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2008年5月28日水曜日

【長文】他人とは永遠に理解できない物である国 (mixi05-u459989-200805281439)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
【長文】他人とは永遠に理解できない物である国
2008年05月28日14:39
最近よく思う。 日本人って日本人同士なのに、外人と話しているみたいに、理解しあえなくなってしまうんじゃないか。

普通、自分の国同士の人であれば、当然、相手のこともよくわかるし、相手も自分が言うことがよくわかる。 しかし、相手が外人だと、相手の文化風習・考え方がわからなくて、何を考えているのか察しが付かなかったり、相手にも自分が感じていることが伝わらない。 だからすごくストレスがたまる。

日本は島国で、あまり外人と話す機会は無いけど、普通の国は島国じゃないので、外人というのはわりとありふれた存在だ。 だから、そういうわからない・わかってもらえないストレスに遭遇することは多い。

だからこそ、そういう国に居る人たちは、そういう異文化交流ストレスにどうやって対処すべきなのかも割りとよくわかっている。 対処方法は案外簡単だ。 自分の感じていることを逐一説明し、相手の言うことによく耳を傾ける。 たった、それだけのことなのだけど、あまりストレスを感じなくなる。

またそういう国にいる人たちは、それ以上に、お互いに、相手がわからないことも、相手にわかってもらえないことも経験したことがある。 だからこそ、わかってもらえない人の気持ちもわかるし、わからなくてつらい人の気持ちもわかる。



日本人って本当に異文化交流が苦手だ。 でもこれはある意味仕方がない。 普段文化的に異なる人たちと触れ合う機会が少なすぎるので、経験が圧倒的に不足しているからだ。

僕はタイにしばらく住んでいて、タイ語が話せるようになった。 そういう立場から、タイにいる外国人を見ていると、いつもいつも、日本人だけ、凄まじい感覚のずれ方をしているのが、いつも気になる。 浮きまくり、ズレまくりなのに、その人たちは「タイに染まったなぁ」とか「いやぁタイ化しちゃって大変よ!」 「タイ人と見分けがつかない」とか、決まったように同じ言葉を発する。 この感覚のズレって凄まじい。

タイ人はそんなこと微塵も思ってない。 ひとめで日本人と見抜いている。 タイ語上手いなんて微塵も思ってないくせに「あらータイ語じょうずねー」なんて おべんちゃらも使う。 タイ人って タイ語で「パクワーンコンプリアオ(口は甘く尻は酸っぱい)」っていうけど、京都の人みたいに優しい口調で、言っていることはキツイ。 口が悪い。 だけど、日本人は、そういう二面性をまったく見抜けないばかりでなく、そういう世界があるということすら想像できなくて 「いやぁタイ人と見分けが付かない」と豪語してはばからない。 このアホさ加減は、凄まじいものがある。

本当は、そこに、きちんとしたコミュニケーションがあるべきだ。 というか陸続きの国ではみんな多少なりともそういう作業を行う。 言葉も違う、文化も考え方も違う、ノリもセンスも違う、という中で話し合って、相手に興味を持って説明を求め、相手に自分の文化を説明していく。 そういう作業の中で、自分がいかに浮いているのか、相手がどうやって引いているのかを感じ取っていくことができる。 そういう感覚の中で、自分の行動をちょっとずつ修正して、馴染んでいくことができる。

日本人は、こういう行動が苦手だ。 慣れが無い。 決定的に経験が足りない。

でも、僕はそれ以上に、何か根本的な欠点を感じる。



ある日本人の友達が「他人とは永遠に理解できない存在だ」って言っていたことがあった。 これは別に初耳でもないし、日本に居ればよく聞く言葉だ。 誰かが悲しんでいる。 何故悲しんでいるのかは、本人しかわからない。 誰かが怒っている。 何故怒っているのかは本人しかわからない。 それをわかったと思うのは思い上がりだ。 「あなたにわたしの気持ちがわかってたまるか!」なんていい方もある。

本当にそうだろうか。 違う。 そんなことはない。 僕は、単純に、客観的な事実として「他人とは永遠に理解できない存在」という言葉が真実でないことを知っている。 だって、もし、他人が永遠に理解できない存在であれば、異文化交流という物が、そもそも成り立たないはずだ。 しかし、世の中に異文化交流に長けている人は、たくさん居る。

国によっては、ひとつの国内に3~4つの公用語がある国もある。 こういう国では、日常生活にすら異文化交流スキルが必要だ。 つまり、異文化交流が出来ない人は、いい進学もいい就職も得られない。 そういう国では得手不得手はあってもほとんど誰でも異文化交流スキルを持っている。 つまり、工夫次第で他人を理解することができるということは 「できるよ!」「できないよ!」という討論のレベルをとっくに過ぎて、誰でも知っている常識であり、異論の余地がない事実だ。

その作業とは、自分とは育った街はおろか、国も違う、言葉も違う、風習も違う、全く異質な相手に対して、自分との違いをひとつひとつ明らかにしていくことだ。 こうして、相手をよく知るだけでなく、自分には見えない自分自身の特殊性が白昼の元にさらされることになる。

この作業を踏めば、誰であっても、また相手が誰であっても、他者の感じ方を理解することが出来る。 確かに同国人の様に理解するのは難しいが、相手に違和感を与えない程度に理解することはさほど困難ではない。

しかし、日本では「他人とは永遠に理解できない存在」 という言葉は、ほとんど、常識の様に根付いているように僕は思う。 これは、凄いことだと僕は思う。 しかし「他人とは永遠に理解できない存在」という言葉は凄まじい。 相手を理解する作業はおろか、相手を理解するという意欲の全て放棄してしまっている。

