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2008年10月28日火曜日

心と論理 (mixi05-u459989-200810281406)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
心と論理
2008年10月28日14:06
9:24 PM 10/27/2008

最近、僕はよく価値観のピラミッドを思い浮かべる。 それはこういうものだ。 片方は針の先の様にとがった頂点になっている。 これは論理の世界だ。 論理の世界には答えはひとつしか存在しない。 このひとつの点に到達するために何十年もの修練が必要だったり多大な犠牲が必要だったりする。 そしてもう一方は面になっている。 こちらは心の世界だ。 こちらは答えはひとつではなく無数にある。 あらゆる考え方あらゆる価値観が許される。 このふたつの考え方は対極だ。

論理の世界に心はない。 1+1は2だ。 この1+1が2であるという事実は、親が泣こうが子が苦しもうが絶対に変化しない。 一方、心の世界では1+1が3であったり4であったりする事は許される。 これは論理的には正しくないことかもしれない。 しかし、むしろそうやって答えを臨機応変に変化させることで人々が希望を失ったり自信を喪失したりしてしまうことを防ぐことができるという、論理の世界にはない大きな特徴がある。

論理の世界というのは、まるで空気もない水も無い全くの真空の世界のようだ。 ここは人が住む世界ではない。 しかし人間はここに到達するためにあくなき努力を積み重ねる。 ここには、多大な犠牲を払い厳しい修練を乗り越えることが出来た者のみ住むことが許される。

心の世界はそうではない。 ここには水もあれば木も緑も存在する。そこには生命があり快適がある。 そこには誰もが住むことができる。



そして、僕はまた語学というのが、学問というよりは、音楽の訓練に近いようなものを感じている。要するに、カラオケが上手に歌えるようにするにはどうすればよいのか、というような、または、スターのものまねが上手くなるためにはどうすればいいのか、というような、比較的、運動神経的な努力ではないかと思う。 訓練する過程として、カラオケで上手に歌うためにはどうすればいいのか、という感覚と、語学が上達するにはどうすればいいのか、という感覚にはかなり近いものがある。

そして、この音楽の訓練というのは、この論理の世界と心の世界を同時に行ったり来たりすることに他ならないのだ。

つまり、こういうことだ。 心だけでは何も通じないが、とはいえ技術だけでも何も通じないということだ。 知識の無い心だけでは、それは赤ん坊がうわごとを言っているのと全く同じになってしまう。 表現したいことが現実の世界で像を結ぶことが出来ないのである。 しかし、心を否定し、ひたすら修練を積んで表現する技術だけを手に入れたとしても用を成さないのである。



僕が今住んでいるタイには、タイ人をバカだと断定する日本人が少なくないのだが、本当にそうだろうか。 タイ人は生まれてから論理的な訓練をする事がない。 だから論理的な考え方はとても劣っているものがある。 そのことは否定しない。 ただ、その点、日本人もかなり近いものがあるということがいいたいのである。 実は日本人も生まれてから論理的な訓練をする事がとても少なく、その点においてタイ人と非常に近いものを持っている。

例えば「雨があがるか、傘を持っていたら、行きましょう」 という文章があったとする。 次に「雨があがらず傘を持っていなかったら行きません」 という文章を読んだ時、これらが論理的に全く同じ価値を持っているということを直感的に見抜くことができるだろうか。 これはドモルガンの定理と呼ばれる論理の初歩だが、知っていただろうか。


例えば「上野・不忍池でデートをすると必ず破局する」というジンクスがある。 このジンクスが本当に正しいということを証明するためには、以下の全4パターンのうち、最低2つのパターンを調査しなければいけないのだが...。

1)不忍池でデートしたカップルの結末を追跡して調査する
2)不忍池でデートしなかったカップルの結末を追跡して調査する
3)破局したカップルがかつて不忍池でデートしたことがあるかを調査する
4)結婚したカップルがかつて不忍池でデートしたことがあるかを調査する

このうち、当然1はチェックすることになるだろう。 しかし最低でも、あともう1つだけチェックしなければ、不忍池でデートをすると破局するというジンクスが本当かどうか確かめることはできないのだが、それはどれだろうか。 次の行を読む前に一分くらい考えてみていただけたら幸いだ。

実は、これは有名な論理の問題のひとつで多くの人が間違える典型的な例なのだ。 これを読んでいるあなたは、その答えが3番ではなく最後の4番がだということにすぐに気がついただろうか。

