子供のケンカ
2007年10月08日04:42
僕は最近、ネットに入り浸っている... って確かに前から入り浸っていたけど、なんと言うか僕はプログラマなので、入り浸るといっても、技術系の文章を読んだりとか ... あとは mixi で タイに関する情報交換をしたりとかそういう感じで、少なくとも、いわゆるネット入りびたり三種の神器=「ネトゲ 2ch 漫画」ではなかった。 でも、最近意識してそういうものに触れるようにしている。
で、やってみてよく思うんだけど、結構よくケンカになるのだ。 この間も、モンスターハンターフロンティアというオンラインゲームをやっているとき、仲間のプレーヤーと何か意思疎通がうまく行かなくてケンカになった。 でも、それが、なんと言うか、実に他愛のないケンカなのだ。 僕も、正直ほとんど怒ってないんだけど、でも一応言い返しておくことにしてる。
でも悪口をぶつけてみると気がつくことがある。 彼らがいつも言い返す方法っていうのが 「バカじゃねーの?全然ちげーよ (ワラ」 とか そんな感じなのだ。
僕はこの一言を見ると「あぁ」って思う。 腹立たしいっていうよりも、すごく寂しい気持ちがする。
この感じってうまくいえない...。
彼らは鋭い言葉で相手を傷つけようと躍起になっている反面、なんと言うか、自分のことを判って欲しいのだ。 「あたしのことなにもわかってない、バカじゃん?」というような発言をする事で、相手の感受性の低さを暴露しようとしているようにみえる。 でもその反面、実は受け入れてもらいたいのだ。
僕は多少外国にいたことがあるので、ちょっとさめた見方が出来る。 まず最初に最低限言えることっていうのは、自分のことは自分しかしらないんだよ... っていうことじゃないかと思う。 これは外国に居れば当たり前のことだ。 日本では、外人は高いお金を払って飛行機に乗ってくる。 だけど、普通の国では外人はあたりまえのように歩いてやって来る。 そんな国では、自分が相手とどう違うのかを説明するのが、重要スキルなのだ。
ところが、僕の日記を何度も読んでくれている人は、もう気がついてくれたかもしれないけど、この「自分を説明する」っていう作業は、日本では厳格に禁止されてる。 そういうことをすると「お前は主張が強い」とか「お前はワガママだ」とか「お前は普通じゃない」と そういうネガティブな烙印を押される場合が極めて多い。
少子化といわれて久しいけど、今、若者は少数派なのだ。 この世代独特の複雑な心理は、社会に出ると、何も発言させてもらえず、あっさり少数派、亜流として片付けられてしまっているのではないだろうか。 これは、きっと、まるで外国に住んでいるかのような孤独感を生むと思う。
みな同じで済む時代は終わった。 みなが違う時代では、自分が誰なのかを知ることはとても大切だ。 自分が誰なのか。 これは実に厳しい問いで、これを知るのは実に辛く孤独で寂しい作業でもある。 そうやって苦しんでいるのを、「みな同じ世代」の大人から、「ひきこもり」とか「ニート」とか そういう一言でくくられて、苦しんでいるんじゃないかと僕は思う。
しかも、彼らは競争を否定された世代で、実に行き抜いていく力を剥奪されているところもあるようにおもう。 極端に話下手で、思った事をうまく説明できない... でも自信だけは高嶺の頂の様に高い ... そんな ガラスの自信を持って、ビクビクしながら生きている。
しかも、世の中はいつのまにか、厳しい国際化と競争社会、そこに大人から何も武器を持たされず丸腰で放り出される、今の若者。
そんな絵だろうか。 だからかなんて確信はない。
こうやって書いた事は後から考えた事で、正しいかどうかはわからない。
でも、何か、彼らとケンカしていると、何かとても寂しい気持ちがしてくる。
それだけは間違いがない。
で、やってみてよく思うんだけど、結構よくケンカになるのだ。 この間も、モンスターハンターフロンティアというオンラインゲームをやっているとき、仲間のプレーヤーと何か意思疎通がうまく行かなくてケンカになった。 でも、それが、なんと言うか、実に他愛のないケンカなのだ。 僕も、正直ほとんど怒ってないんだけど、でも一応言い返しておくことにしてる。
でも悪口をぶつけてみると気がつくことがある。 彼らがいつも言い返す方法っていうのが 「バカじゃねーの?全然ちげーよ (ワラ」 とか そんな感じなのだ。
僕はこの一言を見ると「あぁ」って思う。 腹立たしいっていうよりも、すごく寂しい気持ちがする。
この感じってうまくいえない...。
彼らは鋭い言葉で相手を傷つけようと躍起になっている反面、なんと言うか、自分のことを判って欲しいのだ。 「あたしのことなにもわかってない、バカじゃん?」というような発言をする事で、相手の感受性の低さを暴露しようとしているようにみえる。 でもその反面、実は受け入れてもらいたいのだ。
