虐めたくなる心理と直感について(長文)
2006年05月27日00:09
問題
・旧友T氏を見ると一言言いたくなる心象
・最近見かけたブログSを読むといじめたくなる心象
⇒ どちらも、ほっておけばいい話だが、何故かほっておけなくなる。 これは、僕は、過去にトラウマがあるからではないか。
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(これを読む人のための前書き)
旧友T氏は、2004年末にあるきっかけで絶交した、小学校時代からの友達である。 ブログSの筆者はあったことは無い。
この二人のどちらも、かなり複雑な人間である。 実際に知り合う事がなければ、どういう人間なのかはわからないだろう。 だから、 いったい僕が何を言おうとしているのか、これを読んでいる人は察しかねると思う。 もとより、たとえ知り合ったとしても、よくわからないぐらいなのだ。
彼らに共通しているところは、どちらもきわめて論理的な人間であり、話をしている分には正常な人間に見える事だ。 だが、実際に深く話しあい付き合ってみると、大きな何かが欠けているのを思わざるを得ない。 だけど、僕は、それが、一体何なのか、よくわからない。
なんといえばいいか、彼らは決定的に自分に対する客観的な視点が欠けている。 それと反するように、他人を見る目は妙に厳しい。 彼らは友達が無い孤独な人間である為に、客観的な自分を知るチャンスを失ったのかもしれない。
基本的に彼らと深いコミュニケーションは不能である。 何故なら、一定以上近づくと彼らは『自爆』するからである ――― 自爆とは何か。 彼らと、深く付き合うようになる過程で、ふと、彼らに「彼自身が彼自身に関して全く気づいていない奇妙な事実」があることを知る。 それに気づいたとしても、それをそのまま指摘せずにおかなければならない。 指摘すれば彼らは彼ら自身に対する怒りが爆発してしまうからだ。 そして、自傷的になって深い鬱に陥り、しばらくはそのままになる。 僕はこの現象の事を『自爆』と呼んでいる。
ところが、こちらが自爆を避けてコミュニケーションをとったとしても、問題は終わらない。 彼らは他人の批判ばかり続けるので辟易させられるのだ。 場合によってはその批判は話し相手である僕自身にも及ぶ。
実は、彼らは僕とかなり似ているところがあり、彼らを批判する事は、そのまま僕自分を批判することにつながるという側面がある。 僕はこのことを直視したくないのだ。 しかし、似ている事は否定できない。
だが、彼らと僕は決定的に違う事がある。 彼らは成立していないが、僕は成立している事だ。 ここで言う成立とは、自分で組み立てた論理を実際に役立てる事が出来る、 更に踏み込んでいえば、 実際に生活するうえで、人と出会いがあり、深い理解があり、愛や友情があるということでもある。 彼らには、それがない。
僕はこれまでそうやって断言する事が出来なかった。
僕は、何故か、彼らを、こうして断言してしまうのは非常に気が引けるのだ。 実際のところ、じゃぁ自分はどうなんだと問われたら、ひとたまりもない。 自分だって、かつては、それどころか今でも、そうやって苦しんでいるのである。 他人をそうして断言する権利など無い。 そうして断言する事は、自分のよって立つ場所を完全否定することと等しい。
ところが、最近、それは、事実と違っているのではないか、と気づくようになった。 だが、その違いが何なのかは未だにわからない。
僕はその違いを見切ろうとして、自分なりのメモを書いた。 実は、僕は頻繁にそういうことをする。 僕はそれを思考実験と呼んでいる。 でも、他人が読んでも全然意味がわからないかもしれない。
でも、僕は、出来るだけ人に自分のことを隠さずに話したいと思っているので、ここにコピーしておこうと思う。 これを書いてから何年かたって、この文章を読んで少しでも共感してくれるような人がいたら、とても嬉しい。 そんな人が沢山いるとは思えない。 であったときには僕はもういないかもしれない。 もし、そんな未来の友達がきてくれたときのために、ここであらかじめ、理解してくれてどうもありがとう、と書いておこうと思う。
