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2015年9月21日月曜日

演奏者の資質について (oka01-qkpzawmzwqggowrx)

本日、バンコクにて、ある日本人らのジャズの演奏を見に行き、大変にがっかりして帰ってきた。以下でその成り行きについて述べたい。

ここで筆者は、何を見に行ってきたのか、どこに見に行ってきたのか、誰を見に行ったのかに関して、一切明らかにしないこととする。加えて、この文章で述べられた団体、地名、及び個人は、全て現実に存在するそれらとは一切無関係のフィクションであるということを、この場をお借りして宣言させて頂く。

よって、もしこの文章を読んだ読者諸君が、何かに思い当たり「これは◯◯のことだな」と思いついたとしたら、それは間違っている。何故なら、以下の文章は全てフィクションだからだ。よって、筆者が言及している人らは、読者諸君が思うその人のことではない。

この文章の目的は、個人攻撃ではない。筆者が、バンコクに滞在する1人の日本人ジャズ演奏者として、日本人を含むバンコクのジャズ演奏者コミュニティーのマナーとレベル向上を目指し、どうすべきか考えた結果として出てきた、ひとつの結論である。

以下、本日の出来事、及びそこで筆者が感じた事に言及しつつ、最終的にバンコクであるべきコミュニティーの形を考えてみたい。

はじめに

実は、本日見に行った演奏会は、既に面識のある方の演奏会だった。だが僕は、演奏会場で彼らと目があった瞬間、彼らが僕の事を完全に忘れていることに気付いた。僕と面識のある方は、2人いた。1人は完全に僕のことを忘却しており、僕を完全に無視していたので、僕も無視した。もう1人は、僕に若干見覚えがある様子だったが、はっきり覚えていない様子だったので、僕は「覚えていますか?」程度に挨拶した。 彼は深く考えることなく、即座に去って行った。

実は2人ともタイの日本人社会では比較的知名度の高い方だ。だが僕はこれを見て、彼らの人間の底の浅さを思った。何故そう思ったのか、以下で説明する。

演奏者の人間観察力について

僕は、過去のキャリアを積極的に相手に提示して相手を威圧する行為にあまり興味がない。フォーマルな状況では必要に応じて提示するが、好んで提示はしない。

僕のジャズ演奏のキャリアは、全くのド素人ではない。自分自身の演奏レベルはド素人かも知れない。だが、日本社会の中ではある程度名の知れた、おそらくは読者も当然の様に名前を知っているプロミュージシャンを多く輩出しているコミュニティーに属していた。名の知れたコミュニティーであるだけでなく、一定以上の向上心を持つことを当然として要求する厳しさのある集団でもあった。

そういう中で優れたミュージシャンに多く出会った。優れたミュージシャンにしばしば共通している点がある。それは人の顔をよく覚えていることだ。僕に言わせてもらうと、顔を覚えているというのは、記憶力の問題だけではなく、人間観察力の問題だ。

音楽を一緒に演奏するということは、相手を観察することだ。相手の出方を見て、臨機応変に演奏を変える ─── 時には相手の予想通りに演奏し、時には相手の予想を裏切って演奏する。時には勘違いもする。だが相手の勘違いを見て、自分の演奏を変える。自分の勘違いを相手が見て、相手が更に演奏を変える ─── これが、インタープレーだ。

ミュージシャンはしばしば、顔を見た時に「あぁーーー君は、◯◯の時◯◯した君か!」というように、名前は覚えていなくても、その特徴を覚えており、それを思い出す。それは何故ならば、常に人間を観察しているからだ。顔を覚えている ─── これは、インタープレーを行うミュージシャンにしばしば見られる特徴といえる。

もっとも、もしも貴方が相手に、全く自分の特徴をアピール出来なかった場合であれば、相手が貴方の事を覚えていないことは、やむを得ないことだ。だが、貴方が相手に特徴をアピールをしたのに、相手が、その特徴の価値に気が付かなかったり、価値を理解出来なかったり、その特徴を観察することに興味が無かったり、そもそも他人に興味がなかったりすると、結果として、貴方のことを忘れてしまう。

