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2011年2月9日水曜日

何もない (mixi05-u459989-201102090232)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
何もない
2011年02月09日02:32
Wed, 09 Feb 2011 00:18:40 +0900

コンピューターは、複数の処理を同時に実行することが出来る。 ある瞬間に於いて、人間が直接入力データを与えたり出力データを得たり処理を制御したりしている処理の事を「フォアグラウンドプロセス」と呼ぶ。 それに対して、人間があらかじめデータを与え、出力データの保存先を指定する等々した上で、人間が制御せずに、コンピューターに処理の制御も任せてしまう処理の事を「バックグラウンドプロセス」と呼ぶ。 プロセスというのは処理の事だ。 処理というのは、コンピューターがある手順にそって入力データに対して条件判断や計算を行い出力データを作成することだ。 フォアグラウンド・バックグラウンドというのは、それぞれ「前景」「背景」と訳される。 前景というのは、今見ている物の事だ。 背景というのは、今見ている物の背後にある物々の事で、多くの場合ぼやけて見える。

フォアグラウンドプロセスは、人間が直接制御しているので、入力データに不備がある事に気がついたり、出力されてくるデータが期待した結果になっていない事に気がついたりした場合、処理を中断したりすることが出来る。 それに対して、バックグラウンドプロセスは、直接人間が見張っている訳ではないので、途中で処理の方向性を変更する事は出来ない。 もっとも全ての処理は任意にフォアグラウンドに変更したり、バックグラウンドに変更したり出来る。 ただし、ある時点で存在できるフォアグラウンドプロセスは、必ずひとつだけだ。

何故コンピューターは同時に複数の処理を行うことが出来るのだろうか。 実は、コンピューターは実際に同時に複数の処理を行っている訳ではない。 これは、人間が掛け持ちでアルバイトをする様な物だ。 人間は、月水金は引越のバイト、火木土は清掃のバイト、日曜日は休み、という様に、曜日を分けているからこそ、掛け持ちでアルバイトをすることが出来る。 これと同じようにコンピューターも極細かな時間で処理を分割し、複数の処理を順番に少しずつ少しずつ片付けていく。


複数の処理を同時に行えば、たくさんの仕事があっという間に片付くかといえば、そうではない。人間が持っている時間には限りがある。 持っている時間には限りがあるのは、人間もコンピューターも同じである。 清掃のバイト・レストランで皿洗い・引越しの手伝い・と仕事を増やしたとしても、一人の人間が一ヶ月で働く事が出来る時間はせいぜい200時間程度である。 窓拭きのバイトをする。 あるビルは全部の窓を拭き終わるまでに1人で1ヶ月かかるとする。 そんなビルを3つ掛け持ちで働いたとしたら、恐らく全部の仕事が終わるまでに3ヶ月かかるだろう。 結果的に得られる収入は変わらない。 これと同じ事がコンピューターにも言える。 処理の数が増えれば増えるほど、処理全体が終わるまでにかかる時間は伸びる。 人間が掛け持ちでバイトをすれば、現場の移動に時間やお金がかかる。 コンピューターも処理と処理を切り替える為には時間がかかる。 ひとつの処理に集中して処理を行った方が速いに決まっている。

人間というのは、アルバイトの雇用主みたいなところがある様に思う。 ひとりの人間はひとつの事しか出来ない。もちろん1人の人間に複数の処理を行わせる事も出来るが、時間がかかる。そんな時、ひとりの人間が複数のバイトさんを雇えば、複数の処理をまかなう事が出来る。 あるバイトさんを雇って仕事を覚えるまでは、つきっきりで仕事を教えなければいけない。 これはフォアグラウンドプロセスだ。 一度覚えてしまえばバイトさんはひとりで働いてくれる。 つまり手が離れる。 こうして手が離れたバイトさんはバックグラウンドプロセスだ。