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☆ 直感に関する思考実験
○ 直感について
ロジックを一つ一つ追っていく事であることを理解しようとする緻密な作業がある。 でもロジックの迷路に陥って訳がわからなくなったり、現実で起こっていることと相反する結果が出たりすることがある。 そういうときに、ロジックから一歩離れて、全体を見渡す事で問題が何であるのか見通す能力。
優秀な人は、ロジックよりも先に結論が出ている様に見える。 恐らくは論理が出るよりも先に直感で結論を見抜いてしまうのだと思う。 そして、その直感が何故出てくるのか、その出てくる源を知りたくて、論理で説明している感じがする。
○直感の欠如
色々な人を見ていると、論理的な人間は論理を追う事に必死になって、直感を使う能力が無い人が多い。 こういう人は、いつまでもつまらない事で論理を追っている。
○直感の出所
経験ではないだろうか。 膨大な量の、ある問題に関する答えに日常的に触れていると、感覚的に問題の本質を感じられるようになる事がある。 これはとても習得が難しい感覚である。 この感覚は人によっては一瞬で身につけることもあるが、長い年月を必要とする人もいる。 だが一度身につけてしまうと膨大な論理の簡略化が出来る。
この感覚の不思議なところは、ある感覚を一瞬で身につけた人が、違う感覚を身につけるのに長い年月を必要としたり、人によってはある感覚を身につけるのに長い年月が掛かったものが、感覚を身につけた途端、次々に違う感覚を一瞬で身につけたりする。
経験的に見て、この感覚を身につけている人は、音楽が好きな人が多い。これも、事象だけ見れば不思議な事に見えるが、実際には当然のことである。 音楽は論理と感覚の接点だからだ。
西洋には音楽を習得する事が人間の基礎能力を高める事だという一般認識がある。 例えば、日本では少年の非行防止にスポーツを推奨する場合が多いが、西洋では非行防止策として音楽を挙げる場合も多い。 これは、音楽が論理と感覚の接点であるという事の一つの事例である。
また、基本的に音楽は実践でしかありえない。 だから、音楽に対する論理が矛盾しているとそれはすぐに結果に現れる。 こうやって論理的な感覚が磨かれていくともいえる。
○直感の普遍性
直感というのは誰でも習得する事が出来る感覚である。 だが、習得は一瞬で終わる場合もあり、長い年月が掛かる場合もある。 諦めないで、気長に恒常的に努力する事が肝要である。
また、直感を身につけるに当たって、その感覚を外部から取り入れるという概念が直感を身につける妨げになる場合がほとんどである。 多くの直感を身につけた人に尋ねてみると、「その感覚は既に自分の中にある」 「その能力は誰もが持っている」という言葉が返ってくる。
○プライド
プライドが高いと、問題を直視できない場合がある。 自分にそんな問題があろう筈は無い、といった感覚が問題の直視を妨げる。 これもまた、全ての人が陥る可能性がある危険な落とし穴であり、道を極める上では、これを謙虚に受け止める必要がある。
また、全ての人がそれを乗り越える能力がある。
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また、自分自身も直感が欠けている人間である。 だからこそ、それについて努力をする。 だからこそ、誰もがその能力を得ることが出来ると信じている。
ところが、彼らはその努力が無い。 プライドが高すぎるからである。 プライドが高すぎて問題を直視出来ないので、努力も出来ない。 だから、行動のいたる部分に矛盾が生じている。 だが、論理を駆使する事で必死で破綻を防いでいる。 だが、行動の本質が問題解決に向いていないので、論理が迷路に迷い込んでいる。 そんなときでも、一歩下がって問題の本質が何であるのかを見渡す事も出来ない。直感が無いからである。
