偽読書感想文・発見ソフト
2008年07月23日04:41
昨日の読売新聞に、偽読書感想文・発見ソフトと言うものを作っている先生が居ると言う記事が出ていた。 何でも、ちかごろは、学生が、読書感想文を書くとき、ネットで検索した文章をそのままコピペして改ざんしたうえで、学校に提出してしまうらしいのだ。 これを見抜くのが非常に難しいということで、ある先生が、ある文章とネットの文章を比較して類似度が高いものを発見するようなアルゴリズムを考えたらしい。
そのシステムが優れたものか、欠陥があるのか、わからないけど、それとはまた別に、この話を聞いたとき、僕は一抹の違和感を覚えた。
何故だろうか。 暫らく考えた。 これはこういうことではないか。
本来、読書感想文を書くとき、ネットからコピペで書こうが、自分で創意工夫をして考えようが、それはそいつ自身の問題のはずだ。 そいつ自身がそれでよいと思えば、ネットからコピペすればよい。 そいつ自身がコピペではダメだ、と思えば自分で書けばよい。 そういうものじゃないだろうか。
これはあくまでも自分自身の問題だ。
◇
しかし、それではまずいと思っている人がいるから、まずいのだろう。 何故、それではまずいのか。 これは結局、行きつまるところ、ブランドという神話の崩壊なんじゃないかと思う。
結局、必要なのは卒業証書だ。 こうやってインチキをしても大学卒業の証書はもらえる。 もちろん、一生懸命書いても、証書はもらえるが、同じもらえるならそりゃ楽なほうがいいに決まってる。 楽してもらった証書でも、就職の役には立つ。 役に立つのだから、それでよい。
しかしである。 そもそも、読書感想文を書くと言う事は、自分の中にあるテーマを決めて自分が持っていなかった新しい哲学を内面に取り込む作業のひとつだ。 人間としてとても大切な作業で、有意義な事だと思う。 これをやらなかった人というのは、やった人と比べてしまうと、おのずと大きな違いが現れてしまうものだ。
何故インチキが何故問題になるかと言えば、卒業証書を使って人選している側が、この人間の中身の違いを見抜けないからじゃないだろうか。 差が見抜けないからこそ、卒業証書をみて、判断基準にしている。 その判断基準が「インチキ」のことがある場合がある、ということがわかったから問題なわけだ。
しかし、だ。 思うのだが、どうせ、差がわからないなら、インチキをしていようが、していまいが、どっちでもいいじゃないか。
◇
だいたい、大学なんかで宿題に出される読書感想文なんかに、真剣に創意工夫を凝らして提出したところで、バカバカしい。 誰も真剣に読んじゃ居ないし、たまに賞に出ることがあっても、それは、ある意味、非常に無難ないい子を演じた毒のない文章に限られる。 こういうところに心血を注ぐ人というのは、よほどのバカ正直だろう。
だから、これをコピペで済ませて、より有意義な海水浴とかキャンプとかのアクティビティーに時間を使おうというのは、まったくもって合理的な判断だと思う。 また、こういう青春を謳歌する行為が、結果的に、将来、社会に出てから即座に武器としてつかえるような、貴重な経験=人間関係スキルを身につけるチャンスになる場合も多い。
だいたい、自分が有意義さを感じられていないものを、むりやりやらされたところで、得るものはない。 人生の浪費だ。 イヤイヤにやっているくらいなら、別な事をやったほうがよほど有意義だ。 そうやって、自分が有意義だと思えることだけをやって来た人というのは、これもまた、目の輝きが違う。 みればすぐにわかる。 わからなければいけない。
しかし、それが見抜けないから、上記のソフトが必要になるのではないか。
◇
なんというか、ブランドって、自分の見る目のなさが故の危険に対する保険のようなところがある。 本当なら、自分自身の心眼・洞察力を鍛えてことにあたるのが本筋のはずだ。 しかし、それを身につけるのが、時間的・経済的・能力的に難しいからこそ、ブランドという担保が欲しくなるのではないか。
結局、コピペするほうも、コピペされるほうも、何にも違いがわかってない、寿司屋のバカな客のようなものだ。
これをソフトウェアで検知できるようにしたとして、一体誰が幸せになるんだろうか。
そのシステムが優れたものか、欠陥があるのか、わからないけど、それとはまた別に、この話を聞いたとき、僕は一抹の違和感を覚えた。
何故だろうか。 暫らく考えた。 これはこういうことではないか。