僕は多少外国にいたことがあるので、ちょっとさめた見方が出来る。 まず最初に最低限言えることっていうのは、自分のことは自分しかしらないんだよ... っていうことじゃないかと思う。 これは外国に居れば当たり前のことだ。 日本では、外人は高いお金を払って飛行機に乗ってくる。 だけど、普通の国では外人はあたりまえのように歩いてやって来る。 そんな国では、自分が相手とどう違うのかを説明するのが、重要スキルなのだ。
ところが、僕の日記を何度も読んでくれている人は、もう気がついてくれたかもしれないけど、この「自分を説明する」っていう作業は、日本では厳格に禁止されてる。 そういうことをすると「お前は主張が強い」とか「お前はワガママだ」とか「お前は普通じゃない」と そういうネガティブな烙印を押される場合が極めて多い。
少子化といわれて久しいけど、今、若者は少数派なのだ。 この世代独特の複雑な心理は、社会に出ると、何も発言させてもらえず、あっさり少数派、亜流として片付けられてしまっているのではないだろうか。 これは、きっと、まるで外国に住んでいるかのような孤独感を生むと思う。
みな同じで済む時代は終わった。 みなが違う時代では、自分が誰なのかを知ることはとても大切だ。 自分が誰なのか。 これは実に厳しい問いで、これを知るのは実に辛く孤独で寂しい作業でもある。 そうやって苦しんでいるのを、「みな同じ世代」の大人から、「ひきこもり」とか「ニート」とか そういう一言でくくられて、苦しんでいるんじゃないかと僕は思う。
しかも、彼らは競争を否定された世代で、実に行き抜いていく力を剥奪されているところもあるようにおもう。 極端に話下手で、思った事をうまく説明できない... でも自信だけは高嶺の頂の様に高い ... そんな ガラスの自信を持って、ビクビクしながら生きている。
しかも、世の中はいつのまにか、厳しい国際化と競争社会、そこに大人から何も武器を持たされず丸腰で放り出される、今の若者。
そんな絵だろうか。 だからかなんて確信はない。
こうやって書いた事は後から考えた事で、正しいかどうかはわからない。
でも、何か、彼らとケンカしていると、何かとても寂しい気持ちがしてくる。
それだけは間違いがない。
コメント一覧
ジャコビ 2007年10月08日 06:18
最近の若者についての面白い分析だと思います。わたしもネットに良く書かれる「バカじゃネーの」みたいな表現を目にする度に、判で押したように一様な表現だと思っていました。
果たして、日本でも「個性」が尊ばれる時代が到来しつつあるのだろうかと考えると、私は疑問に思います。やはり日本は全体の国、集団の国なのだろうと思います。一人一人の国民も、集団であることが嫌ではなく、他人と同じ事が心地よいのだろうと思います。それが嫌な人は、私がそうであったように外国へ押し出されるハメになるんだろうと思います。
ただ、日本人の頭脳流出ということに関しては、すこし考えた事があります。今では、より多くの若者が意識的に海外で生きる事を選択しているように思えます。
果たして、日本でも「個性」が尊ばれる時代が到来しつつあるのだろうかと考えると、私は疑問に思います。やはり日本は全体の国、集団の国なのだろうと思います。一人一人の国民も、集団であることが嫌ではなく、他人と同じ事が心地よいのだろうと思います。それが嫌な人は、私がそうであったように外国へ押し出されるハメになるんだろうと思います。
ただ、日本人の頭脳流出ということに関しては、すこし考えた事があります。今では、より多くの若者が意識的に海外で生きる事を選択しているように思えます。
風我 2007年10月08日 14:33
元々「みんな」と違う立場に生まれてしまい「みんなと同じ」ようにしようと思ったら必ず自分に嘘をつくことになるので無駄な抵抗はしないことにしてるんですが、「独り力」というのさえ養えばどこにいてもどうにかなるのではないかと思ったりしてます。
日本では意見を聞かれるまでは「黙って観察する」に徹して、ひとりになった時に「その中で自分はどう思っているのか」を考えて自分の位置づけを再確認する程度であまり悩んだことはありませんね。
「人の振り見て我が振り直せ」じゃないけど周りを見て「こうなりたい」と思ったら真似して、「こうはなりたくない」と思ったら同じことをしないように気長に心がけていれば人格は自然に形成されていくのではないか...と。
ただ、日本は特に「見かけ」を重視する傾向が強い上、ある程度「ひきこもり」にならない限り考える時間まで奪われてしまうので、表だけ取り繕って合わせていくうちに自分を見失ってしまう危険性の高い場だと思います。
元々「気は心」という表現があるんだから、日本だろうと他だろうと人が誰しも心も含めて「動」物であることを顧みれば答えは自ずから出てくるはずだし、ネックになっているのはそれを受け入れられる自己肯定感の欠如なのでは...?