こうやって書いてみると、彼らを見るとどうしても一言と言いたくなってしまうのは、僕のトラウマではない事がわかった。彼らを否定する事が、自分を否定する事につながってしまっているのだ。 彼らを否定する事は、「誰にでもその能力がある」という事を否定してしまう。 ひいては僕のよりどころとしている信念が壊れてしまう。
だが、一歩引いて考えてみれば、僕と彼らには大きな違いがある。 僕は、彼らと僕の違いを見つけなければいけない。
残念な事なのだが、問題を直視できない人は、場合によっては、問題を直視するまでに極端に長い時間、場合によっては人生の時間を超える時間をかける人が居る。 それでも、実は、最後の最後まで諦めないことが実際には肝要なのである。 XX歳になったから、もう遅いという事は絶対に無い。 だからこそ、僕は彼らを捨てられないのである。
恐らくは、僕は自分が抱えている問題(自分自身の時もあったし、自分以外のときもあった)を解決しなければ生きてこれない状況に居た。 そういう中で問題を解決するという強力なモチベーションを身につけて来た。彼らにはそういう厳しさがない。
彼らには問題を解決しなければいけない、というベクトルが無い。
僕は問題を解決するというベクトルを持っているので彼らを見ると、問題の解決方法が見える。 何がネックになって問題が発生しているのか、何をすればそのネックが取り除けるのかという手順が見える。 だが、それを説明しても、彼らには問題を解決するというベクトルが無いので理解できない。
しかし、滑稽なのは、彼ら自身は問題を解決するベクトルを持っているぞと大声で吹聴しているところである。 そして、他人の論理に矛盾を見つけると、ここぞとばかりに痛烈に批判を始める。 そういう行動を見ると思わず虐めたくなるのである。
ところで、「行動のいたる部分に矛盾が生じている」 と発言した場合は、きちんとその理由を説明する義務を持つ。 僕自身、そう発言されたら不愉快だろうし、当然その理由を知りたいからだ。 ところが、彼らは問題解決のベクトルを持ち合わせていないので、説明しても理解しようとしない。
これは、僕の中では「時間の浪費」という問題を持つ。
だから問題解決のベクトルを持ち合わせていない人間は放っておかなければならない。 だが、彼らを見ると非常に腹が立つのも事実なのである。 だが、適当にからかっておく程度に抑えておかなければならない。
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レベルの違う人間が混在しているとも説明できるかもしれない。
レベルの低い人間がレベルの高い人間を駆逐してしまう、というのはよくある話だと思う。 それは、アイスホッケーで非常に高いレベルにいるKさんの話を聞いていても思う。 Kさんは世界的レベルに達している方だ。 しかし、残念な事に、日本国内ではレベルが高い人間関係という事自体が絶対にありえない。 日本は、欧米・ヨーロッパ・ロシアの様にアイスホッケーが盛んではないからである。 そういうなかで、Kさんは、絶妙なバランスで乗り切っている。 レベルの低い人間にむかついたら適当に苛めるが、本質ははずさないというセンスは、やはり、敵の邪魔をするのが大目的のアイスホッケーでつちかった精神力なのだと思う。
そうか、そうだ。こういう場合は、Kさんのセンスを研究すればよかったんだ。
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13:29 2006/05/22
でも、考えてみれば、彼らは「逆境に居ると正しい事を言っても黙殺される」のパラドックスにいる。 そして、それを、跳ね返して頑張っているところに僕は共感を持っているのかもしれない。 そうだとすると、彼を否定する事は、自分を否定する事につながってしまう。
だが、彼は、まじめに努力していない。 グチは懸命に述べるし、他人の批判も頑張るが、自己批判を真剣に行って問題を解決しようとしてない。 自分のあるべき姿を決めてそれに近づけるために努力するという姿勢も見えない。
だから、彼をバカとしても、僕自身の考え方を否定している事にはならない。
こうやって色々書いてみたが、僕自身もいろいろ得るところはあった。 正直、彼は僕に似てる。 彼の欠点は、そのまま僕の欠点のようにも見える。
