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2020年5月27日水曜日

アホ関西人が日本中から嫌われる理由www (oka01-vwievbiskrsfirlg)


人は何故弱いものをいじめるのだろうか。 本田圭佑氏のツイートの中に潜む関西的な暴力性について説明してみた。
─── 弱いものいじめは良くない。だが果たして強い奴ならいじめてもいいのだろうか ─── その考えかたは結果として更にいじめを助長する。その理由について以下で説明した。


いじめという嘘

先日こういうツイートをみつけた

このツイートは関西的ないじめの構造をとてもよく表している。この発言自体が矛盾に満ちており不条理だ。僕がここから感じることは、弱いものをいじめるなという発言自体がひとつの巨大な弱いものいじめになっているということだ。何故ならば弱いものをいじめる人は必ず弱い人だからだ。いじめは弱い人がやることである以上、その「弱い者いじめはやめろ」という発言自体が弱いものいじめる構図を顕している。これでは弱いものは更に脅威を感じて自分を弱く感じて更に弱い者いじめをエスカレートさせるだけだ。

そこに気が付かないといじめはなくならない。

そもそも『弱いものいじめはよくない』という発言自体が無意味なものだ。何故かというといじめに興じる人は必ず弱い人だからだ。弱い人は、自分が弱いという劣等感を跳ね返す為に、自分よりも強いと錯覚している人(それは芸能人だったり東京人だったり他所からきた転校生だったり)を探しだして攻撃する。それがいじめの本質だ。いじめている人にしてみれば、自分よりも強いものを攻撃しているだけだから、弱いものをいじめているという意識はない。

このツイートを見てそうだそうだ!と賛同して言っている人が300万人以上もいること自体が不気味だ。このツイート自体がひとつの巨大な弱いものいじめの様相を顕している。

人は何故いじめるのか。それはいじめが暴力のマイルドな言い換えだからだ ─── 関西人はいう・・・『暴力は良くない』『弱い者いじめも良くない』  ─── だが強い者をいじめるのはいじめではない。悪者はいじめられても仕方がない。 暴力をいじめと言い換えることによって暴力が婉曲に正当化される。

この論理は関西独特なものだ。以下でその独特さについて説明する。

この記事を書いた著者について

本題に入る前に少しだけ自己紹介させて頂きたい。この記事を書いている僕は関東生まれ関東育ちだが100%関東人ではない。先日調べてみたところ合計半分程度は江戸っ子で合計半分程度は関西人だった。

だから僕は関東で今なお周囲の人と感覚が全く合わないことを日常的に感じている。東京で生まれ東京で育ったのに周囲の人と全く感覚があわない。音楽の好みから始まり食べ物の好み・生活習慣・歩き方礼儀作法等々全てに渡って常に違和感を感じながら生活してる。 関西から上京した関東2代目は通例新興住宅地に住んでいることが多いのだが、僕は上京一家三代目にして色々な経緯から決定的に江戸っ子が多い特殊な地域(漁師が多い海沿い)に住むことになってしまった。これが僕の違和感を更に強めているらしかった。

そういう特殊な生育歴の僕から東京でのいじめを見るといくつかのケースに分類できることにも気付く。関西人と関東人の見分けが付くようになると(※ 多民族社会の関東育ちだと関西人を見分ける能力が身にがつかないのだが僕は海外生活の中でそれを身につけた)関西人が多い場所で関東人がいじめられてるケースと、関東人が多い社会で関西人がいじめられているケースの両方と出くわすことに気付く。そこに気付くととても複雑な思いにさせられる。

そういう違いを日常的に見ていると関西独特ないじめの心理があることに気付くのだ。それを以下で説明したい。

暴力を肯定する関西人


関西人はいじめを無意識のうちに肯定している。いじめはよくない、よくないと連呼しているのに一向になくならないいじめ。それは銃はよくない、よくないと連呼しているのに一向になくならないアメリカの銃社会とどこか似ている。

アメリカの銃社会では銃保持が自分の身を守る根源的な権利であるという開拓者時代の文化が残っているからだ。ここまで大きく発展して治安も良くなったアメリカで銃を使わないと身も守れないという状況はとっくに廃れている。だが発展した社会のなかに適応できない不満から生まれた劣等感を補う形で銃保持が残っている精神的な弱さを持つ人であればあるほど銃にこだわる

