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2010年8月21日土曜日

「日本人なのに日本が外国みたいになってしまっている人」 (mixi05-u459989-201008210546)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
「日本人なのに日本が外国みたいになってしまっている人」
2010年08月21日05:46
「日本人なのに日本が外国みたいになってしまっている人」

(T君へ)

僕はよく思うのだけど、日本には「日本人なのに日本が外国みたいになってしまっている人」というのがいる。 つまり、そこで生まれて、そこで育ったのに、その故郷に何か違和感を感じるタイプというのがいる。 自分はまったく普通に振る舞っているだけなのに笑われたり、自分が自然にそう思うことがまったく受け入れられなかったりする。

そういうタイプは知っている。 人間、みな同じじゃないという事を。 考え方も感じ方も違う。 だから自分の考え方が相手とどう違うのか、説明して話し合って理解を深める事が本当は必要だ。 自分が何故そういう考え方をして何故そういう行動に至ったのか、説明して話し合う必要がある。 だけど、そうしようとする人はごく少ない。 違和感を埋めるために必死に説明すればするほど、鬱陶しがられて余計に違和感を感じる結果となる。

そういうタイプは故郷で非常に苦しい生き辛い感じを持ちながら育つ。 当然周囲の人間は、そういう苦しみを理解できない。 理解できないどころか、変わり者狂人扱いすらする。


これはまったく一般的でない僕個人の考え方なのだけど、日本って言うのは日本人が思っているよりもずっと複雑な民族構成をしているのだと思う。

近代以前は、日本人は徒歩以外の交通手段を持っていなかったので、地元から出るということはほとんど無かったのではないかと思う。 地元の人と結婚して子供を生んで地元で育てる。 地元で育った子供は、地元の子供と結婚してまた子供を生む。 すると特定の地域に特定の特色(顔つき・性格・考え方)を持った人たち反映し独自の文化を発展させる事になる。

その様な中で、日本はいわゆる「暗黙の常識」文化を発展させてきた。 もしもその「暗黙の常識」を破るような事をすれば「常識が無い」非常識な奴だという事になり、敬遠される。 しかし、このシステムがある程度上手くいくためには、その中の人間が同じ感性をしている必要がある。

ところが日本はこの百数十年あまりで、国中に電車を敷き詰めてしまった。 世界有数の高速鉄道新幹線は、日本の端から端まで、どこでも最長でも24時間以内に移動出来るようにしてしまった。

これは日本の中の民族構成を引っ掻き回す結果となったのだと思う。 こうなると、もはや、これまでの同質コミュニケーションが成り立たない。 きちんと自分の考え方や感性を標準化された記号にしたがい、厳密に記号化してコミュニケーションする以外に無い。 こういう新しいコミュニケーションを僕は「異質コミュニケーション」って呼んでいる。

あらゆる地方から人が集まってくる都会に出ると、同質コミュニケーションなんて絶対に出来ない。 きちんと「異質コミュニケーション」を成立させる必要がある。 しかし、リテラシーという言葉があるけど、この「異質コミュニケーション」をきちんと成立させるためには、ある程度訓練や練習が必要だ。 都会では 「異質コミュニケーション」がヘタクソだとバカにされたりするので、取り敢えず「出来るフリ」をする必要がある。 つまり、あまり深く付き合うとボロが出るので、人とあまり深く付き合わないタイプが増える。

つまり、日本人の伝統的なコミュニケーション手段は既に破綻している。

日本には、特定の出身県を持たない人がたくさん居る。 つまり両親や両祖父母の出身県がバラバラな人がいる。 外国人とのハーフの人も少なくない。(それは朝鮮から来た人や中国から来た人も含まれる。 アジアハーフは、外国人と顔の見分けがつかないので、殊更に同質コミュニケーションを求められる結果となり、更に深く悩む結果となる。) こういう人は、特定の地域の感性を共有出来る人が存在しない。 また、当然、ハーフでなくとも、出身県と生活県が異なるというのも、深刻な問題になりうる。

こういう非同質な日本人は、どんどん増えているけども、まだまだ少数派なのではないかと僕は思う。

Sat, 21 Aug 2010 03:04:33 +0700

そういう中では、自分が人と違うということに対して、卑屈になってはいけないと思う。 他人から自然に受け入れられる経験が欠乏すると、どうしても性格が屈折してしまう。「いいよ、そのままで。 作るなよ。 お前は自然が一番いいんだ」ってまわりの人から言われ続けている人とはどうしても差が出る。 これは仕方がないことだ。 何をやっても「お前は変だ、もうちょっと自然にしろ、緊張するな」とか言われていると人は屈折してしまう。 どんなに屈折しないように努力しても、屈折してしまうのが人の常だと思う。

だけど、自分が人と違うということをはっきりと意識して、それを受け入れる事が出来れば、ある程度屈折を回避できることもある。 難しいことだけど、そういう方向で努力して昇華させる以外ないのだと思う。


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僕は、最近「ありがとう」を言わなくなった。 前はしつこいくらいに「ありがとう」を言っていた。 そもそも親切にされる事が少なかったし、親切にされたらきちんとお礼を言わないと、後で何を言われるかわかった物ではないという恐怖心からそうしていた。

