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2008年9月11日木曜日

何故人付き合いは疲れるか (mixi05-u459989-200809110039)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
何故人付き合いは疲れるか
2008年09月11日00:39
この間サイアムをブラブラしていて、ハッと閃いた。

何で日本人と付き合うのは疲れるんだろう。 それは自分を説明してはいけないからだ。



日本人と付き合うのは疲れる。 これは日本人すらも認める事実だと思う。 日本に来た留学生は口を合わせたように日本人の友達が居ないという。 英米人は日本に来ても母国語が通じるから楽だろう、なんてとんでもない。 通じているようで実は全然通じていないというあいまいさの中で孤独感を募らせていく。 このように、世界中の人が日本に来て日本人は付き合いづらいと口をそろえて言う。 それはそうだろう。 日本人すら付き合いづらいと思っているのだから。

タイに来てそろそろ二週間たった。 日本人に会うと言葉が通じ易くて楽だと思う反面、やっぱり疲れるなぁと思う。

いや、でも、疲れないと思う日本人とも出会うことがある。 こういう人とあうと、いつも決まったように、日本人として生きることがいかに難しいか、グチ合戦になる。 出てくる言葉は、全員、ほとんど変わらない。 息苦しい、疲れる、希望が無い、めんどくさい、楽しくない....。

ふと思ったのだけど、こういう話の合う人って、実は案外、性格とか嗜好性とかはあまり共通していなかったりする。 にも関わらず、話が合うと感じる。 それは、何故なのだろうか。

実は、こういう話が合う人には大きな共通点がある様に思う。

それは、自分のことを説明する習慣を持っていることだ。 自分はどこ出身で、何が好きで、何が嫌いであり、どういう経歴でどういう失敗をしてどういう成功をした、ということをきちんと説明する。 これはお互いを知る上でこの上もなく大切なことであるにもかかわらず、普通の日本人はこれを絶対にやらない。

タイ人はこれをやる。 初対面の人でもきちんとどこから来たか何がすきかどういう経歴でここに来たかきちんと話す。 もちろんアメリカ人もやる。 イギリス人...はやらないこともある様な気がするが、それでも日本人よりはやるように思う。 ドイツ人も意外ときちんとやる... スペイン人はやる、イタリア人もやる...。 スイス人もやる... 要するに日本人だけまったくやらないのだ。

何でだろうか。

それは、日本人には、その人の特徴的な点をあげて、集団で攻撃する場合があるからではないかと思う。 特徴的な点を取り上げて、例えば仕事上で不利な立場に追い込まれたり、平等な扱いをしてくれなかったりする。 つまり、日本で生活する上で、自分の素性を明かす行為にはリスクを伴うのだ。

人によっては、この日本の人間関係の特徴を逆手に取ることもある。 例えば、自分の素性を明かすことなく相手の素性を聞き出すことで人間関係のアドバンテージを取れる。 相手が自分の素性を知らない状態で相手が不利になる素性を知っていれば、その人間関係の中で自分を有利に立たせることができる。 だから、自分の素性を知らせず、相手に親切な言葉をかけて油断させ、相手の素性を聞き出そうとする。

つまり、日本の人間関係の中では、心を開いたら負けなのだ。

しかも、この特徴的な点というのは実は場合によっては何でもよく、酷い場合「キモイから」「ウザイから」等々と、実に些細な点を取り上げて攻撃される場合すらある。つまり、極めて高度な「無難さ」を維持する必要がある。

日本の人間関係とは、なんとしんどいものなのか、と思う。

これでは、まるで何も見えない暗闇のなかに居るようだ。 そんな中、誰もが誰もを信じられなくなって、「三すくみ」のように動けなくなっているのが日本人では無いかと思う。 ある人は日本の人間関係を「被害妄想的だ」といっていたが、それは言いえて妙ではないだろうか。



人によっては、先に自分から不均衡を作りだすことで自分が攻撃されるのを防ぐという手段を取る場合がある。 つまり誰かの特徴的な点をみんなに言いふらすことで、先にみんなが特定の誰かを攻撃するきっかけを作るのだ。 そうすることで、その人間関係内の攻撃の矛先をそらし、自分の特徴的な点を隠すことができる。

