います。

さらに考えて見ます。

人には「他人が感じることを自分が感じているのと同じように感じる能力」という物があるように思うのです。 男性が自分にとっての直接的な損害にはなりえないのに「強姦はいけない」と考えるのは(自分の妻が強姦されたら損害だからということに加えて)こういう他人の問題を自分の問題として捉えることが出来るこの感情移入能力があるからではないでしょうか。

ところが感情移入能力というのは、人によってその対象にムラがあるものです。

例えば、人は犬が好きで、犬をかわいがったりします。 犬は人の友で愛すべき存在だ、と考えています。 犬が飢えれば餌をあげます。 犬が怪我をすれば病院に連れて行きます。 しかし国によっては、犬を食べる国もあります。 そういう人たちにとって、犬とは食料です。 赤い犬を食べると元気になる、などという言い伝えがあったりします。 犬が友である国では、犬を食べるなどという行為は、唾棄すべき行為であり、反吐が出るほどおぞましい行為ですが、一方、犬を食べる国では、とてもおいしい食材です。

日本人にとって一番よく考える機会が多い問題は、きっとクジラだと思います。 日本人にとってクジラは古くから貴重な食材でしたが、一部の西洋人にとっては唾棄すべき行為であるようです。 一方、そんな西洋人が大好きで毎日食べる牛は、イスラム世界では神聖な存在です。 西洋人が牛を食べることに対して、イスラム世界の人たちはどういう印象を持っているでしょうか。

このようなものを見ると僕は思うのですが、「善悪」という物は、そもそもあいまいな物なのではないでしょうか。 善悪とは、数学のようにまったく無矛盾にその性質を定義することは決して出来ないもので、つまり「善悪」はあくまでも物事の性質ではなく、単に感情問題だからではないではないかと思うのです。
おかあつ   2009年06月02日 11:25
上で書いたことを極論すると、物事に善悪は存在しないのだと思います。 若干現実で経験する物事とかけ離れた感じがしますが、こちらのほうがより現実に近く厳密なのではないでしょうか。

現実とかけ離れた感じがするのは、「善悪」が本能的・感情的な存在で、状況や文化によって無意識のうちに育っていく物であり、誰もが持っている視点だからではないか、と思います。 しかし、善悪は本質的に、あくまでも本能的、感情的なものであって、その定義を定めることは出来ず、その本質は暗に「利害関係」なのだと思います。

厳密な定義が存在できず、本質が暗に利害関係と結びついているということは、「善悪」という概念は、視点を変更することによっていくらでも恣意的に変更できるものでもある、ということではないでしょうか。

物事の善悪について論じるのは、論理的にみて、無意義です。



国際政治では、常に「誰が善であり誰が悪であるのか」ということが議論されると思うのですが、以上の理由によって、本質的には無意義なのだと思います。 なのに何故善悪がいつも論じられるかといえば、それが本質的に利害関係と結びついているからではないか、と思います。

>でも、それだと結局は「お前が悪い」「いやお前も昔は同じ事をやっていたじゃないか」という水掛け論から抜け出る事ができません。

「お前が悪い」「いやお前も昔は同じだ」というのは、これは言葉を返せば、つまるところ利害関係が一致していない、ということなのではないかと思うのです。 善は悪で、悪は善で、表裏一体である以上、 常に結論が出ないのだと思います。

人は、その背後にある利害関係に気がつかないのだと思います。 だからこそ、政治家や経営者は善悪を語るのだと思います。 善悪を語ることで、その本質をぼかし、はっきり理解しないうちに決断させようとしているのだと思います。 プロパガンダというのは、本来、単純で何の人情も感情もない、単なる利害関係に、「善悪」というオブラートをかけて人々に伝えているような物なのではないかと思うのです。
おかあつ   2009年06月02日 11:39
>しかもアメリカ自体、現地民を騙して奪い取った土地です。今の世界の先進国の富は100年、200年前のアジアやアフリカの人びとを搾取する事によって築かれたようなものです。

本当に理念だけを厳密に考えれば、アメリカ人・オーストラリア人・イギリス人・カナダ人はすべてを原住民に返して、イギリスに帰るのが本筋です。 しかしそういう結果にならないのは、善悪が暗に利害関係だからではないでしょうか。

同様に偽善という物も存在しないのだと思います。 これは単に利害関係であり、善悪はそのひとつのバリエーションであり、常に本質の利害関係とは若干の不一致があるからです。



