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2020年6月27日土曜日

普通をいうと人は普通に縛られる (oka01-jlkpbpgkomzkikme)


日本でもBlackLivesMatter をいう人が増えてきた。だがそれは結果的にそれがそれを言っている人自体が持っている差別心を浮き彫りにした。日本ではアメリカとは差別の形が大きく違う。それは差別だとはっきりわからない様に違う名前で呼ばれている。

普通という差別

日本では差別が差別だとはっきりわからない様な違う名前で呼ばれている。日本では差別を差別と呼ばずに普通と呼ぶ。

日本の場合、差別が『普通』という言葉に置き換えられて正当化され公然と差別がまかり通っている点が大きくことなる。「お前の髪型は普通ではない」「お前の服装は普通ではない」「お前の考え方は普通ではない」ありとあらゆる個人の自由が普通という一言で制限される。

普通という言葉は暴力だ。普通という概念自体が欺瞞だ。だからこそ僕は絶対に自分からは普通という言葉を使わない。

普通という言葉を使ってはいけない理由はそれが差別だからだけではない。普通をいうと普通に縛られるようになるからという理由もある。

『普通』という言葉を使って公然と差別的な言動をする人の気持ちには潜在的に『自分は普通だから差別されることは絶対にない』という理由のない安心感がある。その本質には日本人の多様性がある。日本人は古来から多くの大陸人が渡来しており非常に多様性が高い。だがそこには「多様であってはいけない」という漠然とした暗黙の了解がある。自分が異質なだということを認めてしまえば社会から村八分にされ生活していくことができなくなる。

日本には「多様であってはいけない」という漠然とした暗黙の了解がある。だからこそ、自分から積極的に『普通』という表現をつかうことで、自分が『普通』という輪の中に参加した実感を得ようとするのではないだろうか。そして積極的にその安全な輪の中から外側にいる人を攻撃することによって、自分の輪の中での立場を強化していく習慣ができたのではないだろうか。

だが実際には『普通』の定義は非常に曖昧で具体性がない。ある場所で普通のことでもそこから出てしまえば全く通用しないことはたくさんある。自分が普通で他人を断罪したら、次は自分がその普通で他人から断罪される番だ。

本来、だからこそ自分が考える普通の定義で他人の普通を断罪するような傲慢は厳しく戒めるべきことだ。自分の普通が他人の普通によって理不尽に断罪されない為にこそ、自分の普通で他人の普通を断罪するようなことがあってはいけない。自分の価値観を尊重して欲しいなら、まず他人の価値観を尊重しなければいけない。

 ─── だが自分の普通を他人に押し付ける人は後を絶たない。こちらがいくら相手の普通を尊重しても、相手はこちらの普通を尊重してくれない。

僕は最近、この普通という言葉が日本独特な差別抑制になっているのではないか、と思うようになった。『普通』という概念には面白い性質がある。

普通は自分自身を束縛する

普通という言葉を使う人は普通に縛られる。 普通の内容は時代や地域によってどんどん変化していく。だが普通でない人を差別対象として容赦なく攻撃している人は、自分が差別対象にならない為にそれがどんな普通でもそれに迎合する。それ以外に選択肢がないからだ。つまり普通を振りかざす人は、その普通を逆手に取られると、ありとあらゆる自由を束縛される結果になる。

結論

他者を普通という言葉で断罪する行為は明らかな差別だ。だがそれに納得してくれないなら「自分を普通だと考えること自体が普通ではない」と一言いえば充分だ。


著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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