これこそイジメではないか。



この極めてストライクゾーンの狭い日本人の人間関係は、間違いなく病的だ。

これらの問題は全て「みな同じでなければいけない」という暗黙の了解があるからこそ、起こる問題である様な気がする。 ここでひとつ疑問が起こるのだが、この「みな同じでなければいけない」という不文律はどこから来たのだろうか。

村社会だから...というのは当てはまらない様な気がする。 タイなんて日本なんか比較にならないほどもっとすごい村社会だけど、こんな陰湿なことには絶対ならない。 なんなんだろうか。

これはまた改めて考えてみようと思う。

コメント一覧
おかあつ   2008年09月11日 02:21
誰も反応しない。

もっと違った書き方をしないとダメ、ということなんだろう。
クレ   2008年09月11日 02:41
ええ!
単に真夜中だからでは・・・

日本の人間関係しか知らないですが、ほんと疲れます。
いや、疲れる人がいます。でもお互い様なのかも。
私が疲れる人はまた、私に疲れるのでしょうから、無理強いはしません。来るものも拒みませんが。
傷つきやすい人が増えているようにも思えます。傷つきたくないから踏み込まないし、距離を持つ。自分に自信が持てない人は、人の言葉に簡単に傷つきます。傷つけないように言葉を選ぶことに疲れて、本心を言えなくなることも。傷つきやすい人は、案外、人もまた傷つくのだと言うことに気がついていないことも多くて、気に入らないものはどんな策を弄しても排除しようともします。気の合う仲間の中だけで生きようとする気持ちもわかりますが。
おかあつ   2008年09月11日 03:00
>傷つきやすい人が増えているようにも思えます。

あー...

それもありますよね。 でも、それは二通りあるかもしれません。

ひとつは精神的に無菌状態で育った人がおおく、自分が持っている問題に対して脆弱な人が増えたんだということです。

しかし、もうひとつには格差が広がってるのに、その文脈のギャップを埋める言葉が日本語にない、ということもあるような気がします。

僕は中卒なので立場的にはかなり苦しいほうですが、面と向かって「仕事もしないで何してんだ」とか言う人も中にはいます。 しかし、僕の力ではどうにもならない問題なので、僕は傷つきます。 それで、この人たちは「傷つき易い人が増えた」とかいってるわけで、こういう人に立場の違いをきちんと説明するのもいいんですが、説明してもわからないことも多いですし、僕的には殴ったほうがてっとりばやくてすっきりします。

貧困と格差って似たようなものに思えますが、全然違うものです。

貧困っていうのは、みんな原チャリでレースをしているようなものです。 遅いですが、頑張り次第で勝つことができます。

格差っていうのは、F1カーのレースに原チャリで出場するようなものです。 こちらはどうあがいても勝てません。

団塊世代の人は貧困しか知らないので頑張れば絶対に勝てると思っている人が多いんです。 だから格差の中必死に頑張っている人に対しても「努力が足りない」と一蹴しがちで、これが問題を更に大きくしていると僕は見ています。
まはヴぃーら   2008年09月11日 03:04
話せば分かる、というのが間違いでしょう。
おかあつ   2008年09月11日 03:14
究極的にはそうです。 ですが、そのことを言っているのじゃないのです。

違う立場の人同士が、パッと自己紹介して、ある程度仲良く共同作業する、っていうことが出来ないんです。

日本人は、日本人同士であっても言葉が通じない人の確立が、他の国の人と比べると凄く高いです。 それは 「究極の理解」なんて高いレベルではないのです。 知らない人とパッとあってパッと仲良くなってパッと別れる、っていうシンプルなコミュニケーションが出来ないのです。

同種の人同士でしか交わったことがないので、相手の立場に立って考える、っていう作業が極端に苦手なんだと思います。

おかあつ   2008年09月11日 03:18
タイ人ってこの点凄くスキルが高いように思います。 相手が何人だろうが、相手がタイ語がわからなかろうが、自分が英語が話せなかろうが、相手が自分を見下して居ようが居まいが、誰とでもスッとコミュニケーションが取れます。

時には、それが、かなり高度な心情の理解に至ることも多いように思います。 それがタイ人のすごいところなんだと思います。
クレ   2008年09月11日 03:34
>話せば分かる、というのが間違いでしょう。