本来、読書感想文を書くとき、ネットからコピペで書こうが、自分で創意工夫をして考えようが、それはそいつ自身の問題のはずだ。 そいつ自身がそれでよいと思えば、ネットからコピペすればよい。 そいつ自身がコピペではダメだ、と思えば自分で書けばよい。 そういうものじゃないだろうか。
これはあくまでも自分自身の問題だ。
◇
しかし、それではまずいと思っている人がいるから、まずいのだろう。 何故、それではまずいのか。 これは結局、行きつまるところ、ブランドという神話の崩壊なんじゃないかと思う。
結局、必要なのは卒業証書だ。 こうやってインチキをしても大学卒業の証書はもらえる。 もちろん、一生懸命書いても、証書はもらえるが、同じもらえるならそりゃ楽なほうがいいに決まってる。 楽してもらった証書でも、就職の役には立つ。 役に立つのだから、それでよい。
しかしである。 そもそも、読書感想文を書くと言う事は、自分の中にあるテーマを決めて自分が持っていなかった新しい哲学を内面に取り込む作業のひとつだ。 人間としてとても大切な作業で、有意義な事だと思う。 これをやらなかった人というのは、やった人と比べてしまうと、おのずと大きな違いが現れてしまうものだ。
何故インチキが何故問題になるかと言えば、卒業証書を使って人選している側が、この人間の中身の違いを見抜けないからじゃないだろうか。 差が見抜けないからこそ、卒業証書をみて、判断基準にしている。 その判断基準が「インチキ」のことがある場合がある、ということがわかったから問題なわけだ。
しかし、だ。 思うのだが、どうせ、差がわからないなら、インチキをしていようが、していまいが、どっちでもいいじゃないか。
◇
だいたい、大学なんかで宿題に出される読書感想文なんかに、真剣に創意工夫を凝らして提出したところで、バカバカしい。 誰も真剣に読んじゃ居ないし、たまに賞に出ることがあっても、それは、ある意味、非常に無難ないい子を演じた毒のない文章に限られる。 こういうところに心血を注ぐ人というのは、よほどのバカ正直だろう。
だから、これをコピペで済ませて、より有意義な海水浴とかキャンプとかのアクティビティーに時間を使おうというのは、まったくもって合理的な判断だと思う。 また、こういう青春を謳歌する行為が、結果的に、将来、社会に出てから即座に武器としてつかえるような、貴重な経験=人間関係スキルを身につけるチャンスになる場合も多い。
だいたい、自分が有意義さを感じられていないものを、むりやりやらされたところで、得るものはない。 人生の浪費だ。 イヤイヤにやっているくらいなら、別な事をやったほうがよほど有意義だ。 そうやって、自分が有意義だと思えることだけをやって来た人というのは、これもまた、目の輝きが違う。 みればすぐにわかる。 わからなければいけない。
しかし、それが見抜けないから、上記のソフトが必要になるのではないか。
◇
なんというか、ブランドって、自分の見る目のなさが故の危険に対する保険のようなところがある。 本当なら、自分自身の心眼・洞察力を鍛えてことにあたるのが本筋のはずだ。 しかし、それを身につけるのが、時間的・経済的・能力的に難しいからこそ、ブランドという担保が欲しくなるのではないか。
結局、コピペするほうも、コピペされるほうも、何にも違いがわかってない、寿司屋のバカな客のようなものだ。
これをソフトウェアで検知できるようにしたとして、一体誰が幸せになるんだろうか。
コメント一覧
まはヴぃーら 2008年07月23日 15:34
僕はすごい昔にバイト先の同僚の女子大生の読書感想文を
代筆したことがあります。
ネットからの引用、、、まだ自分でやってる分だけマシです。
代筆したことがあります。
ネットからの引用、、、まだ自分でやってる分だけマシです。
退会したユーザー 2008年07月23日 23:04
引用は、研究に欠かせないと思います。しかし、出典を明記せず、あたかも自分が書いたような引用のしかたは、次の理由により、もっと重く考えられてもいいはずなのです。
・罪の意識なく剽窃している
・原作者に対する尊敬の念を欠いている
私は学生ですが、学生のレポートは、内容はてきとうでも、所定の字数を書き上げればOKなところは確かにあります。本を頼りにレポートを書く知人は多いです。でもそれは良いことだ。文章は「結果を書き残したもの」ではなくて、「書きながら考えるもの」だから、自分の考えに固執せず、引用をしまくるべきなのです。引用しながら考察することで、知見は広がる。次の箇所は、すごくそうだとおもいました。
