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2008年11月14日金曜日

大切なものは目に見えない (mixi05-u459989-200811140124)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
大切なものは目に見えない
2008年11月14日01:24
前、ミクシ自己紹介文の「好きな言葉」の欄に「大切なものは目に見えない」っていう言葉を英語に訳してかいている人を見かけた。 Important thing is invisible というようなことが書いてあった。

日本語が分かる人には理解できるけど、英語しか分からない人には絶対わからない英文だと思ったことを覚えている。 で、英語で正しくはなんと言うかいろいろ考えてみたけど、どれもあまりぴったりこなくて、そのままになってしまった。

さっきネットを徘徊している時気がついた。 今までしらなかったのだけど、この言葉って星の王子様のなかに出てくる言葉であるらしい。 つまり元々はフランス語なんだそうだ。

フランス語 : "On ne voit pas bien qu'avec le cœur, l'essentiel est invisible pour les yeux."
英語: "One cannot see well except with the heart, the essential is invisible to the eyes."

で、実は、これを「大切なものは~」と日本語に訳した人はウィキによると、内藤濯という人らしい。



つまり、この文章の元々の意味は、実は「本質は人の目からは見えない」というような意味だったのだ。

このことは、僕にとって充分、ショックだった。
実に、実に、実に、色々なことを思った。

「本質」という言葉は、論理や抽象の世界で極めて重要な言葉だ。 しかしその大切な言葉をあっさりと「大切なこと」と訳した内藤濯は、大変な罪を作り出したと僕は思う。「本質」と「大切」の間には想像を絶する大きな意味の違いがある。 しかしこれを「本質」と訳したらきっと星の王子様はこれほどポピュラーにはならなかっただろう。


つっきーや、fugaさんが見たらどう思うだろう...




最近、日本語の文献を読むと、なんとも不愉快なひどい違和感を感じてたまらなくなってきた。 僕は日本人だし、日本語が一番よく分かる。 しかも僕は日本語しか書けない。 だけど、近頃、日本語の文章を読み書きし、日本語を話す人とコミュニケーションをとると、大変なストレスを感じるようになってきた。

なぜかというと、日本人には絶対に超えられない不思議な壁があるからだ。 僕は相手にその壁の存在を伝えようと必死になるのだけど、日本人は『絶対に』 理解しない。 僕は『絶対』という言葉を使うのは好きではない。 だけど日本人は絶対に理解しないといって差し支えないほどに、理解できる確立が低い。

「それ」が、どれほどに日本人以外の人から奇異な目で見られているのか、「それ」が、どれほどに日本人以外の人にとって失礼なことなのかを、現実から手づかみでむしりとって、顔面をめがけて投げつけてやりたいような衝動に駆られる。 しかし彼が日本人である限り、何をしてもどうやっても理解できない。

「それ」の存在は例えば、僕の周りにいるような、タイ人とか、イギリス人とかだと、実に、スッと理解できるのだ。 このことは僕を凄く安心させる。

  多分だけど、日本人っていうのは、国民性として、本質的に「自閉症的」なんだと思う。

なんというか... 日本人って外国人を「物」の様に見ているというか...
そもそも日本人にとっては、他人が「物」でしかない、というべきか...。



話は変わって、論理の話。 例えば、排中律っていう言葉がある。 これについて日本語WIKIで調べたとき、もうどうにもならないような不愉快さでいっぱいになった。 これって「ある」の反対は「ない」で「ない」の反対は「ある」です、っていうそれ以上の意味はない。 しかし、どうやったらああやって難しく難しく書き連ねることが出来るのだろう。 まるで難しい文章を書ける自分に酔いしれているような感じだ。 目的が「考える」ということから、はるかかなたに飛び去ってしまっている。 これも日本人の自閉症的な自己愛とすごく結びついているような気がする。

しかも同じ意味の言葉なのに訳語によって意味がバラバラなのだ。 訳された年代とか文脈によって違う言葉として認識され、異なる意味として訳されてしまっている。 ところが、こういう「明らかに」間違ったことに関して討論しようとすると、かならず自己愛が傷ついて猛烈に反発する人間が現れる。 こういう「男の子」を相手にすると、大変な時間の浪費になる。 時間がかかるわりに、結局問題が解決されず放置されることになる。

タイ人をバカにする日本人は多いが、この点、日本人はタイ人よりよっぽど酷い。



日本人はすぐに「いろいろな考えの人がいるからなぁ」という。 確かに、世の中、色々だ。 確かに世の中に、色々な考えの人がいることは間違いない。 しかしである。 日本人って言うのはどうしても、世の中に唯一絶対に正しい事実がひとつだけ存在する、という事実を受け入れられないでいるような気がする。

1+1は2である。 『ある』の反対は『ない』だ。 これは親が死のうが子が泣こうが絶対に変わらない事実だ。 だけど、そういう「絶対的」な事柄について話していると、必ず「まぁ色々な考え方の人が居るからなぁ」という風にいい始める人が現れる。 僕はその誤解を解決しようとして説明に躍起になる。 する次に「キミは頑固だ」になる。 そうじゃない。 何とか理解してもらうために更に説明を続ける。 すると最後は「それはキミの考え方だ!」になる。 更に論理的に矛盾点をつめていくと、最終的に彼の怒りは頂点に達する。