そうですね。

>ひとつは精神的に無菌状態で育った人がおおく

私の世代と比べて、どんどん子供の世界が難しくなっています。かわいそうに思えるぐらい。親からひどい育てられ方をしている子供も多そうです。身勝手な友達に始終振り回されて忍耐の連続の人も。

大学に入れば、大学のレベルで差別され、東大に入れば学部で差別されます。どこまで行っても人は差別化することで自分を保とうとします。住んでる地名で差別する人もいます。スーツを着ていないから差別する人も。大会社でないからだめとか。

おかあつさんは十分すぎる頭脳を持って生まれてきたのになぜ?と思います。

ただ日本の企業社会に向いた性格にも見えないので、もし大学を出ていたとしても、企業するか自営する道に進んだのではと思えます。

人は所詮自分の世界しか知らないのですから、理解してもらうことは期待薄です。経験のないことを想像するのは難しいものです。

おかあつ   2008年09月11日 04:56
>おかあつさんは十分すぎる頭脳を持って生まれてきたのになぜ?と思います。

僕は小賢しく頭が回るので、上司に煙たがられ易いのです。

「ボス、このままだと○○○ということになりますよ!」 「君、いちいちうるさいよ。 ま、今までのオレの経験上、大丈夫だから黙ってみてろ。」

(半年後、僕の予想が見事的中、大損害)

「ボス、言ったじゃないですか」 「うるさい!」

==

>経験のないことを想像するのは難しいものです。

これは絶対そうなのです。 どうあがいても絶対難しいです。 だけど、外国文化を理解するのは、正に経験の無いことを想像する作業に他ならないと思うのです。 だって、こっちはどうやったって日本人な訳で、絶対に相手と同じ経験は出来ないわけです。

でも日本人でも外国文化に慣れ親しんで馴染んでいる人は居ないわけではありません。 じゃ、どうやって経験によらずに想像するのか。 それは、やっぱり自分の色々な経験を元にしつつ、アレンジして心情を察したり考えて足りないところを補完したりするしかないんだと思います。 それは難しいことですが、可能なことです。 僕はこの「感情移入能力」ってすごく大切だと思っています。 もちろん、ホームステイとかをすることである程度の経験を補充することもできますが、最終的には、「感情移入能力」なんだと思います。

で、感情移入能力って最終的にはその人自身の人生経験の深さによるんじゃないか、ってたまに思います。 この能力が高い人って年齢に関わらず経験が豊かな気がします。 僕が見た最初のすごい人は15歳でした。 みたとき、何でこの人はバリバリの日本人なのに、黒人とこんな違和感なく話が出来るのか、って思いました。 それは英語が上手とかじゃなくて、やっぱり感情移入能力なんだと思います。

ところで、その人は黒人街を歩く時、黒人ファッションなんか絶対しないです。 聞いたら、ボロボロの緑のジャージが一番いいって言ってました。

黒人ファッションをしている日本人がいかに浮いているか...って思います。
ナム   2008年09月11日 05:44
たいへんおもしろい考察で、興味深く拝読しました。

たしかに、日本人は自分の情報を相手に伝えないし、伝えたがらない。
人が伝えたくないのを分かっているから、相手の個人的なことを
あまり聞くのは失礼であるという文化がありますね。

時間をかけてゆっくり知り合いになることが多いですね。

タイ人はけっこう相手の情報を引き出そうといろいろな質問をしてきて、日本人の感覚だと不躾ですが、それがゆるされている文化ですね。


>つまり、日本の人間関係の中では、心を開いたら負けなのだ。

うー、ショッキングな言葉です。

自分の情報は隠し、自分を有利な立場にするために相手の情報を引き出そうとする人間とは出会って来ましたが、そういう人間には心を開いたらやられますね。
そういう人間は文化の問題でなく、人間性の問題だと思います。

おかあつ   2008年09月11日 06:08
>たしかに、日本人は自分の情報を相手に伝えないし、伝えたがらない。
>人が伝えたくないのを分かっているから、相手の個人的なことを
>あまり聞くのは失礼であるという文化がありますね。