僕は、そういう人間への無関心さを見ると、激しくがっかりする。それが比較的知名度が高い人であれば尚更だ。

90年代後半の話。僕はかつて都内で、ある著名なジャズピアノの演奏者の自宅に行って即興演奏について教わっていたことがある。 僕は当時ピアノは演奏できず、ギターの演奏しかできなかった。だがギターとアンプを担いで師の自宅ピアノ教室に通い、即興演奏の心構えについて教えを請うていた。教えてもらった期間は1〜2ヶ月。決して長くはない。

時は過ぎ10年近く経ったある日、僕はあるきっかけで師のライブ演奏を訪れた。その時、師が僕の事を覚えており、かつてと同様に歓迎してくれたことは、僕を大変に驚かせた。

この様によいミュージシャンは、しばしば人をよく観察しておりよく覚えている。この様な例は、たくさんある。

僕は、タイに来てから一度も演奏活動をしたことがない。だが僕はタイの地方にある土着の民族音楽に興味がある為、しばしば演奏者の元を訪れている。 タイの東北地方(ラオ系民族の居住地)で、ラオの民族音楽の師匠に会いに行ってしばしば驚くのは、彼らがしばしば、僕が言わなくても僕が演奏者だという事を見抜くことだ。

よいミュージシャンは、よく人間の特徴に気付く。僕がタイ東北地方の方言を話せることにも即座に気付く。方言を学ぶこと如何に外人にとって困難であることなのかも理解している。それが音楽の演奏能力に関連した能力だ、という事も直感的に理解している。

ラオスの最奥地にある伝統音楽の大家の家を訪れた時も同じだった。常に人間を緻密に観察しており、その能力がどれ位のレベルなのか探っている。具体的に楽器を渡して演奏させ、反応を探ったりもする。相手が期待通りの能力を持っていればおお喜びをする。期待通りでないと、激怒して罵倒する。よいミュージシャンの性格は、世界中どこに行っても、共通だ。

当然だが、彼らミュージシャンは、僕の音楽キャリアなど全く見ていない。場合によっては訊きもしない。キャリアには興味がない。だが、たった今、目の前にいる僕という人間を見て、その人間の資質を見抜こうとする。

演奏者としての価値観

そういう感性が鋭いミュージシャンの数々を見たあとで、僕が今回見に行った知人を見ると、価値観が大きく違うことが観察できる。

よいミュージシャンの価値観は、前述の様に「一緒に演奏することが楽しい」という一点に尽きる。ところが、その2人の知人演奏者らの価値観は「有名な店で演奏したというキャリア」その一点だけだ。

勿論、彼らは決してそれを口には出さないが、彼らの行動を観察していると、どうしてもそういう浅ましさが滲み出て見えてきてしまい、辛くなる。

勿論、有名な店で演奏したことがあるというのも重要だ。キャリアは、演奏という商業の世界に於いて、セールス上の重要なアピール材料になる。だがそれは、飽くまでも、商業上の話だ。「良い演奏をしたい」という精神的な活動とは、別な要素だ。

「良い演奏をしたい」という精神的な活動とは、つまり ─── 良い演奏をしたいから、人間を観察する。人間を観察したいから、良い演奏をしたい。人間を観察するのが楽しいから、演奏が楽しい。演奏が楽しいから、人間観察が楽しい  ─── そういう精神上の出来事に興味を持っている、ということだ。

僕は決して、商業主義を否定するものではない。僕は、商業主義にも強い興味を持っている。『良い物を売ればお金が儲かる』という単純な世界ではないのが商業の世界だ。 悪いものでも売り方次第でお金になる。良いものでも売り方を間違えれば、お金を失う。良い演奏をすれば商業的にも成功するという訳でもないのが、この世界の常だ。演奏以外のビジネスにも気を使うことが出来て、初めてプロと言える世界がある。

しかし、ジャズ演奏を商業主義として捉えた時でも、相手という人間をよく観察し、相手に敬意を払い続けることは大切ではないか。リーダー(経営者)としての能力は、目上の人に対する応対よりも、目下の人との応対に現れる。