だが、僕は彼と一つ違うところがある。 自分を見る視点を持っている事だ。
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4:02 2006/05/26
彼らは、また、モチベーションが劣等感から始まっている人間だといえるかもしれない。 何故、彼らは、劣等感を感じるのか。 それは、彼らが人よりも優れているという事実のみに価値観をおいているからである。
実際には、現実の世界に自分よりも優れている人間も多くいれば、自分よりも劣っている人間も多くいる。 そういうこととは無関係に、自分が好きな事を追求する、という姿勢こそが基本である。 見方を変えれば、自分よりも優れた人間がいるということはありがたいことだ。 そういう先人の未踏の地での血のにじむような努力を重ねて得た成果を、最小の努力で研究させてもらえる。 よいことだ。 だから、劣等感を感じる、というのは、さほど意味のある事ではない。
逆に言えば、劣等感をモチベーションにしている人が、他人の成果を研究する為に、その劣等感をバネとして莫大な集中力を発揮するという事はよくある事だ。 そういう人が、最終的に先人未踏の地に到達し偉業を成し遂げる、ということは、歴史的に見てもよく出会う事例では無いだろうか。
ところが、劣等感をモチベーションとしている人の中には、自分よりも劣る他人の批判に勢力を尽くしているものもいる。 こうする事で自分の劣等感をかき消そうとしているのである。 彼らは非常に後ろ向きであるといわざるを得ない。
僕がしている、この行為が正にそれでは無いだろうか。 広く見れば、努力を尽くす人と努力を尽くさない人を比べれば、努力を尽くさない人の方が圧倒的に多勢な訳である。 努力を尽くさない人と努力を尽くす自分とを比較すれば、努力を尽くさない人が劣るのは当たり前なのだ。 そして、それは、価値観の違いによるものでもあり、侮辱してはならない。
自分よりも劣っている人に目を向けてはならない。
・旧友T氏を見ると一言言いたくなる心象
・最近見かけたブログSを読むといじめたくなる心象
⇒ どちらも、ほっておけばいい話だが、何故かほっておけなくなる。 これは、僕は、過去にトラウマがあるからではないか。
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(これを読む人のための前書き)
旧友T氏は、2004年末にあるきっかけで絶交した、小学校時代からの友達である。 ブログSの筆者はあったことは無い。
この二人のどちらも、かなり複雑な人間である。 実際に知り合う事がなければ、どういう人間なのかはわからないだろう。 だから、 いったい僕が何を言おうとしているのか、これを読んでいる人は察しかねると思う。 もとより、たとえ知り合ったとしても、よくわからないぐらいなのだ。
彼らに共通しているところは、どちらもきわめて論理的な人間であり、話をしている分には正常な人間に見える事だ。 だが、実際に深く話しあい付き合ってみると、大きな何かが欠けているのを思わざるを得ない。 だけど、僕は、それが、一体何なのか、よくわからない。
なんといえばいいか、彼らは決定的に自分に対する客観的な視点が欠けている。 それと反するように、他人を見る目は妙に厳しい。 彼らは友達が無い孤独な人間である為に、客観的な自分を知るチャンスを失ったのかもしれない。
基本的に彼らと深いコミュニケーションは不能である。 何故なら、一定以上近づくと彼らは『自爆』するからである ――― 自爆とは何か。 彼らと、深く付き合うようになる過程で、ふと、彼らに「彼自身が彼自身に関して全く気づいていない奇妙な事実」があることを知る。 それに気づいたとしても、それをそのまま指摘せずにおかなければならない。 指摘すれば彼らは彼ら自身に対する怒りが爆発してしまうからだ。 そして、自傷的になって深い鬱に陥り、しばらくはそのままになる。 僕はこの現象の事を『自爆』と呼んでいる。