確かに、日本で「他人とは永遠に理解できない存在」 という意見に対して異論を唱えて貫き通すのは、相当しんどい。 これは事実だ。

「私はこう思います。なぜならばこれこれこうだからです。」
「キミは何故そんなに自己主張が強いのかね?」

「何故、そういうことしたの?」
「何でそうやってしつこく何でも聞くの?」
「僕はこう思うんだけど、そうじゃないの?」
「何で私のことわかったような口を聞くの?あなた何もわかってない」

「僕はそれは間違っていると思います。何故ならば...」
「何でキミはいつもそうやってケンカ腰なのかね!」
「いや、これは討論でこうやって話し合うことで理解を深めるのが大切なんです。」
「キミは口うるさい」

日本人は、相手が自分のことを知らない、という状態自体を極度に嫌う。 でも経験も共にしておらず、説明もしていない相手に対してこれを求めるということは、理不尽なことだ。 いくら日本人同士とはいえ、出身も世代も違えば、考え方も話し方も違う。 こういう中で、何も言わずに理解することを求めるというのは、無理がある。 絶対に不可能なのだ。

そんななか、日本人は、コミュニケーションを成立させるため、相手に共通点にを求める。 同じ学校 同じ県出身・同じ郷土・同じ車・同じ服・同じ方言... しかし、これだけ多様化して急速に発展した近代の日本では、新たに出会う人との共通点を探し出すのは、もはや不可能にちかい。

にもかかわらず、相手との違いを明らかにする非島国的コミュニケーション方法を取ろうとすると、往々にして、波風が立つ。 相手に悪印象を与えてしまう。 何故そんなに強く主張するのか、何故そんなに個人的なことに興味を持つのかと、子供っぽく非常識だという印象を与えてしまう。 これでは、以降の関係に冷や水を与えかねない。

だから、やむを得ず、表面的にわかったフリだけをする。 つまり「他人とは永遠に理解できない存在」として、付き合う以外に方法が無いのだ。



繰り返すようだけど「他人とは永遠に理解できない存在」ではない。
だから相手に興味を持って話し合い考えることをやめてはいけない。
だけど、日本人はこれが出来ない。
急速に変化する日本の社会の中で、日本人は急速に多様化している。

そういうなかで、日本人同士が外人同士のようにコミュニケーションが疎になって来ているように思う。

僕ももう大人なので、日本人を相手に熱い討論をしようなんてバカげたことは考えなくなってきたけど、ある人の日記で、若者の就職難に関して、若者は甘い! 努力がタリン! というようなことを言っている人がいたので、どうしても我慢できなくなって、異論を唱えてしまった。 そうしたら案の定、討論の出来ない会話がかみ合わない人が登場して、場が荒れてしまった。

90年代生まれと僕ら70年代生まれの間には、大きな違いがある。 70年代生まれは、バブル崩壊を体験して多少苦労しているけども、青春時代を高度経済成長期の名残の中ですごし、まだ「うま味」を知っている世代といえる。 それにひきかえ、90年代生まれは、バブル崩壊後の、経済が低迷した世知辛い世の中しか知らない。 このギャップは大きい。 70年代生まれは、青春時代、景気が悪いとはいえ、まだ仕事がありふれていた。 だから、頑張ればどうにかなる、と信じていたし、実際頑張ればどうにかなったのだ。 しかし時代は21世紀、頑張ってもどうにもならない大きな障壁が生まれている。 90年代生まれは、迷走する青春時代にこの障壁に出くわし、その前で途方にくれているのだと思う。 しかし、70年代生まれは、この「どうにもならない障壁」の存在が理解できない。

この人たちは、僕の目から見ると、まさしく タイに行って「タイ人と見分けが付かなくなった」と豪語する日本人とまったく変わらない。 日本人丸出しで、誰がどこからどう見ても日本人にしか見えない「タイ人と見分けが付かなくなった日本人」。 彼ら に、口をすっぱくして、絞り染めのTシャツを着てはいけない※1とか、東北人にタイ語で話しかけてはいけないとか※2そういうことを説明しても、「いやーそんなことないけどなー」といって拒否し、それ以上考えない。 彼らは理解できないし、そもそも理解しようともしていない。 そこに理解すべき何かがあることにすら気がつかない。

※1 絞り染めのTシャツをタイ風と思っている日本人は多いが、そういうTシャツを着ているタイ人は居ない。

※2 タイでは、実は全てのタイ人がタイ語を話すわけではない。 これに気がつく人が案外少ない。 これを間違えると、案外ムッとされている。

彼らがそうやって他者を理解できないのと同じように、70年代生まれは、90年代生まれの人がどういう苦労をしているのか、理解できない。 想像できない。 イマジネーションが働かない。



同じ国の人同士なのに、外国人同士の様に理解し合えないという、奇妙な状況に陥っている国、それが日本じゃないかと思う。

この現象は、日本中のありとあらゆるところで起こっている。

それは、会社の上司と部下だったり、医療関係者と患者だったりする。
世代がたった数年違うだけで、外国人同士のように理解しあえなくなったりする。
そういう信じられないような近視的なミスコミュニケーションが国中に満ち溢れているのが日本だ。

日本は、このままじゃ絶対まずいと思う。

ま、でも、どう行動を起こせばよいのか、というとほとんど策がないのが現実だ。


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出展 2008年05月28日14:39 『【長文】他人とは永遠に理解できない物である国』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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