上記の二つは、論理的に考え方にとってとても初歩的なことで、誰か個人の意見ではなく、親が泣こうが子が泣こうが変化しない絶対的な事実だ。こういう論理の性質を知ることはとても大切だが、しかし、日本ではこのことを学ぶ機会はとても少ない。




一方タイ人は心の世界を上手に扱うことに関してはとても高いレベルを持っている。 相手の意見をすばやく汲み取り、相手が安らぎを感じるような対応をすばやくとることが出来る。 また相手に不愉快さを一切感じさせることなく相手を自分の思ったとおりに動かすことも非常に得意だ。 更に考え方が違う人たちとスムーズにコミュニケーションをとることも非常に得意である。 それら点に関して日本人は、とてもではないが得意だとはいえない不器用さを持っている。 その点、多くのタイ人は日本人をバカだと断定している。




論理の世界と心の世界は、全く正反対の世界だが、実は表裏一体だ。 近い場所にあるが、これらを混同してはならない。

多くの人は、本当に論理的に考えなければいけない場面で心の世界を持ち出し、本当に心について考えなければいけない場面で、論理の世界を持ち出す。 それは極めて有害だ。


コメント一覧
あび   2008年10月28日 15:53
今、自分がいる場面が論理的に考えなければいけない場面なのか、それとも心情的に考えなければいけない場面なのかを見極められる要素みたいなものはあるのかな?私は、この判断がつかなくて、つい自分が考えやすい方を選んでしまうのですよ。
カオソーイ   2008年10月28日 15:55
日本人の論理のいい加減さのいい例で、小泉武夫という売れっ子の発酵学者(東京農大教授)が、著作の中で、ベトナムのチョンビロン(trứng vịt lộn)またはホビロン(hột vịt lộn)と、同じものがフランスの田舎にもあるから、フランスからベトナムに伝わったのではないかといい加減なことを書いていて、非常にびっくりしたことがあります。

まず、有名なフィリピンのバロット(balut)を知らないのに驚いたし、中国の奥地でいろいろ食べ歩いているのにマオダン(毛蛋)を知らないのも驚き。仮にベトナムの近隣諸国の同じ食文化をまったく調べようともせず、百歩譲ってフランスとベトナムの2国だけで論じるとしてもベトナムからフランスに伝わった可能性は考えようともしない。

先日、私自身も、中華街のおいしいお店の情報交換をするコミュで、場違いな占いについて質問した人に「微妙にトピ違いでは」とレスをつけたら、「あなた感じ悪い、理屈っぽいけど中国人ですか」という直メをもらいました。

実際、小島武夫教授や、直メを付けた人の方が、多数派の日本人で、私やおかあつさんなどは非日本人的な日本人だと自覚はしているんですが、近年そういった兆候がますます酷くなっているような気がします。

退会したユーザー   2008年10月28日 20:04
僕はこちらの大学に8年ぐらい在籍していますが、
タイ人を馬鹿にしているのは、日本人だけでなく、
その大学に来ている外国人はほぼ全てタイ人を馬鹿にしていた印象があります。

僕的に気になるのは、
それだけ日本人、外国人を問わず、馬鹿にしているのに、
なぜ、それでもタイに住む外国人が多いのか?ということですね。

よくあるパターンとして、
パターン①
とりあえず、おねえちゃんと知り合って、盛り上がったからタイに移住。
でも、2,3年住んでいるうちにタイの実情がわかってきて、嫌になって日本に帰る。

パターン②
パターン①と同じような理由でタイに来たが、
なかなかタイから出ることも出来ずに、ずるずると10年以上も暮らしている。

パターン②に当てはまる人は、
タイ人のことを馬鹿もするが、タイ人のいいところも十分に知っており、
また、タイ人の中でもかなり優秀な人間をしっており(勿論自分よりも)、
それを踏まえて馬鹿だっていってる人が多いですね。

後、外国に出たことがあるタイ人は、普通にタイ人のことを馬鹿にしますね。
一緒にしないでよ!みたいな。。。(自分もタイ人の癖に。。。)

何が言いたかって。。。
タイ人を評価する場合に、
その入り口を馬鹿だとか、頭良いとかいってるからそうなるだけで、
文化、歴史の違いを入り口にすれば、そうならないような気が。。。。