ところが、こちらが自爆を避けてコミュニケーションをとったとしても、問題は終わらない。 彼らは他人の批判ばかり続けるので辟易させられるのだ。 場合によってはその批判は話し相手である僕自身にも及ぶ。
実は、彼らは僕とかなり似ているところがあり、彼らを批判する事は、そのまま僕自分を批判することにつながるという側面がある。 僕はこのことを直視したくないのだ。 しかし、似ている事は否定できない。
だが、彼らと僕は決定的に違う事がある。 彼らは成立していないが、僕は成立している事だ。 ここで言う成立とは、自分で組み立てた論理を実際に役立てる事が出来る、 更に踏み込んでいえば、 実際に生活するうえで、人と出会いがあり、深い理解があり、愛や友情があるということでもある。 彼らには、それがない。
僕はこれまでそうやって断言する事が出来なかった。
僕は、何故か、彼らを、こうして断言してしまうのは非常に気が引けるのだ。 実際のところ、じゃぁ自分はどうなんだと問われたら、ひとたまりもない。 自分だって、かつては、それどころか今でも、そうやって苦しんでいるのである。 他人をそうして断言する権利など無い。 そうして断言する事は、自分のよって立つ場所を完全否定することと等しい。
ところが、最近、それは、事実と違っているのではないか、と気づくようになった。 だが、その違いが何なのかは未だにわからない。
僕はその違いを見切ろうとして、自分なりのメモを書いた。 実は、僕は頻繁にそういうことをする。 僕はそれを思考実験と呼んでいる。 でも、他人が読んでも全然意味がわからないかもしれない。
でも、僕は、出来るだけ人に自分のことを隠さずに話したいと思っているので、ここにコピーしておこうと思う。 これを書いてから何年かたって、この文章を読んで少しでも共感してくれるような人がいたら、とても嬉しい。 そんな人が沢山いるとは思えない。 であったときには僕はもういないかもしれない。 もし、そんな未来の友達がきてくれたときのために、ここであらかじめ、理解してくれてどうもありがとう、と書いておこうと思う。
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☆ 直感に関する思考実験
○ 直感について
ロジックを一つ一つ追っていく事であることを理解しようとする緻密な作業がある。 でもロジックの迷路に陥って訳がわからなくなったり、現実で起こっていることと相反する結果が出たりすることがある。 そういうときに、ロジックから一歩離れて、全体を見渡す事で問題が何であるのか見通す能力。
優秀な人は、ロジックよりも先に結論が出ている様に見える。 恐らくは論理が出るよりも先に直感で結論を見抜いてしまうのだと思う。 そして、その直感が何故出てくるのか、その出てくる源を知りたくて、論理で説明している感じがする。
○直感の欠如
色々な人を見ていると、論理的な人間は論理を追う事に必死になって、直感を使う能力が無い人が多い。 こういう人は、いつまでもつまらない事で論理を追っている。
○直感の出所
経験ではないだろうか。 膨大な量の、ある問題に関する答えに日常的に触れていると、感覚的に問題の本質を感じられるようになる事がある。 これはとても習得が難しい感覚である。 この感覚は人によっては一瞬で身につけることもあるが、長い年月を必要とする人もいる。 だが一度身につけてしまうと膨大な論理の簡略化が出来る。
この感覚の不思議なところは、ある感覚を一瞬で身につけた人が、違う感覚を身につけるのに長い年月を必要としたり、人によってはある感覚を身につけるのに長い年月が掛かったものが、感覚を身につけた途端、次々に違う感覚を一瞬で身につけたりする。
経験的に見て、この感覚を身につけている人は、音楽が好きな人が多い。これも、事象だけ見れば不思議な事に見えるが、実際には当然のことである。 音楽は論理と感覚の接点だからだ。
西洋には音楽を習得する事が人間の基礎能力を高める事だという一般認識がある。 例えば、日本では少年の非行防止にスポーツを推奨する場合が多いが、西洋では非行防止策として音楽を挙げる場合も多い。 これは、音楽が論理と感覚の接点であるという事の一つの事例である。