だけど、最近、サラッと親切にして「ありがとう」と言われる事も期待しない人というのがいるのだ、と気がつく様になった。 「ありがとう」を言わなくても、受け入れてくれる人が居る。 そんな当たり前な事に気がつく様になった。 こういう人にしつこく「ありがとう」と言うと鬱陶しがられる。

一方、自分も「ありがとう」と言われる事を期待せずに人に親切にするようになった。 人に親切にしてもニコリともしないで、シレッとして通り過ぎる。 こういう親切の仕方はカッコがいい。

ありがとうはいわないけど、目を見ている。 それだけで通じている、みたいな。

そんな、ミクシ疲れと対極の世界。

コメント一覧
風我   2010年08月21日 08:33
>ミクシ疲れと対極の世界...
Mixiは互いの目を見ることができないからネ (^^)
せおはやみ   2010年08月21日 14:17
日本特有の「緊張した雰囲気」というものは、あると思いますよ。

長年、我々日本人は「予定調和」の社会的環境の中で生きてきました。

地方から大都会に移ってきた人ほど、
無言の「予定調和圧力」に晒されて、無駄な緊張感を味わい、
自縄自縛の日常を送ってきました。

特に、人口の大部分がいわゆる「地方出身者」で占められている東京では、
この「予定調和圧力」には侮りがたいものがあるのでしょう。

しかし私には、この「無駄な緊張感」が滑稽に見えてしまうことがあります。
それは私が生粋の関西人だということもあるのでしょう。

日本国中どんなところへ行っても、
大阪人、京都人は決して「その土地の言葉」や「仕来り」従いませんね。
臆面もなく、大阪弁で通すし、自分たちのやり方も変えません。

「あぁ、さよか、ワテ田舎者でっから知りませなんだ」
といなすだけで、同じ行為を繰り返します。

こんなところが関西人、特に大阪人が敬遠される理由なのでしょうが、
例え排斥されたとしても、彼らは鼻先でせせら笑っていますよ。

それは彼らの深層心理にどっかりと腰を据えた「上方意識」の所以です。
彼らは「どうせ東京人は田舎者やんけ」と心の中で信じているからです。

私は今も思うのですが、例えば山形県人はどうしてお国言葉で話すのをためらうのでしょうか?
堂々と自分のアイデンティティで勝負すればいいのに、と
ある時山形県出身者に話したことがあります。

それでこそお互いのコミュニケーションが活性化するのに。
しまけん(チカツ)   2010年08月22日 23:31
そりゃこういう文章をずっと書いていれば疲れるなぁ、ってわかりますよ…。
それにmixi疲れっていうのは、mixiって普段会えない人の関係性のメンテナンスが思うとおりに行かないからなんじゃないでしょうかね。
(会って話をしたらうまくやれるつもりだけど、mixi上じゃ話題が違うから、コメント返しにくいとかコメント返すのも億劫になるとか)


それはさておき…
日本人って器が広い人が少ないんだなぁ、という気がします。
人を受容したり落ち着いて話をしたりする経験もなく、人間関係の違和感や衝突があったら、一律に当人同士の関係を消そうとする方向に持っていき、「気まずい」という「無駄な緊張感」を常に持たないといけなくなる。
同じような感性ややり方をもってしかやらず、他の感じ方や考えを持ってる人、みんな盛り上がってるのに、休みたいという人を徐々に外していって、待ってあげられない。
相手が何かあったとき、その状況を察してあげられない。
悪いことをした人の全てを悪玉であると考える。

誰かさん(マスコミとかでしょうが)が決めたやり方を正しいものとして、それプラス同調圧力で変わってる相手に臨むものだから、二重の意味で変わってる人間を掬うコミュニケーションができてないな、という気がします。

受容する、違いを知る、自分は人と同じではないという経験は、きっと自分が「同じである」という枠から外れたことのない人、差異を感じたことのない人にはする機会がないのだろうと思います。
そんな人は、外の人間とコミュニケーションする必要はないのでしょうね。新しく会った人間を(顔がいい、エッチしてみたい人間以外は)除外して、軽く扱っても構わないと考えるようになる。
自分たちのいる同一の集団にいるためのことを考えていればそれでいい人なので、厄介です。
「そういう方向で努力」もきっとしないでしょう。

そうこう言ってる間に、違う人間同士が出会わないまま散らばって、悶々している気がしますね。彼らの多くも違いを前提した上で人と向き合うコミュニケーション手段を持たないままに。
這いよる謎の犬ピース   2010年08月23日 01:54
ミクシ疲れの部分でちょっと笑ってしまいました。
距離を持っているネットのコミュニケーションでも、
会話で深い関係になると、なかなか距離を取るのが難しくなる事ってあると思います。というか、渦中にいるのですが。。
現実より、あっさり疎遠になれるけれど、
向こう側にいるのが人間である以上は、そういう問題も出てくるのだろうな。
ましてや、地域が離れてる人が多いのだから
暗黙知もローカルルールも伝わらない事は多々ありますよね。。
でも、そこで一瞬でも、なにか伝わった瞬間が
楽しいとも感じます。
 
出展 2010年08月21日05:46 『「日本人なのに日本が外国みたいになってしまっている人」』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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