>しかしである。そもそも、読書感想文を書くと言う事は、自分の中にあるテーマを決めて自分が持っていなかった新しい哲学を内面に取り込む作業のひとつだ。人間としてとても大切な作業で、有意義な事だと思う。これをやらなかった人というのは、やった人と比べてしまうと、おのずと大きな違いが現れてしまうものだ。
ところが、引用の出典を書かない人もいると聞きます。それは、やはり危険だと思うのです。しかも、文章を改変して写すケースがあるというのには、驚きました。剽窃は、原作者を踏みにじる。とはいえ、あまりにも立派な文章が盗まれた場合、とった人がその重みに耐えられずこけて恥ずかしい思いをする。泥棒が盗品にやっつけられる。(出典を書けばいいだけのことなのに、なぜ書かないのだろう。書いたら、オリジナリティーのない文章のパッチワークであることがばれてしまうからだろうか・・・。)
今、学士の質の低下が問題視されています。(大学はますます卒業生の質を保証しなければならなくなってきている。)仕事の能力の欠如も問題ですが、窃盗と引用の区別のないことはさらに危ぶまれます。教授が楽してにせ文章を発見できるソフトの必要も、わかる気がしました。
追伸。
学歴で人の能力を推量するのは、たしかに根拠のないやり方だとおもいます。
・罪の意識なく剽窃している
・原作者に対する尊敬の念を欠いている
私は学生ですが、学生のレポートは、内容はてきとうでも、所定の字数を書き上げればOKなところは確かにあります。本を頼りにレポートを書く知人は多いです。でもそれは良いことだ。文章は「結果を書き残したもの」ではなくて、「書きながら考えるもの」だから、自分の考えに固執せず、引用をしまくるべきなのです。引用しながら考察することで、知見は広がる。次の箇所は、すごくそうだとおもいました。
>しかしである。そもそも、読書感想文を書くと言う事は、自分の中にあるテーマを決めて自分が持っていなかった新しい哲学を内面に取り込む作業のひとつだ。人間としてとても大切な作業で、有意義な事だと思う。これをやらなかった人というのは、やった人と比べてしまうと、おのずと大きな違いが現れてしまうものだ。
ところが、引用の出典を書かない人もいると聞きます。それは、やはり危険だと思うのです。しかも、文章を改変して写すケースがあるというのには、驚きました。剽窃は、原作者を踏みにじる。とはいえ、あまりにも立派な文章が盗まれた場合、とった人がその重みに耐えられずこけて恥ずかしい思いをする。泥棒が盗品にやっつけられる。(出典を書けばいいだけのことなのに、なぜ書かないのだろう。書いたら、オリジナリティーのない文章のパッチワークであることがばれてしまうからだろうか・・・。)
今、学士の質の低下が問題視されています。(大学はますます卒業生の質を保証しなければならなくなってきている。)仕事の能力の欠如も問題ですが、窃盗と引用の区別のないことはさらに危ぶまれます。教授が楽してにせ文章を発見できるソフトの必要も、わかる気がしました。
追伸。
学歴で人の能力を推量するのは、たしかに根拠のないやり方だとおもいます。
おかあつ 2008年07月23日 23:27
まはヴぃーらさん、
>僕はすごい昔にバイト先の同僚の女子大生の読書感想文を代筆したことがあります。
僕は本を読んで読書感想文を書くとか言う事は、結構好きなことなので、面白い思いをして、しかも「おいしい思い」出来るなら、僕も代筆やりたいなあ。
... で、まはヴぃーらさんはどういうおいしい思いをしたのでしょうか(^-^)
デジタルプリンさん、
確かに。 また、よく考えてみると、読書感想文に限らず、文章の類似度と作成日付から、オリジナルを検索する技術っていうのは、今、必要なのかもしれないですね。
>僕はすごい昔にバイト先の同僚の女子大生の読書感想文を代筆したことがあります。
僕は本を読んで読書感想文を書くとか言う事は、結構好きなことなので、面白い思いをして、しかも「おいしい思い」出来るなら、僕も代筆やりたいなあ。
... で、まはヴぃーらさんはどういうおいしい思いをしたのでしょうか(^-^)
デジタルプリンさん、
確かに。 また、よく考えてみると、読書感想文に限らず、文章の類似度と作成日付から、オリジナルを検索する技術っていうのは、今、必要なのかもしれないですね。