例えば、貴方のリーダーとしての能力は、普段の貴方の外食産業で働くアルバイト店員に対する態度などに最もよく現れる。

もし貴方が、知らないアルバイト店員に対して、悪態をついて相手の気分を害しても、恐らくは貴方の利害に何の影響も与えない。だが、貴方の利害が関わっていない人間に対して丁寧な応対が出来ない場合、貴方の利害が関わっている人間に対しても丁寧な応対が出来ているか疑わしい。何故だろうか。

他人に丁寧に接するのは、人間として大切な『礼儀』だからだ。利害に関係がなければ人間としての大切な礼儀を損ねても問題ない、と考えているとしたら、それは間違っている。礼儀は、自分の利害を守るだけの為にある訳ではない。

人間の資質は、どんなに表面上感じ良く演技していたとしても、1年〜2年という長い年月の中で、人間関係の激しい『風雨』に晒されて、表面のメッキが剥げていき、最後にはその正体が暴露されるものではないだろうか。

よい資質を持ったリーダーは、どこでのどの様なふるまいが、どのような敵を作りだすことになるかわからない、という人間関係の複雑さを知っている。無意味に敵を作ることの危険性をよく知っている。よって、誰にでも無差別に、無難で丁寧な対応を心がけようとするものではないか。

僕が今日見に行った僕が面識のある2人は、僕を見た時に、僕の能力を見抜けなかった。僕の商業上のキャリアの小ささだけを見て、僕を過小評価し、僕の事が印象に全く残らず、忘れてしまった。

彼らは、僕が持っているその他の資質 ─── タイ語で方言が話せることや、タイの民族音楽が好きで研究していること、実際にはジャズの演奏能力があることや、その演奏上の特徴 ───つまり、僕という人間に、全く興味を示さなかった。これは、彼らのミュージシャンとしての資質の低さを示している。

僕は、決してミュージシャンとしての資質が人間の全てだとは言わない。だが彼らは、商人として見た時も、その資質に一抹の疑問点を感じた ─── 何故ならば、もし僕が将来、音楽とはまた別に、彼らと仕事をする機会があったら、僕は彼らを使うだろうか ─── 恐らく、使わないだろう。僕は既に、彼らの不用心な振る舞いによって、相当に気分を害してしまった。

彼らは、ぬるい。

「日本人だから」に甘える日本人

日本人にとって、タイは色々な甘えが許される場所でもある。

日本の大手企業が数多くタイに進出しており、経済的にタイに恩恵を与えている上、常にテレビ宣伝によって日本に対する華麗で幻想的なイメージが作りだされている。タイ人は日本人にとても甘い。

最近バンコクで爆弾テロ事件が起こった。テロ事件以降、あちこちで検問を行うようになった。外国人が検問を通過する時、外国人はしつこくパスポートの提示を求められ、執拗にかばんの中身をチェックされる。だが、もし読者が「日本国旅券」と書かれた旅券を持っていた場合、表紙を見せれば大抵、何もチェックせずに通過させてくれる。

多少タイ語が上手でなくても「日本人だから」怒られない。多少失礼なことを言っても「日本人だから」怒られない。多少非常識でも「日本人だから」怒られない。多少ジャズの演奏が下手でも「日本人だから」怒られない。

僕はこの「日本人だから」に甘える日本人を見ると、何とも言えない複雑な気持ちにさせられる。

僕は一応(腐っているが)東京人だ。東京で仕事をするというのは、簡単な話ではない場合が多い。日本人としての「当たり前」を「当たり前」としてこなしていく事が「当たり前」の様に求められる。

この「日本人としての当たり前」をこなせない日本人が、日本人としてタイに来て日本人としてチヤホヤされていい気になっているのを見ると、それは果たして、日本人として見た時にどうなのか、と疑問を感じざるを得ない。

僕が、タイ人にチヤホヤされている日本人を見て、羨ましいと思っていないと言ったら嘘になる。だが僕の場合は、どうもタイ人からチヤホヤされている時に、自分自身を騙しきれないところがある ───

─── ただ単に日本人がいるといえば箔がつくから、適当におだてて連れてきているだけではないのか  ─── 日本人を連れてくると、色々とお金を出して貰えることが多いので、連れてきているだけではないのか ─── ぜんぜん楽しくないのだが、日本人には色々と使い道があるので、適当に言って連れてきた方が便利だからではないのか ───