日本のいじめ社会も似た側面がある。自分の集落にやってくる他集落の『強者』が自分らの生活風紀を破綻させてしまうことを防ぐため色々な遠回しな攻撃(村八分)によって追い払うのがそもそものいじめの由来だ。

しかし時代は既に21世紀で交通機関も発展し多様化が進んだ。更に治安も安定したなかでいじめは過去の遺物になっている。 だがそれが発展した社会のなかに適応できない不満から生まれた劣等感を補う役割としていじめが残っている。そして精神的な弱さを持つ人であればあるほどいじめにこだわる

強いものいじめはよくない

『弱いものいじめはよくない』という言葉の裏側には『強いものであればいじめてもよい』という暗喩が潜んでいる。いじめはよくないということは言っていても、そこに『弱いものに限る』という限定条項がついている。相手が強い奴ならいじめても良いのだ。

これは明らかに間違っている。何故なら相手が弱者であろうが強者であろうが暴力はよくないというごくあたりまえな視点が抜け落ちているからだ。それがいじめであろうがなかろうが暴力は犯罪だ。

自分をいつも弱いと感じている人からみると周囲の人は常に自分よりも強い人だ。だからその人にとっては誰を攻撃しても弱いものいじめにはならない。いじめを客観的に観察すると、いじめられている人が弱者であるというそれ以上にいじめる人も弱者だ。いじめている人にとって、いじめの対象は弱者という認識ではなく飽くまでも強者だ。いじめている人には弱者をいじめているという感覚はない。それは飽くまでも反抗に近い感覚だ。

だから「弱いものいじめはやめよう」と言っても絶対に弱いものいじめは止まらない。 

弱い犬ほどよく吠える関西人 

ネット上の中国語のミームから拝借した

弱い犬ほどよく吠える ─── 実はこの言葉は僕が親しいある関西人から聞いた言葉だ。 関西人はどういうわけか弱い人であればあるほどすぐ他人を攻撃する。それも殴り返されたら即座にノックアウトするような弱さの人が強い人にどんどん理不尽な理由で食って掛かる。

弱い犬ほどよく吠える関西人はどこから生まれるのだろうか。実はそれも『弱いものいじめはよくない』という発想から生まれている。ストレスが溜まってくると何かをいじめたくなる。だが『弱いものいじめはよくない』と幼少期よりくりかえし教育されているため、いじめることができない。だがストレスが強まると『弱いものいじめはよくない。なら強いものをいじめても構わんだろう。』そういう発想で強い者を攻撃するようになる。

まりはけりたし・まりはなし。まりの代わりに袋に入れた強者を蹴飛ばす関西人。

強いものをいじめることには2つの利点がある。1つは弱いものいじめをしているという批判をかわせること。もう1つは反撃を受けた時に「弱者をいじめる気か!」と泣き落とすことで防御できることだ。

繰り返すが弱い者いじめも強い者いじめもどちらも暴力であることに違いはない

悪いものいじめはよくない

僕が更に違和感を感じるのは『いじめはよくない』という思想が『いじめる奴は悪者』と発展して『悪者はいじめても良い』と転じてしまうことだ。それが更なるいじめを招いている。

相手がいかに犯罪者であろうと殴ったら犯罪だ。法律だって正当防衛と認められる為には多くの厳格な証明を踏まなければいけない。相手が犯罪者であろうといじめてよい理由にはならない。これも暴力がいじめと言い換えられることで正当化されてしまう好例といえる。

遠いものいじめはよくない

だが日常生活上、生活の不満が即座にいじめに発展する機会は限定的だ。何故ならば、自分が誰か身近な人を殴れば、可能性としてその人が即座に殴り返してきて自分が怪我をする可能性が高いからだ。

ここで関西人はすこし考えることがあるようだ ─── 身近な人をいじめると殴り返されてしまう。だが手の届かないところにいる人をいじめる分には殴り返される心配がないだろう。

それが関西人が日常的に繰り返す悪癖・東京叩き芸能人叩き安倍叩きとなって表れる。だがそれも叩きと名を変えた暴力であることには違いがない。相手が芸能人だろうと東京人だろうと政治家だろうと暴力であることには違いがない。批判と暴力は違う

ここでも『弱い者いじめは悪・だが強いものいじめは可』という詭弁が効力を発揮する。いじめにふける弱い人は、芸能人や安倍などの自分より強いものを叩く事によって自分が強くなった錯覚を得ようとする。彼らに「弱いものいじめはやめよう」という言葉が届く筈もない。何故なら彼らにとってそれは弱いものいじめであるという意識は全くないからだ。むしろ正義感に燃えて強いものに立ち向かっているという感覚しかない。

遠くの者は殴り返さないのか?