退会したユーザー   2008年10月28日 23:16
ある理論体系のもとでは、「平行線が交わる」そうです。

「交わらない」から「平行」というのでは?という疑問が拭えませんでしたが、我々が一見しておかしさを感じるその考えも、何かのまじめな必要に応じて生みだされたのかも知れません。存在価値の分からないモノに出会ったときはよく、「あぁこれも人の精神活動の産物だろうか」と考えてしまいます。学者の心が理論体系を生み出したかの様。

でも、利潤追求の考え方が主流の現在では、数字に裏付けられた理論体系の生命力が強いはず。文化に根ざした理論体系は淘汰されてしまうのでしょうか。いやそれはいけない。というよりも、上の本文で仰っているとおり、切り分けて考えるべきだと思われます。

「理論と心の取り違い」の場面に居合わすと、例えば、人間が首筋に微量つけるべき香水を、洋服に吹っ掛けたかのような違和感を感じてしまいます。香水は減るうえ、服は傷み異臭がする。一方、心の問題に「理論」を突きつける失敗は、(ぼくはこの過ちをよく犯しますが…)個人レベルのものであれば、相手を知るうちに減少していくことを経験により知りました。
tear   2008年10月29日 01:40
今、私はこの例題のような問題を日々解いているのですが、理論の罠にはまります。分類、分析、本質を見誤ってはならないのです。
おかあつ   2008年10月29日 12:41
tearさん、
>今、私はこの例題のような問題を日々解いているのですが、理論の罠にはまります。

当たり前な様で意外、意外なようで結構当たり前な感じですよね。

デジタルプリンさん、
>ある理論体系のもとでは、「平行線が交わる」そうです。

あぁ!これって意外なようで当たり前なことなんですよ!
だって、地球上で南北に平行線を書いたら必ず南極と北極で交わるじゃないですか。

答えを聞いちゃえば、な~んだって感じですが、こんなかんじで難しそうにみえることって意外と当たり前なことだったりするように思います。

そういえば、つっきーというある友達と話した時、こういうことを聞きました。 ある直線は無限遠方でつながってて実は循環しているので実は円なんだそうです。 で、その無限遠方で交わってる点が、直角に曲がってるかまっすぐつながっているかで随分と性質が違うんだとか... こっちは僕には何で当たり前なのかさっぱりわかりません。

おかあつ   2008年10月29日 12:45
>でも、利潤追求の考え方が主流の現在では、数字に裏付けられた理論体系の生命力が強いはず。文化に根ざした理論体系は淘汰されてしまうのでしょうか。

そんなことないと思います。 タイには論理的じゃないタイ人をバカにしている人がたくさん居ますが、そんなバカなタイ人にコロッと騙されていいように使われている『論理的な人』がたくさん居ます。 論理を使っているのはもともとぜんぜん論理的じゃない人間なわけで、そんな人間にとって論理のほうが強いかっていうと、意外とそうじゃないんじゃないかって僕は感じます。

おかあつ   2008年10月29日 13:09
スプーティーさん、

>タイ人のことを馬鹿もするが、タイ人のいいところも十分に知っており、
>また、タイ人の中でもかなり優秀な人間をしっており(勿論自分よりも)、
>それを踏まえて馬鹿だっていってる人が多いですね。

これは、ちょっと異論があるかも。 僕はタイ人は一切バカじゃないと思うんです。 わからないものをみたときに、バカって思ってしまうのは簡単だと思うのです。 何かがバカに見える瞬間こそが自分自身が何かを理解できていない証拠だと僕は思います。

タイのよさがよくわかっているけどバカだと言っている、というのはわかっているようで実はよくわかっていないんだと僕は思います。 オレはタイをよく知っているがタイ人はバカだアホだと言っている人に限って、タイ語の敬語がボロボロだったりします。 その口の利き方じゃタイ人に相手にされんよ、って叫びたい。 子一時間問い詰めたい。

それとか、タイ人はいい加減だっていう人に限って、すごくタイ人をいい加減に扱っている。 そんな扱いしたら当然いい加減な対応しかされないよ、って見ていて思う。

>後、外国に出たことがあるタイ人は、普通にタイ人のことを馬鹿にしますね。
>一緒にしないでよ!みたいな。。。(自分もタイ人の癖に。。。)

僕はタイ人をバカだという日本人も嫌いだけど、タイ人をバカだというタイ人はもっと嫌いです。 こういう人ってタイ人のよさも理論的なよさも持ってないと僕は思います。

僕はイサーンにずっといたので、下手するとタイ人以上にタイのことを知っているときがあります。 僕がイサーンで見聞きしたことの多くは、バンコクのタイ人は知りません。 もちろん多くのバンコク人はイサーン語をしゃべれません。 で、多くのバンコク人は、多くのバンコク住民が実は普段イサーン語を話しているということすらも、知らない人が多いです。