あ、確かにそうです... それは書いたときに気がつきませんでした。
そうです。 尋ね過ぎるのは確かに失礼です。



僕はこれまで無数の日本人から「他人の考えは究極的には理解できない」という言葉を聞きました。 僕はそんなことはないと思うのです。 日本人がムリだと思っている場所に、日本人以外の人はやすやすと入っているじゃないか、と僕は思うのです。

ドイツに言った時、ドイツ語の学校に通っている生徒のあいだで「実は親が離婚して義母が居るんだけどそりが合わなくてうんざりする」とか「父親は会社経営して金持ちだけど浮気が元で母親が離婚して...」とかそういう日本では「極めて個人的」とされることを、普通に話題にしているのを何度も見ました。 アメリカに居たときも、似たような話をよくしていました。

自分が今何故不機嫌なのか、それをきちんと相手に伝えるというコミュニケーションが、あるんだと思うのです。

それは、ヨーロッパに限らず、タイでもわりとある様な気がします。 そういえば中国人とそういう話をしたことも韓国人ともありました。 物事について話し合って考え方を教えあうのです。

要するに、この作業を、しないのは日本人だけなんだと思います。

もちろん、究極的にはその人がどう考えてどう感じているかなんて、絶対わかりません。 わかるわけもありません。 だけど、ある程度想像は出来ます。

自分が抱えている問題を周囲の人に話すことで、隠す必要が無いので随分と気が楽になります。 日本人みたいに頑張って作り笑いをしなくても、ムッとして不機嫌な顔をしていればいいのです。 周りは「あぁ、今ヤツは家のことで大変だから機嫌が悪いんだな、そっとしておいてあげよう」 と思ってくれます。 (もっとも、あんまりしょっちゅう機嫌が悪いと、影で「あいつ自分のコントロールが出来てないよな」とか言われるかもしれませんが... すくなくとも、気持ちを優先しても社会的懲罰の対象にはならないです。)

だから、「話せばわかるというのはそもそも間違い」 というのは僕は賛成できません。


>そういう人間は文化の問題でなく、人間性の問題だと思います。

同様にこれも賛成できないのです。 何でかというと、例えばアメリカだと、自分の欠点を明らかにしてもそれを執拗に攻撃しない、という不文律があるような気がするからです。 確か飛行機の事故調査なんかでも、自分の非を明らかにしてもそれをネタに法律的な責任を追及してはならない、という法律があったりすると思います。



この点、タイは自分の欠点を明らかにする事はあまりないです。 謝る事も稀です。 こちらは不用意に欠点を明らかにすると、攻撃されることがあるからです。

ですが、自分の身の上は割りとよく話す様な気がします。

日本人は自分の欠点を明らかにする事は100%無い様な気がします。 問責されるからです。 同様に、身の上を話すこともありません。 身の上の特徴をネタに地位や権利を剥奪される可能性が高いからです。

日本って日本人同士で首を絞めあっているんじゃないかと思います。

ねこ☆ミ。   2008年09月11日 08:13
にゃるほど。夜中に普通は、コメントできないぞ(^_^;)。いまも、主婦がつめた有料ゴミ袋のゴミのようにぱんぱんに人が詰め込まれたラッシュ時の満員電車で、携帯から見てるので、コメントできない(^_^;)。
ナム   2008年09月11日 09:35
日本は腹を探り合う文化ですね。
これができないと日本では生きていけない。
自分の意見や考えをストレートに人に伝えるのは露骨すぎて
場の雰囲気を壊すと考えられる。
また、相手の意見や考えをストレートに尋ねるのは失礼だし、
訊いても相手は本当のことは絶対に答えないのが常識とされている。
答えるのは空気が読めない馬鹿と考えられている。
お互いの本心がどこにあるかを思い測りながら、さまざまに探りを入れつつ少しずつ話を進める。
本心は腹にあり、腹と腹で話しを進める。腹は言語化されない。
だから、日本人どうしの会議などは外国人が見たら何をやっているのか
さっぱり分からないでしょう。
また時間もかかる。
日本人だって会議が終わるまでは何がおきているのかよくわからない。
たしかに疲れます。