他の日記にも同じことを書き込んだのですが、自分の意見に確信を持っていれば、それを人に押しつけたり、他の見解を無視する必要も感じなくなるような気がします。
日本では意見を聞かれるまでは「黙って観察する」に徹して、ひとりになった時に「その中で自分はどう思っているのか」を考えて自分の位置づけを再確認する程度であまり悩んだことはありませんね。
「人の振り見て我が振り直せ」じゃないけど周りを見て「こうなりたい」と思ったら真似して、「こうはなりたくない」と思ったら同じことをしないように気長に心がけていれば人格は自然に形成されていくのではないか...と。
ただ、日本は特に「見かけ」を重視する傾向が強い上、ある程度「ひきこもり」にならない限り考える時間まで奪われてしまうので、表だけ取り繕って合わせていくうちに自分を見失ってしまう危険性の高い場だと思います。
元々「気は心」という表現があるんだから、日本だろうと他だろうと人が誰しも心も含めて「動」物であることを顧みれば答えは自ずから出てくるはずだし、ネックになっているのはそれを受け入れられる自己肯定感の欠如なのでは...?
他の日記にも同じことを書き込んだのですが、自分の意見に確信を持っていれば、それを人に押しつけたり、他の見解を無視する必要も感じなくなるような気がします。
けめ 2007年10月09日 02:23
個性が強すぎて今まで生き抜くのに大変でした・・・。
あと10年生まれるのが遅かったら自分も彼らの一人だったのか、とも思うし・・・。
かといって、大人も寛大に受け止めてくれるばかりではなく
やはり押し付けようとするので
どこにもはけ口がないなぁ、と思います。
(理解者は現れるのですが・・・)
だから、「ばっかじゃねーの、全然ちげーよ(ワラ」なんだと思います。
あと10年生まれるのが遅かったら自分も彼らの一人だったのか、とも思うし・・・。
かといって、大人も寛大に受け止めてくれるばかりではなく
やはり押し付けようとするので
どこにもはけ口がないなぁ、と思います。
(理解者は現れるのですが・・・)
だから、「ばっかじゃねーの、全然ちげーよ(ワラ」なんだと思います。
myinya 2007年10月10日 00:50
そうだね、今の10代、20代って罵倒語が割とワンパターンだよな。すぐ切れるし、よってたかってスケープゴートを弄びたがるけど、どこかの真似でしかないというか、端的に言っちゃうと、2ちゃんの流行をそのまま、どこにでも使ってるw
前はよく2ちゃんを見学してたけど、今は見学なんぞしなくても2ちゃんでどういう方言が使われてるのかふつーに掲示板を2、3眺めてるとわかってしまう。
なんかねぇ、個性も間違った意味に使われちゃってるというか、ようするに子供達の手本となるべき大人が、ダブルスタンダードかますからいかんのだが、口では個性的であれ、自分の個性を伸ばせと言うのだけれど、その言葉の裏にあるのは枠にはめることでしかない。
表面的な「個性を尊重」とその裏の意味の「枠からはみ出るな」の両方を子供達は敏感に感じ取ってるよ。それで一体どっちにしたらいいのかわからなくなった結果が、この大人達の意図したこととは違うワンパターンの枠組みに自らを入れてしまうってことなんじゃなかろうか?
個性的であると言うことは、本当は人と違っているということじゃない。
同じでも違っていても、その何かを自分の意志で「これがいい(これが好きだ)」と選んだと言うことなんだが。
今の若者は、何かと違うものであろうとしてあがき、同時に何かと同じものであろうとして安心を手に入れようとしている。
違うものであることで得られる優越と、同じものであることで得られる安心は、一度に両方手にすることはできない。
両方欲しがれば、どちらも手に入れられず不安だけがつきまとう。
前はよく2ちゃんを見学してたけど、今は見学なんぞしなくても2ちゃんでどういう方言が使われてるのかふつーに掲示板を2、3眺めてるとわかってしまう。
なんかねぇ、個性も間違った意味に使われちゃってるというか、ようするに子供達の手本となるべき大人が、ダブルスタンダードかますからいかんのだが、口では個性的であれ、自分の個性を伸ばせと言うのだけれど、その言葉の裏にあるのは枠にはめることでしかない。
表面的な「個性を尊重」とその裏の意味の「枠からはみ出るな」の両方を子供達は敏感に感じ取ってるよ。それで一体どっちにしたらいいのかわからなくなった結果が、この大人達の意図したこととは違うワンパターンの枠組みに自らを入れてしまうってことなんじゃなかろうか?
個性的であると言うことは、本当は人と違っているということじゃない。
同じでも違っていても、その何かを自分の意志で「これがいい(これが好きだ)」と選んだと言うことなんだが。
今の若者は、何かと違うものであろうとしてあがき、同時に何かと同じものであろうとして安心を手に入れようとしている。
違うものであることで得られる優越と、同じものであることで得られる安心は、一度に両方手にすることはできない。
両方欲しがれば、どちらも手に入れられず不安だけがつきまとう。