そういう点に思いが及ぶ。

実際僕は、タイにいる平均的な日本人と比較して、持っているお金の量が大分少ないので、平均的な日本人の様なお金の使い方を続けることが出来ない。タイ人が日本人に期待するようなお金の動かし方が出来ないということはある。

だが、僕が欲しいのは、おべんちゃらでもないし、派手な生活でもない。

僕が欲しいのは、嘘のない本当の気持ちなのだ。


嘘のない本当の気持ち

お金目当てでおべんちゃらを言われても、虚しいだけだ。タイでジャズを演奏するなら、タイの人に心から楽しんでもらって、あぁ面白かったと言ってもらいたい。

実はタイ人は、音楽のクオリティーに恐ろしくうるさい人たちだ。僕は、タイのド田舎の音楽文化(外人向けおべんちゃらがゼロの世界)を見ているので、余計にそう思う。

タイの田舎では、お金を払って生演奏を聞きに来ていても、演奏が面白くないと、演奏中でも遠慮無く帰ってしまう。演奏者にとって、客がいないガランとした会場で演奏するのは精神的に辛いものだが、観客は演奏者に対する追撃に何の手加減を加えない。普段、誰に対しても寛容なタイ人が、下手くそな音楽には一切の容赦無く、辛辣な批判を加える。

そういう何の情け容赦もない最も正直な状態のタイ人を散々見せつけられた僕からみると、下手くそなジャズ演奏に笑顔で拍手を送るタイ人が不気味に見える。何が狙いなのか。良質な音楽が狙いでないのは、明らかだ。ならば一体何が狙いなのか。

タイには、文章や思想哲学では説明しがたい、精神文化的な土壌がある。人の気持ちを動かす秘訣のようなものを、子供からお年寄りまで、当たり前の様に熱心に研究しており、実践している。

日本人は、アジア人としての和の心を、日本人以上にはっきりと持っているタイ人からこそ、むしろ多くのものを学ぶべきではないのだろうか。

ラオの民族音楽『ラム』は、ジャズと同じ激しい即興演奏の形式を持っており、ジャズの様なインタープレーも持っている。人間の本能による即興演奏を大切にする文化もある。

ラムは、各村から自然発生的に生まれた演奏が広まって出来たもので、資本主義の影響が非常に少ない音楽文化だ。 『ラム』は、ある見方から見ると、近代的資本主義によって人工的に創りだされた音楽文化であるジャズよりも、ずっと本来のジャズ的な要素を持っている。

ラムは、タイにある文化の中でも格別に素晴らしい音楽文化だ。そこには、日本人が大昔に忘れてしまった大切なアジア文化が、風化せずに今尚たくさん残っている。

だがこういう相手が持っている文化に対する興味や尊敬がなく、相手から尊敬されることばかりを求め、タイ人の愛情に溺れている日本人は、果たして日本的なのだろうか。

相手に興味を持つ。相手をよく観察し、その資質を見抜く。相手がもつ、自分自身との違いを見抜き、その違いを尊重する。これは、日本の和の心と同じだ。相手を理解せず、ただ単に相手に同調したふりをするのは、和の心ではない。


おわりに

僕は、自己批判を好む人間だ。批判は、相手を殺す為の攻撃ではない。批判は、飽くまでも相手を育てる愛情だ。自己批判だけが自分を育てることが出来る。 自己批判のないコミュニティーは、容易に腐敗する。次々に新しい人材を呼びこむことで新風を吹き込み、競争して切磋琢磨することが、非常に重要だ。

もし本当に、バンコクの日本人ジャズコミュニティーの方々がジャズに対して真剣に取り組んでいるのであれば、僕がアドバイスできることは無数にある。運営のノウハウも持っている。具体的な練習メソッドも持っている。演奏理論も網羅的に理解している。

よってもし僕が、バンコクの小さな小さな日本人ジャズコミュニティーを向上する為に行動を起こそうということであれば、それは出来ることだ。

だが僕が見る限り、彼らは演奏自体には興味がない。単刀直入的に言うと、単に人前でチャラチャラしているところを見せびらかしたいだけだ。つまり、僕が入っていって「マナーアップキャンペーン」をやると、恐らく場違いなことになる。