コンピューターは、人間と似ている様に僕は思う。 たくさんバイトさんが居ても、バイトさんが遊んでばかりいたら、処理は終わらない。 よく働くバイトさんが居たら、バイトさんが少なくても早く処理が終わることもある。

... さて、僕はこういう事を思った。 フォアグラウンドプロセスや、バックグラウンドプロセスというのは、まるで、人間の意識・無意識の様ではないか。 僕等は、日頃色々な複数の雑用を同時に片付けている物だ。 僕等の時間には限りがある。 時間を分けて、あの時はあの仕事・この時はこの仕事と、頭を切り変えて仕事をするものだ。 ある瞬間、ある仕事をする、というのは、コンピューターで例えれば、ある仕事をフォアグラウンドプロセスに切り替えた様な物だ。 しかし、僕等の頭にはたくさんのバックグラウンドプロセスが実行されている。 つまり無意識配下では、色々な心配事をしている物ではないだろうか。 あの仕事の打ち合わせ場所はどうするかとか、あそこの資金繰りはどうするかとか、今日の晩飯は何を食おうかとか。

もしも人間が本当にコンピューターと同じだったら、バックグラウンドプロセスで実行されている処理が多ければ多いほど、処理が完了するまでの時間は長くかかる筈だ。 本当にそうなるだろうか。 僕は、今、なるんじゃないか、という気がしている。

僕は、色々なしがらみを立ちきってきたけど、いくつかの物は今でも大切に保管している。 その「いくつかの物」の1つは、インターネットサーバーだ。 僕はここで自分のホームページを運営している。 僕は、これだけはと思ってずっと守ってきた。 だけど、これが僕の頭をずいぶんと占有して鬱陶しく感じてもいるのだ。

僕は創造的である事を何よりも大切にしている。 創造的であるためには、自分の周囲にある物が少なければ少ないほど良い。 そう思って、僕は創造的に色々な物を作り続けてきた。 だけど、自分が作った物自体が、自分を縛りつづけるという事が、ある様な気がするのだ。

この5年間で僕は劇的に変化した。5年前、僕は日本語しか話せなかった。 価値観も変わった。 人生観も変わった。 世の中の裏表もたくさん目にしてきた。 その中で、僕が今まで大切にしてきた物の、大半は、実は僕に取って必要のないことである事に僕は気がついた様な気がする。

もう1つはPHSの電話番号だ。 これも15年に渡って利用しているが、もう必要無い様な気がしている。 メールアドレスとSKYPEがあれば充分だ。 日本におらず利用していないのに、固定費として無意味に出費がかさんでいる。 最後の1つは、過去の本や資料を保管している倉庫だ。


物を持たずしがらみを捨てるというのは、つまり人間としての活動を停止するのと同じ様な気がする。 しかしそこに絶対に残る物があるのではないだろうか。 それこそが本当に人間に取って大切なものである様な気がする。 これを「何も持たない」と呼んでみる。 僕は、将来会社の経営をしたい。 会社を持つということはしがらみをたくさん増やす、ということだ。 会社を作るというのは「何も持たない」と対極な位置にある様な気がする。 「何もない」という状況は、実は「無限に持つ」という事の対極でありながら、同時に「何もない」と「無限に持つ」は同じ事なのではないか、と僕は思う。


無限に持つというのは、すべからく、自分が欲しいものを持つべきだ。 ところが、往々にして、僕等は何か欲しくない物ばかり、たくさん持ってしまうようだ。 「何も持たない」を知る必要は、ここにある様な気がする。 わからないけど。

今は、もう何かとにかく、持っている事が鬱陶しい。持っていればお金も出て行く一方だし。 自分がやりたいことに集中したい。

Wed, 09 Feb 2011 02:30:43 +0900

コメント一覧
うう   2011年02月09日 10:33
あたしも
持っていることの喜びより、
持っていない気楽さがのほうが、
どちらかというと大きい部類の人間だと思う。
持ってることで喜びのあるものだけを
持って生きていけたら最高だねぇ。
 
出展 2011年02月09日02:32 『何もない』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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