ジャコビ   2008年09月11日 10:20
これは私の考え過ぎかもしれないけれど、日本人って、大抵の人が付き合いの中に下心みたいなのをもっている気がするんですよね。友達同士程度の付き合いでも、ただその人が好きだからとか、面白そうな人なのでもっと知りたいからという理由で親しくなりたいと思う人って稀なんじゃないですか?だから、自分の役に立たないような人達とは、あまりつき合わないという場合が多いと思います。

私が知る範囲では、既婚女性は夫の収入のレベルでつき合う人達が変わって来るとかね。皆、自分の夫よりも収入が多いか同程度の人達とつき合いたいけれど、少ない人達とはつき合いたくないんですよね。バカバカしいけれど、これって、日本人の奥さん達の一般常識みたいです。

日本人同士の交際は、きわめて意識的だと思います。細心の注意を払って、自分の投影するイメージを相手にも持ってもらい、グループの中で人気を保ち続ける… そんな中で、自分の生い立ちや込み入った家庭環境なんて、口が裂けても言わないですよ。足元も見られるし、見下されるし、馬鹿な奴だと思われてしまいます。
あび   2008年09月11日 13:12
指摘されているような日本人的人間関係って大昔からあったものなのかなぁ?一連のコメントを読んでいて思ったのは、かつて「一億総中流」などという、貧困や格差が日本社会に存在しないかのように錯覚させる政治的スローガンをぶち上げた事に何か原因があるんじゃないかな?とか考えたりしました。元来、「恥」という文化を持つ私たち日本人が、この政治的スローガンによって「そうか!日本人たるもの中流でなければならない。」と感じるようになり、中流のフリを建前的に演じるために、家庭内や個人的な問題を隠蔽するようになり、世間体や体裁を取り繕う傾向が強化されたのではないかとか。そんな事を考えました。
ジャコビ   2008年09月11日 21:34
ある程度、大昔からあったと思います。結局は言葉でのコミュニケーションをとらずに相手の心理を読もうとする態度から来るものだから。源氏物語を読むと、日本人の本質って変わってないんだと思います。
まはヴぃーら   2008年09月11日 23:03
これ、参考になるかどうか分からないんですが、昔イギリスに旅行に
行った時、家出少女と仲良くなったんです。どう見ても18歳くらい
なのに23歳と言い張ってましたが、そこはあえて問いませんでした。

それで私が日本に帰る前日に、そのことを彼女に告げると、
「うーん、そうか」と悲しそうな顔をしてから私の両頬にキスをして、
それから「私にも同じようにしなさい」とばかりに私に自分の頬を突き
出してきました。
西洋人がそうするのは普通なのは知ってたけど、キスし返す時かなり
ドキドキしました。

で、日本に帰ってから「どうして西洋人はああいう行動に出るのか」と
考えてみたんですが、要するに「忘れちゃ駄目よ」と自分を印象付けた
かったんじゃないかと。エヴァでミサトが死ぬ前にシンジにキスする
シーンがあったけど、あれはかなり欧米風なシーンですね。

男同士の握手もたまに力比べになる時があるんですが、そこから自己紹介
が始まってるんですよね。というか、握手する時の力が弱いと、
「俺に関心が無いのか?」と思う人もいるらしい。

日本には「自分を相手に印象付ける」という行為が少ないように思います。
おかあつ   2008年09月12日 02:00
こうやってコメントを頂くなかで、いくつかの要素に分けられるような気がしてきました。
その作業はちょっとあとでやってみたいと思います。



今日歩いていて、日本人のコミュニケーション下手って WIKI にも結構あらわれているような気がしたんです。 僕は日本語のWIKIを読むことはあまり無いです。 書くことも無いです。 間違っていることがどんどん一人歩きしている場合がものすごく多くて、読んでいると気持ち悪くなることが多いからです。

で、我慢できなくなってどうしても気になって書き加えてしまうと、非常に不毛な論争に巻き込まれて疲れます。 もう明らかに論理的に間違ったことに固執して意見を変えられなくなる人ってものすごく多いです。

本来、固執する必要はないはずです。 討論って個人攻撃しているわけではないからです。 論理的に見て間違っていたら「間違ってました」でいい筈なのです。 ですが、これをやると「ほらみろ」とばかりに個人攻撃を始める人が非常に多いので間違いを正せないのです。

