日本語と中国語とタイ語を比べた時、中国語とタイ語で同じだが、日本語にはない表現というものが多くある。日本語と中国語を比べた時、その表現が抽象的であればあるほど、日本語と中国語で同じだ。表現が日常茶飯事であればあるほど、日本語と中国語は全く違う表現を使うことが多い。だがこういう「日本語と中国語で共通でない表現」が、しばしばタイ語と共通なのだ。
タイ語・中国語を学ぶとき、この「日本語にない言い方」を学ぶことが非常に重要だ。以下でその事を見ていこう。
以前、雲南省で中国語の武者修行をしていた時、近所にあった dico's というファーストフードに行った。僕は、食事を済ませてお茶を飲みたかった。というのも、中国ではいつもみんな耐熱ガラス製のお茶ポットを持ち歩いており、何かあるごとにいつもお茶を淹れて飲んでいたので、僕もその週間を真似していつもお茶を飲んでいたのだった。 その頃には僕も、中国のお店はどこも常にお湯を常備しており、一言声を掛ければお湯を分けてもらう事が出来ることを知っていた。だがそれはその辺の場末の料理屋での話で、こういうdico'sの様な近代的なファーストフードでも同じことが出来るのか、まだ自信がなかった。
間違えて意思疎通が出来ないと驚くような誤解を招くこともあるので、不安があったのだが、その日は勇気を出して、店員さんに声を掛けて「可以加热水给我一点吗?」と言ってみた。だが通じなかった。結局、身振り手振りで何がしたいのかを伝え、結局お湯はもらえた。だが何故通じないのか理解できなかった。
その時、タイ語もラオ語も中国語もミャンマー語も北部語も判る上、方言に滅法強く、色々な訛りがあってもものともせずに全てを聞き取る事が出来るという語学に関して天才的な能力を持っている、ある少数民族が出身の方が同じ学校におり、僕と仲が良かった。そこでその人に事の顛末を伝え、何故だろうかと聞いてみたら、意外な答えが返って来た。
そういう時は「可以帮助」と言わないと通じないよ!と言う。幇助とは助けるという意味だ。僕は思った。帮助があってもなくても意味は同じだから、別になくても意味くらいわかってくれても良いではないか。そう食い下がったが、そうではない、という。帮助というのは中国語で読むとバンジューだが、日本語ではホウジョと読む。殺人幇助という時につかう幇助と同じだ。中国語ではこういう場面で「幇助してくれ=助けてくれ」というのだという。日本語で考えると、何か物事を頼む時に「助けてくれ」というのは、あまり直感的ではない。意味はわかるが、あまり言わない言い方だ。
僕はその後、タイに戻ってきてタイで生活する様になった。可以帮助で衝撃を受けてから大分たったが、これは実はタイ語でも同じだということに気付いた。タイ語でも丁寧に物を頼む時は出来るだけ「ขอช่วย koh shwai」 と「帮助」に相当する表現をつけるべきなのだが、ขอช่วยは非常に丁寧な表現とされており、単に省略して「可以吗?」に相当する ได้ไหม? (=dai mai?) だけをつけていうというだけの話だ。本来は言ったほうがよいのだ。
僕は今、ขอช่วย という表現を知っている。それは本で読んだからではなく、生活している内に周囲の人がそういう言い方をしているのを耳にして覚えた言い方だ。そしてこの表現を使うのはフォーマルな場面に限る。つまりこれは標準語(敬語)だ。だがこの表現を日本語の本で見たことは、一度もない。恐らく書いていないと思う。
日本語と中国語とタイ語を比べた時、中国語とタイ語で同じだが、日本語にはない表現というものが多くある。日本語と中国語を比べると、その内容が抽象的であればあるほど、表現が同じで、内容が日常茶飯事であればある程、表現は全く違う。逆に、タイ語と中国語を比べると、内容が日常茶飯事であればある程、表現が共通で、抽象的な内容になればなる程、あまり一致しない。
例えば、「抽象」という言葉を考えてみる。この「抽象」という言葉は、そもそも古代中国語から取り入れた外来語なので、当然中国語と同じだ。だが当然タイ語と中国語では全く一致しない。
タイ語で「こんにちは」は「サワッディー」という。だが日常的にはあまりサワッディーを使わずに、もっとくだけて「กินข้าวแล้วหรือยัง=キンカーウレーウルヤン=御飯は食べましたか?」と言う。日本語でも言う事が皆無とは言えないが、挨拶として見るとあまり一般的な言い方ではない。一方中国語では、「こんにちは」は「你好=ニイハオ」だ。だが日常的にはニイハオとあまりいわず、もっとくだけて「吃饭了吗?=チーファンラマ?=御飯は食べましたか?」と言う方がずっと一般的だ。この表現は、中国語とタイ語での最頻出表現だ。
この様にタイ語と中国語の頻出表現において、表現内容が一致しているケースはよく見られる。こういう表現はしばしば、日本語とは一致しない。この様な日本語にない表現にしばしば日本人は気付かず、しばしば知らないまま学習を進めてしまう。つまり日本人が中国語・タイ語を学ぶ際、この「中泰共通表現」を確実に学ぶことが非常に重要になる。
だが僕がここで強調したい最大の事は、大抵の場合、この「中泰共通表現」が日本語の教科書に載っていないことなのだ。
ASEANの発足により 近年ますます重要化する東南アジア。日本を追い抜いて大国化する中国。日本の周りにあるこの2大経済圏での情報を収集する事は、日本政府に取って最重要課題の筈だ。コミュニケーション上極めて重要な「中泰共通表現」をきちんと知らずして、如何にして情報を収集するというのだろうか。早急な研究が求められている。
だが、恐らく日本のこの分野の研究が遅れているのは、怠慢ではなく意図的なものだろう。僕は、中国文化とタイ文化を研究することによって、忽然と、だがはっきりと浮かび上がってくる最大の事実は、日本の敗戦国という弱々しい政治的立場なのではないかと思う。政府は、敗戦し属国化したという事実を隠している。それがこの分野の研究が立ち遅れている理由そのものである筈だ。
FLAGS
NOTICE
■■■ 現在縦乗りを克服しようシリーズを大規模再構成/加筆訂正中です ■■■
2022年5月29日更新: 末子音がない日本語 ─── 縦乗りを克服しようシリーズその22
2022年5月15日更新: 裏拍が先か表拍が先か ─── 縦乗りを克服しようシリーズその3
2022年5月11日更新: 頭合わせと尻合わせとは何か ─── 縦乗りを克服しようシリーズその2
著者オカアツシについて
小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。
特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々
おかあつ日記メニューバーをリセット
©2022 オカアツシ ALL RIGHT RESERVED