これは単に、僕が云わんとしていることが彼の理解を超えているのだけだと思う。 でも僕はそれはそれで構わないと思ってる。 理解を超えたからといって彼が人格的に否定される必要は無い。

僕は思う。 つまり、「理解できる」という能力は、日本人独特な「自己愛」と密接に結びついていて、どうやっても「理解できないという事実」を受けいれることができないのだ。 別に理解できないということは人格の否定にならない。 ただ単に理解する努力を続ければいいだけの話だ。 また、続ける必要もない。 続ける続けないは、その人の自由だ。 ただ「理解できない」という事実だけは認めなければいけない。 物事が前に進まなくなるからだ。 この点が日本人には、どうやっても理解できない。





僕もこうして感じる違和感を、こうやってミクシで書き散らすことにも、大分限界を感じるようになってきた。 当然、ブログなんてもっての他だ。 大荒れになり、喧嘩別れになるだけである。

しかしである。 僕は、そういうイギリス人やタイ人たちと本格的に付き合っていけるほどの、語学力が無い。 特に読み書きに関して非常に大きなネックがある。



しばらく、「断食の修行」をしようかな思う。 何って「日本語読み書き」の断食だ。
今まで、日本語を話さない断食はしてきた。 日本語を聞かない断食もしている。

だけど、インターネットがこれだけ発達した現代では、母国語読み書きの断食は相当強い意思が無いと出来ない。 世界中、どこにいても、自国に居るのと同じような環境で読み書きができてしまうからだ。 どうしても意思が弱いので、日本語を読んで、日本語でグチを書いてしまう。

だから、しばらく mixi から抜け出て、 英語やタイ語でブログをつけてみようかなと思う。

とりあえず、ブックマークから日本語の情報ソースは削除した。
すぐにはムリだと思うけど、すこしずつやっていこうと思う。


コメント一覧
おかあつ   2008年11月14日 03:33
ま、でも気がつけば、日本語サイトのリンクなんて、ミクシ入れても3~4つしかなくなっている、という説もある。 あぁあ。
風我   2008年11月14日 17:45
『星の王子さま』と言えば
ジュネーヴでは小学校の初めての国語(仏語)教科書でしたが
日本の小学生に「本質は...」と読ませたところでぴんと来ないかも。
この例では「見た目」より「感じた感」が大事といったメッセージが
伝わるかどうかだったように記憶しています。

どの言葉で訳されたかも大事ですが、おかあつさんの仰る通り、
本質的なメッセージを「真に理解」できるかできないかは
言葉を越えている領域だから難しいですねw
おかあつ   2008年11月14日 20:36
fugaさんのコメント、実にホッとするのです。
読んでいてくれて、本当にありがとうございます。

ジュネーヴ(というかジュネーヴで学校に行ってたんですね)では 星の王子様を小学生で読むんだ...。 わからないけど、日本だと教科書にはでてこないんじゃないだろうか...。 高校生ぐらいの英語の教科書に出てくるんじゃないだろうか...。

風我   2008年11月14日 20:51
原文は仏語なので仏語圏では必ず国語の時間に採用される作品で、
作者が実際に砂漠でエンストを起こしてしまい、
生きるか死ぬかという状況の中で
忘れていた子供心を見出した体験が元になってるからなのか
子供が話すような文体で書かれているのが特徴なんです。
ただ、子供が読んでも「見えなかった」メッセージも含まれていて
例えば「大切なこと」って何?という疑問がわくかどうかにも
この作品の意義があるのでしょうね。
おかあつ   2008年11月14日 21:11
書いてから思ったんですが、なんていうか、essential って 「水は生きるために essential です」っていうときと 「原子は、中性子や陽子など色々なもので出来ていますが、その essential は クオンタムなんです」っていうときとあるように思うんです。

前者だと「(生きるために)大切な」って言う意味で、上記の日本語訳がそのままピッタリだと思うんですが、そこから疑問を持って発展して、だんだんと高度な後者の方にたどり着くところが、なんというか味があるというか、ミソというか、そういう気がするんです。

どちらだとははっきり名言していないですが、その微妙さに直感的にたどり着いて思いを馳せるような感覚がこの話の面白いところじゃないかって思うのです。

>The essential difference between Sara and me is in our attitude to money.

oxfordにこういう例文があったんですが、日本だと、そういう本質を明らかにしない態度がどこかにあるように感じてならないんです。 奥ゆかしい、とかいって。

>例えば「大切なこと」って何?という疑問がわくかどうかにも

確かに、そうだと思います。 そうですね。
そういう意味では「大切なこと」で充分正しかったのだと思います。
ちょっと冷静になりました。


今回、なんと言うか、こういう「本質」を明らかにしない日本の習慣と、このessentialを「大切」と訳したこのことが、僕の中で重なってしまったんです。




# そういえば「徘中律」って、考えてみたら「奥ゆかしい」と全く相反する考え方だよな...。
 
出展 2008年11月14日01:24 『大切なものは目に見えない』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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