「いいやんいいやん別に殴り返されることもないんやし」 ─── それが駄目なのだ。昔の様に東京と大阪が新幹線で2時間も掛かった時代は既に終わっている。北海道と九州という距離でもスマホとZOOMを使って顔を見ながら酒を酌み交わす時代が来てしまった。遠くの奴を叩いても遠くから叩き返される時代が来てしまっている ─── 今正に僕がやっている様に。

いじめという言葉の欺瞞 

いじめという言葉は相対的な表現だ。 そこにはどちらが強いどちらが弱いという強弱の関係が隠喩されている。いじめという言葉には常に強い者が弱い者を攻撃するという政治関係が隠喩されている。

このいじめという概念の最大の欠点は「自分が弱者でさえあれば誰に暴力を振るってもいじめにはならない」という形に変形することで暴力を振るいたい放題になってしまうことだ。

僕はここでも強調したいのだがいじめは暴力だ。理由の如何は問わない。 それは相手が弱い者であろうが、強い者であろうが、善人であろうが、悪人であろうが理由の如何は問わず暴力は暴力だ

関東いじめはよくない


関西育ちだと関西人の見分けが付くことが多いが、関東育ちだと関西人を見分けるスキルが身につかない。だが僕は日本を出て海外の日本人社会(海外の日本人社会住民の九割以上が関西人)を放浪するなかで関西人と関東人を見分けるスキルを身につけた。

見分けられるようになったら、関西だけが持っている非常に強い特殊性にいろいろ気がつくようになった。それについて説明したい。

まずひとついえるのは、関西人が出身を見分けているのは『関西人とそれ以外』程度の大雑把なものであるらしいことだ。僕は子供の時から関東・関西・北陸・東北・四国・九州…全地方が混在する社会で育っているので実は、関西以外についてある程度は見分ける能力は持っている。だが関西人は関西人と『それ以外の東京モン』というような大雑把なくくりで認識しているようだった。

これが多くの不幸の始まりでもあるのではないか。

多くの人が気がついていないことだが、関西人は日本最大のマイノリティだ。日本ではどの地域がマジョリティということは決して無く、それぞれの地方人がみなそれぞれマイノリティだ。それは関東人も例外ではない。僕は関東出身で関東ネイティブ人の判別が付くが、東京都内の色々な人間関係を渡り歩いていても、関東ネイティブは大変なマイノリティで滅多に出会わない。関東人よりは関西人の方がずっと出くわす確率が高い。関西人は東京で一番人口が多い東京の最有力のマイノリティだ。

ところが関西人の方は関西と『それ以外の東京モン』という認識でいるだけでなく、関西人は自分たちを立場の弱い弱者とみなしている ─── ここで『強者ならいじめても良い』と絡み合って非常に悪い結果が出る。

関西人にとって関西人は弱者である以上、強者である東京モンを攻撃してもいじめには当たらない。だからいくら攻撃してもそれは暴力にならない。だが実際の『東京モン』の中身は、それぞれが各地から東京に集まってきた弱者だ。関西から東京に上京することが難しいのと同様、他地方から東京に上京するのも決して簡単なことではない。東京でそれぞれ皆、弱者として苦労している。そんななかで関西人が「強い物いじめ」を始める。その結果として関西人は気付かぬうちに関西人以外の弱い地方人を延々と「弱い者いじめ」している結末になっている。そしてそれを批判されると「東京が関西をいじめるからいけないんや!」と防御弾幕をはって逃走する。

この関西的な『弱者理論』が、日本中からの関西人は暴力的・関西人は傲慢というネガティブな評価となって関西に舞い戻ってきている。つまり東京叩きは関西にとって極めて有害な悪癖といえる。