また、基本的に音楽は実践でしかありえない。 だから、音楽に対する論理が矛盾しているとそれはすぐに結果に現れる。 こうやって論理的な感覚が磨かれていくともいえる。
○直感の普遍性
直感というのは誰でも習得する事が出来る感覚である。 だが、習得は一瞬で終わる場合もあり、長い年月が掛かる場合もある。 諦めないで、気長に恒常的に努力する事が肝要である。
また、直感を身につけるに当たって、その感覚を外部から取り入れるという概念が直感を身につける妨げになる場合がほとんどである。 多くの直感を身につけた人に尋ねてみると、「その感覚は既に自分の中にある」 「その能力は誰もが持っている」という言葉が返ってくる。
○プライド
プライドが高いと、問題を直視できない場合がある。 自分にそんな問題があろう筈は無い、といった感覚が問題の直視を妨げる。 これもまた、全ての人が陥る可能性がある危険な落とし穴であり、道を極める上では、これを謙虚に受け止める必要がある。
また、全ての人がそれを乗り越える能力がある。
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また、自分自身も直感が欠けている人間である。 だからこそ、それについて努力をする。 だからこそ、誰もがその能力を得ることが出来ると信じている。
ところが、彼らはその努力が無い。 プライドが高すぎるからである。 プライドが高すぎて問題を直視出来ないので、努力も出来ない。 だから、行動のいたる部分に矛盾が生じている。 だが、論理を駆使する事で必死で破綻を防いでいる。 だが、行動の本質が問題解決に向いていないので、論理が迷路に迷い込んでいる。 そんなときでも、一歩下がって問題の本質が何であるのかを見渡す事も出来ない。直感が無いからである。
こうやって書いてみると、彼らを見るとどうしても一言と言いたくなってしまうのは、僕のトラウマではない事がわかった。彼らを否定する事が、自分を否定する事につながってしまっているのだ。 彼らを否定する事は、「誰にでもその能力がある」という事を否定してしまう。 ひいては僕のよりどころとしている信念が壊れてしまう。
だが、一歩引いて考えてみれば、僕と彼らには大きな違いがある。 僕は、彼らと僕の違いを見つけなければいけない。
残念な事なのだが、問題を直視できない人は、場合によっては、問題を直視するまでに極端に長い時間、場合によっては人生の時間を超える時間をかける人が居る。 それでも、実は、最後の最後まで諦めないことが実際には肝要なのである。 XX歳になったから、もう遅いという事は絶対に無い。 だからこそ、僕は彼らを捨てられないのである。
恐らくは、僕は自分が抱えている問題(自分自身の時もあったし、自分以外のときもあった)を解決しなければ生きてこれない状況に居た。 そういう中で問題を解決するという強力なモチベーションを身につけて来た。彼らにはそういう厳しさがない。
彼らには問題を解決しなければいけない、というベクトルが無い。
僕は問題を解決するというベクトルを持っているので彼らを見ると、問題の解決方法が見える。 何がネックになって問題が発生しているのか、何をすればそのネックが取り除けるのかという手順が見える。 だが、それを説明しても、彼らには問題を解決するというベクトルが無いので理解できない。
しかし、滑稽なのは、彼ら自身は問題を解決するベクトルを持っているぞと大声で吹聴しているところである。 そして、他人の論理に矛盾を見つけると、ここぞとばかりに痛烈に批判を始める。 そういう行動を見ると思わず虐めたくなるのである。
ところで、「行動のいたる部分に矛盾が生じている」 と発言した場合は、きちんとその理由を説明する義務を持つ。 僕自身、そう発言されたら不愉快だろうし、当然その理由を知りたいからだ。 ところが、彼らは問題解決のベクトルを持ち合わせていないので、説明しても理解しようとしない。
これは、僕の中では「時間の浪費」という問題を持つ。
だから問題解決のベクトルを持ち合わせていない人間は放っておかなければならない。 だが、彼らを見ると非常に腹が立つのも事実なのである。 だが、適当にからかっておく程度に抑えておかなければならない。