僕が嫌なのは中途半端に論理化した人が逆にすごく都合よく騙され易くなることです。
このひとたちは騙され易いうえ、和の心を忘れているので、平気で人を踏みにじります。
おかあつ   2008年10月29日 13:22
相手をバカだと思った瞬間から負けなんだと僕は思うのです。 相手をバカだと思うことって言ってみれば、自分から相手に主導権を渡しているようなものだと僕は思うのです。 自分から相手に主導権を渡すのはバカです。 でも無数の外国人が自分から主導権を渡しているように僕は感じます。


多くの外国人はタイ人のことをバカだと思っていますが、多くのタイ人は実は外国人をバカだと思っている、というのは僕が見聞きしたなかでは事実だと思います。 で、じゃぁタイ人はどうやって考えているからタイ人の目に外国人がバカに見えるのか、って言うことが問題なんじゃないかって僕は思います。

そういう風な視点に立ってみると、物凄く意外な、それでいて実はすごく当たり前な世界がそこにはあるように僕は感じるんです。

おかあつ   2008年10月29日 13:42
普通、頭がいいってどういうことを指すかといえば、一般的には論理的なことに強いことを言うと思うのです。 コンピューターを使うのが上手いとか、難解な本を読むとか、そういうことな気がします。 論理的に考えるってなかなか一両十中には出来ません。 なかなか出来ないから難しいって思うんだと思うのです。 難しいことが出来るから、彼は優れた人間だということになります。 だから一生かけて難しいことが出来るように努力するのではないかと思います。

だけど、タイには全然違う価値観があります。 タイでは論理的なことが出来るかどうかはほとんど重視していないように思います。 自然環境が恵まれているので、ほとんど必要にならないからじゃないかって思います。

僕はイサーンにいるときよく思ったんですが、恵まれた自然・恵まれた気候の中にいるって、それ自体が不思議な哲学的な経験です。 インターネットはおろか、電話もなければ電気すらもない、家も無い、というような場所で、突き抜けるような真っ青な青空の下、毎日毎日、何も不自由なく、何も不安も無い世界にいると、不思議な気持ちになってくるものの様です。 まず自分がいかにコマーシャルに毒されていたかを思います。 上手くいえないのですが、人が、いかに文明の中で不自然な状態に押し込められていたのかを感じます。

そういうなかにいると、何故かわからないのですが、人が生まれて死んでいく儚さが、すごく身近に感じられるように思うのです。 これは理屈じゃなくて、理屈を超えた経験だと思うんです。

そんな場所では、そういう儚さを身近に感じ、いかに人に優しく接することができるのかが、もっとも大切なことになるんだと思います。 実際僕はそういう風に感じました。

これはきっと僕個人の意見ではなくて、そういう状況に入れば誰もがそう思うのではないか、と思います。 (ただ文明に慣れきった我々にとって、そういう文明の世界から脱出するためにはかなりの我慢と訓練が必要で、そういう我慢が出来ない人はすぐラクチンな文明の世界に戻ってしまうので、あまり気がつく人がいないんだと思います。)


おかあつ   2008年10月29日 13:48
タイ人(多くの場合、実はタイ人じゃなくてイサーン人なわけですが) こういう世界からバンコクに来て、日本人と会うわけです。 ここには信じがたい文脈のギャップがあります。

で、僕はそういう世界からまたバンコクに戻ってきて「論理もひとつの偏見だったのか」って思ったんです。 そういう、僕にはタイ人はバカには見えません。

確かに僕もイサーンで仕事をして、確かに論理力が劣るイサーン人をバカだマヌケだと罵っていたし、今でもそう思ってますが、それは論理の価値観から見ればそうみえるわけで、僕がイサーンで見た、もう1つの価値観で見れば、それは実は普通だったりするように思います。

その世界では、ある問題に対して、全く違う切り口で捕えていて、全く違った対処方法をとることで解決したりします。 だから、僕はタイ人がどうやって外国人を扱っているのかが見えるんです。



それをどうやって日本語で説明するのか、が僕の今のテーマです。

雨が降ってきました。 コンピューターがぬれるので、一旦ここで休憩します。
 
出展 2008年10月28日14:06 『心と論理』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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