僕は再度強調したいのだがいじめは暴力だ。相手が弱い者であろうが、強い者であろうが、善人であろうが、悪人であろうが理由の如何は問わず暴力は暴力だ

上から目線の東京モンをいじめてはいけない

東京者である僕は、上から目線で「大阪民国人は民度の低い劣等地域です。中国と大差ありませんね。」というようなことを発言したことはないが、発言したとしたら恐らく僕がやや関西的な側面があるからだ  ─── 一般的な関東人や東北人は僕と全く気質が違う。

ネイティブの関東人はしばしば東北が混ざった人が多い。東北が混ざった人の謙虚さは特筆に値する。一切我を張らずに素直に黙々と問題と向き合う東北系の関東人が関東にはたくさんいる。僕には、彼らが関西人相手に上から目線であれこれと文句を言っている情景をまったくイメージできない。そもそも彼らはあまり人間関係に興味がなく、自分が他人より優れてる劣っているという相対評価自体にあまり興味がない。だから他人を批判するという事自体に興味がない場合が多い。

東北系の関東人は大抵プライドが非常に高く傷つきやすい。だからこそ他人のプライドを極度に尊重する面がある。自分のプライドを尊重して欲しい分、他人のプライドを守ることには殊更に神経質になる。

─── そんな関東人が「大阪民国人はダメダメですわ」と言ったりする情景が僕には全く想像がつかない。そんな関東人・東北人が何故、わざわざよりによって関西人に上から目線で物申すのか。僕はそこに動機が見当たらないのだ。

では上から目線の東京モンとは一体何ものなのか ───それは関西人に他ならない

『阪神の応援は飽くまでも趣味。仕事で応援してはいけない。』という言葉がある。実際に僕は東京ドームをあちこち歩きまわって、巨人側スタンドに座る人の大半が関西人である奇妙に気付いた。僕は関東地元人が見分けられる。その時は西武巨人戦だったが西武を応援している人達はほとんどが地元人だった。だが巨人側は大半が関西人だったのだ。

義理人情を大切にして人間の暖かさを大切にする関西人。一方提供するサービスのクオリティ・アカウンタビリティの向上を目指せば「まま、ここはてけとーでえぇねん!」的なものは許されない ─── だが許せなくても許さなければいけない人情がある。そこで許したら実現できないビジネスがある。

そこで彼らは東京を目指す。東京に来ると彼らは突如として血も涙もない東京モンに変身する。変身することで、関西地元では実現できないクオリティを東京で実現する。当然関西地元の恨みは買う。だがそれは所詮血も涙もない東京モンがやったことだから仕方がない。あきらめよう  ─── 悪いのは全部東京モンや!

東京モンに変身して都合が悪いことを全て片付けたのちに関西に戻ってくる。地元の関西人はきく「あれ誰がやったん?なぁなぁ。」「あぁーワケのわからん東京モンがおってなー勝手にやってもーたんやスマン!」

東京モンとは関西人以外の全地方人だということを前章で指摘した。つまりこうして関西で発生した怨恨が全て関西以外の全地方へと転送される結果となる。関西社会の構造自体が『東京モン』というスケープゴートを必要としている。これは関西だけを見たら上手くバランスが取れた機構ではある。だが関西以外の人にしてみれば迷惑以外の何物でもない。これは関西以外の人に対する大変な失礼と言わざるを得ない。国内政治問題を優先する関西は、さながら国内政治問題を優先する中国共産政権の様ではないか。

〜〜 事故車両を埋める大阪民国の作業員 〜〜
世界中の人『大阪!事故原因究明はどうなっているんだ!』
大阪民国 『(周囲には目もくれず)閣下!異常はありませんでした!』
※このコメントはフィクションです。

関西いじめはよくない

僕はこうやって関西叩きをすること自体が関西いじめだということを理解している。

いじめは僕自身がこれまで説明したように理由の如何を問わず暴力であり犯罪だ。 

だがこの僕の発言自体東京叩きに呼応したものである、ということを付け加えておく。

僕は元々関西が好きなのだが関西人の暴力的発言が僕にこういう暴力的な発言を起こさせている。

参照:エセ関東人の見分け方がおもしろ過ぎる件www

ネットを見ると熱心に東京叩きをしている人達が無数にいる。それを見るのはとても気分が悪い。関東人・東北人は大抵の場合は寡黙で温和だ。だからこういういじめを受けても大抵の場合は全く反応も反撃もしない。だが、だからといってそれに便乗して東京叩きをしてもいいものなのか。