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レベルの違う人間が混在しているとも説明できるかもしれない。
レベルの低い人間がレベルの高い人間を駆逐してしまう、というのはよくある話だと思う。 それは、アイスホッケーで非常に高いレベルにいるKさんの話を聞いていても思う。 Kさんは世界的レベルに達している方だ。 しかし、残念な事に、日本国内ではレベルが高い人間関係という事自体が絶対にありえない。 日本は、欧米・ヨーロッパ・ロシアの様にアイスホッケーが盛んではないからである。 そういうなかで、Kさんは、絶妙なバランスで乗り切っている。 レベルの低い人間にむかついたら適当に苛めるが、本質ははずさないというセンスは、やはり、敵の邪魔をするのが大目的のアイスホッケーでつちかった精神力なのだと思う。
そうか、そうだ。こういう場合は、Kさんのセンスを研究すればよかったんだ。
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13:29 2006/05/22
でも、考えてみれば、彼らは「逆境に居ると正しい事を言っても黙殺される」のパラドックスにいる。 そして、それを、跳ね返して頑張っているところに僕は共感を持っているのかもしれない。 そうだとすると、彼を否定する事は、自分を否定する事につながってしまう。
だが、彼は、まじめに努力していない。 グチは懸命に述べるし、他人の批判も頑張るが、自己批判を真剣に行って問題を解決しようとしてない。 自分のあるべき姿を決めてそれに近づけるために努力するという姿勢も見えない。
だから、彼をバカとしても、僕自身の考え方を否定している事にはならない。
こうやって色々書いてみたが、僕自身もいろいろ得るところはあった。 正直、彼は僕に似てる。 彼の欠点は、そのまま僕の欠点のようにも見える。
だが、僕は彼と一つ違うところがある。 自分を見る視点を持っている事だ。
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4:02 2006/05/26
彼らは、また、モチベーションが劣等感から始まっている人間だといえるかもしれない。 何故、彼らは、劣等感を感じるのか。 それは、彼らが人よりも優れているという事実のみに価値観をおいているからである。
実際には、現実の世界に自分よりも優れている人間も多くいれば、自分よりも劣っている人間も多くいる。 そういうこととは無関係に、自分が好きな事を追求する、という姿勢こそが基本である。 見方を変えれば、自分よりも優れた人間がいるということはありがたいことだ。 そういう先人の未踏の地での血のにじむような努力を重ねて得た成果を、最小の努力で研究させてもらえる。 よいことだ。 だから、劣等感を感じる、というのは、さほど意味のある事ではない。
逆に言えば、劣等感をモチベーションにしている人が、他人の成果を研究する為に、その劣等感をバネとして莫大な集中力を発揮するという事はよくある事だ。 そういう人が、最終的に先人未踏の地に到達し偉業を成し遂げる、ということは、歴史的に見てもよく出会う事例では無いだろうか。
ところが、劣等感をモチベーションとしている人の中には、自分よりも劣る他人の批判に勢力を尽くしているものもいる。 こうする事で自分の劣等感をかき消そうとしているのである。 彼らは非常に後ろ向きであるといわざるを得ない。
僕がしている、この行為が正にそれでは無いだろうか。 広く見れば、努力を尽くす人と努力を尽くさない人を比べれば、努力を尽くさない人の方が圧倒的に多勢な訳である。 努力を尽くさない人と努力を尽くす自分とを比較すれば、努力を尽くさない人が劣るのは当たり前なのだ。 そして、それは、価値観の違いによるものでもあり、侮辱してはならない。
自分よりも劣っている人に目を向けてはならない。
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