僕は思うんですが、日本人っていうのは、戦後、この「善悪感」が恣意的にコントロールされてきたのだと思います。 アメリカの政府や、日本の政府によってそれらは意図的にコントロールされてきたのではないかと思います。 コントロールされた結果、それらはすべて日本人の損害だったか、といえば、それは恐らくそうではなかったでしょう。

しかし、日本は極悪で、原爆を落とした国は正義で、日本は極悪だから原爆を落とされても仕方がない、という善悪感は、納得するには、かなり苦しい物があります。 日本は朝鮮を侵略したから極悪で、国をまふたつに分断して半分を独裁者の国にした、アメリカとロシアは正義だ、というのも、普通に考えると非常に苦しい物があります。

日本よりも、アメリカをはじめとしたヨーロッパ各国の方が、善悪感をコントロールする技術に長けていた、ということなのではないでしょうか。
おかあつ   2009年06月02日 11:52
多分、善悪にとらわれた考え方をすると、色々な物事の本質が見えなくなるのだと思います。 善悪にとらわれない本質的な考え方をすることはとても大切です。 しかし、世界の人は、老獪です。 善悪にとらわれた考え方をする人に、その本質を教えるというようなことをせず、むしろ人々にもっと真剣に善悪を考えることを進めます。 善悪にとらわれない考え方が出来る人たちにとっては、そのほうが圧倒的に利益が大きいからです。

温暖化・エコ・アフリカ支援、等々世の中では「正義」と「悪」が闘っている事象がたくさんありますが、これらはほとんどの場合、そういうような、意図的にプロモートされた善悪なのではないかと思うのです。



わからないのですが、日本人は、海に囲まれた無菌状態の領域にいるため、だまされることに慣れていないのではないでしょうか。 だまされていることにそもそも気がつかないし、だまされたことがわかると、怒りはじめたりします。 だまされたことに気がついたとき、一番しなければいけないのは、善悪が利害関係である以上、不正を正そうとすることではなく、嘘を見抜いたことを、相手に知られないようにすることです。 しかし、日本人は大体だまされると怒ります。


プロパガンダというのは、究極的には、日本人が苦手なコミュニケーションのひとつなんだと思うのです。
ジャコビ   2009年06月02日 12:00
善悪は絶対的な物ではなく、時と場所によって常に変わって行くものだと思います。3000年前の良い事の観念は今とずいぶん違うはずです。人殺しも日常の世界では悪だけれど、戦場では勇気です。

善悪は単純な物の見方の一つだけれど、物事を善悪で見ると、感情的になってしまって、出口がなくなります。だから法や裁判が存在するんだと思います。考えてみると、善悪感は宗教と深く結びついているので、宗教の影響が濃い欧米の方が世界的に見れば無宗教の日本よりも善悪感で世界を見たがる熱狂的な人々が多いのだろうと思います。善悪を判断する感情は理屈ではないですから。
おかあつ   2009年06月02日 12:14
>だから法や裁判が存在するんだと思います。

そういえば、法と契約、っていう考え方がありますよね。 善悪は一定しないけども、この国に住む以上、法と契約して、一定の善悪感に合意しなければいけないという...。


日本は価値観に多様性がない(というか許されない)から、契約っていう考え方も生まれづらいのかもしれないですね。
おかあつ   2009年06月02日 13:38
>人殺しも日常の世界では悪だけれど、戦場では勇気です。

これも考えてみれば(僕が言うところの)「プロモートされた善悪」なのかも知れないですね。 「やぁ君なかなか色男だねぇ、仕事も速いし、スーツも決まってる。 じゃぁ明日の休日出勤よろしくね。」みたいな感じですよね。 「休日出勤しない? 男はな、それくらいの仕事は黙ってやるんだ!」 みたいな。 これも、それが勇気か正気かという問題は、事実かどうかは別として、明らかに得をする人と損をする人がいますよね。


>考えてみると、善悪感は宗教と深く結びついているので、宗教の影響が濃い欧米の方が世界的に見れば無宗教の日本よりも善悪感で世界を見たがる熱狂的な人々が多いのだろうと思います。

日本人はどうも「世のため人のため」という風に考えがちで、善悪感に流されやすい」って書こうと思ったんですが書かなかったんです。 でも考えてみると、善悪感に流されやすいのは、どこに行っても同じかもしれないですよね。


 
出展 2009年05月30日17:53 『ユダヤ人の友達』