日本人の特徴は、「話せばわかると思うのがそもそも間違い」 っていう言葉にかなり集約されているように思います。 日本語のWIKIをやっていると、本当に会話が成立しづらく、そうとでも言いたくなる時があります。

でも、英語版のWIKIをみると、日本人が「話せばわかると思うのがそもそもの間違い」といっている領域にあっさり踏み込んでいます。

WIKIを見ていて面白いなとよく思うんですが、日本人でも凄く高度な討論を繰り広げている場合も多いです。 例えばオタクをやっている人は、日本人の会話が苦手っていう特徴をあまり持っていないことが多いと思うのです。 こういうところには、きちんと相手を誹謗中傷することなく論理だけに基いて話が出来る人って結構居ます。

でも音楽系の記事などはダメダメです。 この世界に会話の成り立つ人は少ないと思います。 コンピューター系の人は、また別な意味でレベルが低いようです。 コミュニケーション下手な人が多いことに加え、スキルのレベルが低い人が多すぎるんだと思います。

ひとつ思うのは日本人が得意なジャンルって個人技が多いんじゃないかっていうことです。 例えばマンガって基本的に1人でかけるじゃないですか...。 これはコミュニケーションの必要性が高いと、この日本人のコミュニケーション下手の制約に引っかかっちゃうんじゃないかと思います。 例えばジャズって1人では演奏できないものですが、日本人のジャズ演奏がすごく面白くないのは、そういうところからきているんじゃないかとよく思います。

あとは、アマとプロの間を非常に厳格に住み分けるケースも多いように思います。 アニメがそうじゃないでしょうか。 状況をわかってない上に言葉が通じない人にドシドシ踏みにじられることを防ぐためじゃないかと思います。

清水ガレージ   2008年11月07日 04:09
初コメントです。この話、とても興味深いですよね。僕は日本がつい最近まで封建社会だったということも原因の一つとして考えられるのではないかなぁと思いました。そしてその社会主義的な封建社会から急激に、資本主義化していったことが一つの要因かと。例えば欧米は絶対王政への不満から、市民が自分たちの手で権利を勝ち取り、財産権を確保し資本主義へと徐々に移行していきました。しかし日本は江戸時代まではザ・封建社会で「お上は絶対」でした。明治、大正、昭和初期でも「臣民の権利」として天皇が認める範囲内で権利が保障されていたに過ぎず、基本的人権としては確立していません。しかし、戦争に負け、資本主義を構造的に上から押し付けられ、急激に社会構造を変容させ、慣れない「権利」というものと付き合っていく事になりました。戦後日本は、西欧の巨大資本から自国産業を保護するために、公官庁の庇護の下発展して行かねばなりませんでした。これは銀行の護船団方式に見られるように、1990年初頭まで続いていました。日本は「世界で唯一成功した社会主義国家」と揶揄されるように、資本主義を目指すゆえに、構造的に社会主義チックな社会を形成して突き進みました。資本主義なのに、社会主義。厳密には矛盾しませんが、、、考え方は江戸時代(お上は絶対)とそんなに変わらないのに、価値の基準は唯一「カネ」だけになっていく。。。この辺りに一つの歪みの原因があるように思います。さらに、効率的な経済発展をするために、拠点として経済活動だけを目的とした大都市が形成され、そこに集まる人々の関係はカネを基準とするようになり、心の交流は希薄になりました。これが2つ目の理由です。当時の大量生産大量消費の時代は、個性的な人より、均一で従順な労働力を求めていましたから、学校教育も画一的なものになります。つまり、今までの日本は個性を必要としない、逆に個性は悪と考えるくらいの感じだったような気がします。最近は経済も円熟期を迎えて、日本全体でビジネスモデルや教育モデルの刷新が求められてはいますが…西欧の方は基本的人権として「ありのままで生きる権利」を最大限に使い、自分の個性や能力を最大限に生かそうとするからこそ、自分をアピールし、ハッキリと正当性を主張するような気がします。長文かつまとまりに欠ける文章ですが、頑張って考えたので、見て頂けると幸いです。
 
出展 2008年09月11日00:39 『何故人付き合いは疲れるか』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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