─── 『東京は大阪より強い。だから大阪が東京をいじめても弱いものいじめには当たらない。』そういう大義名分で『東京叩き』という酷い暴力がまかり通っている。叩かれている『東京モン』の大半は本物の東京モンではない。それぞれが東京で苦労している地方の方々だ。そしてその悪行の結末は日本中からの『暴力的な関西人』『差別的な関西人』『傲慢な関西人』という関西人三大悪評価となって、関西人の元に戻ってきている。しかも、その悪評価の直撃を受けるのは関西の関西人ではない。関東で苦労している関西人なのだ。

そしてそれが東京で暮らす関西人が関東人のふりをしながら他の関西人をいじめるという非常に残念な現象となって観察される。関西人と見るや途端に差別的な対応をする関西人も決して少なくない。それも関東人の真似をしながら

強いものいじめは許されるか?

この文章を読む人に既に気付いた方もいるかも知れないが、 僕のこの記事自体が強いものいじめの様相を帯びている。これは僕自身が持っている関西的気質のなせる業だ。 だが僕のこういった関西叩き的な発言自体が、更に関西的いじめをエスカレートさせる原因となることを僕は理解している。

冒頭のツイート主は、海外リーグに参加しているような一流選手であり、日本社会で広く知られている。そのような強者であればいじめても構わない、と感じている自分が正にここにいる。ましてや無名の自分がこのようなことを書いても痛くも痒くもない筈だ。そう安易に結論づけているところもある。その安易さがこのような暴力的な文章を書かせている。

─── 果たしてそれでいいのか

弱いものいじめは良くない。だが頭の弱いものいじめは許される  ─── そういう僕独自の関西関東ハイブリッド・ゴーマニズムがそこに存在する。僕は間違いなく、即座に自分を戒めてこのような失礼な文章を書くことを控えるべきだ。

だがツッコミは大好きだがツッコマレは大嫌い、常にツッコミ所が満載なのに責任転嫁と言い訳で他の地域に迷惑ばかりかけて、弱者を装って傲慢を押し通す関西人には、誰かがツッコミを入れなければいけない ───そう信じて敢えてこの失礼な記事をそのまま置いておこうと思う。


結論

今やっているそれが、いじめかどうかは問わない。それがいじめであろうと、いじめでなかろうと、弱いものであろうと、強いものであろうと、良い者であろうと、悪い者であろうと、どんな者であろうと、暴力はよくない

そこでいじめという表現を使うと、特に関西人は、弱者を装ったうえで「悪いのはあいつや」と因縁をこじつけて、好きなだけ暴力を振るってしまう。だからいじめという表現を使ってすらいけない。それはいじめではなく暴力なのだ、ときっちり指摘すること。そうしない限りいじめはなくならない。


更新記録:
・タイトル『関西人の差別といじめの構造』を関西的により直感的に理解できるタイトル『アホ関西人が日本中から嫌われる理由www 』に変更した。(Thu, 28 May 2020 12:20:07 +0900)
・タイトル画像を関東風から関西風に変更した。 (Thu, 28 May 2020 16:02:46 +0900)


作った僕自身もこの表紙はあまりに酷いと感じるが、礼儀正しく冷静で偏りのない見せ方をすると地味すぎて関西人が全く興味を持たないという現実もある。この場をお借りして予め非礼をお詫び致します。


・タイトルを『アホ関西人が日本中から嫌われる理由www 』から『関東人はウザいwww』に変更した。関西人を批判する関東人はほとんどいない。だから関西に批判的なことを書いても誰も読まない。一方関東に批判的なことをいう関西人は無数にいる。だから関東に批判的なタイトルにしないと関西人が読まない。実に皮肉なことだ。(Thu, 04 Jun 2020 22:08:09 +0900)

・タイトルを『アホ関西人が日本中から嫌われる理由www』に戻した。(Sat, 06 Jun 2020 19:50:29 +0900)

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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