黎明期にして既に、大分腐敗していると断罪せざるを得ない。

僕はバンコクでジャズの演奏活動をしたい。だがジャズの醍醐味は飽くまでもインタープレーであり、決して独りで演奏できない。 よって仲間が必要なのだが、その仲間探しで苦労している。

今までタイでいくつかのジャズコミュニティーを見てきたが、既存のジャズコミュニティーに入って活動するのは、難しそうだ。まず第一に、どこも演奏者のレベルが非常に低い。しかも皆、あまり協力的でない。どこも非常に「内輪ノリ」が強い。稀に優秀な人材がいると、その人材を相手に取られない様に出し渋ったりもする。

日本人の極めて特徴的な気質として「他力本願」があることも、難しさを助長する要素のひとつだ。 他人の成功を妬み、無意識の内に他人が失敗しやすくなるように妨害するだけでなく、 何かの失敗が起こると、大勢で結託し、その責任を特定の他者に求めて排除しようとする強い傾向がある。

そこに全ての失敗を自分自身の責任として改善する努力を見せる真面目な人間がいると、その人の元に、全ての責任が押し寄せてくる。

僕には、レベルの低い人間の中に押し入って行き、わざわざ足の引っ張り合いをやらかしたくないという、強い恐怖感がある。ジャズはショービジネスでもある。妬みの強い演奏者であれば、ステージ上でわざと相手の失敗を誘発する様なことをやって気に入らない相手の評価を落とす等々の妨害工作は、日常茶飯事だ。

僕の様に、高い梯子を登って目立ち易い人間は、こういう『他力本願型妬み攻撃』のうってつけの標的になりがちで、僕としては細心の注意が必要な点だ。(そして、日常的に妬み攻撃の存在について赤裸々に公言する僕は当然、更に激しい妬み攻撃に晒されることになる。)


こういうバンコク日本人ジャズ界の風通しの悪さの原因のひとつとして、バンコクの日本人社会が持っている「ローカルさ」もひとつの要因である筈だ。バンコクは、いわゆる日本で言うところの『全国区(※1)』ではない。バンコクは、名古屋だ。バンコクに住む日本人の大半は名古屋人だ。それは名古屋の某大企業やその関連企業が数多く進出していることがその最大理由だと思われる。

※1 全国区=参加者が特定の地域に固定されていないコミュニティー

僕は関東者なので関東外での一般常識を知らないが、東京の『全国区』のコミュニティーであれば、普通に競争が発生し、自然淘汰が起こって自然にレベルアップするであろう場面でも、バンコク名古屋社会では、どうも淘汰が起こらず、東京で普通のクオリティーと比較して考えると、ありえない様な低レベルの職業人が、切磋琢磨もされず、自然淘汰もされずに、温存されたまま生き残っていたりする。

僕は勿論、「レベルの低い人間に対する配慮や尊敬など不要。どんどん蹴落せ。」と言っている訳ではない。人によってレベルの上下の違いはあれど、きちんと配慮し、敬って、仲間になって協力しあうべきだ。だが正当な競争を否定して、足の引っ張り合いをする人には、ある程度毅然とした姿勢を示すべきであり、それはやむを得ない措置なのだ、という事を言わねばならない。

無論、逆もまた然りだろう。いかに演奏のレベルが高くても、暴力的に場の調和を乱し、既存の演奏者の活動拠点を暴力的に摂取する行為に対しても、毅然とした姿勢を示すことが必要だ。



幸運なことに、バンコクには世界中から人が集まっている。バンコクの楽器屋などをうろついていると、しばしばジャズ的な演奏能力を持っている外人がブラブラとピアノを試奏していたりするのを見掛ける。恐らくバンコクにも優秀な人材は居るのだが、集まって活動する場所がないだけではないか。

実は、タイのRCAと呼ばれる繁華街に、有名なタイ人のジャズキチ(※2)がおり、ライブハウスを経営している。実際にお会いして話をしたこともある。大変なお金もちでもあったが、それだけでなくジャズをよく理解している様子だった。

※2 ジャズキチ=ジャズ気違いの略。往々にしてリスナを指し、プレーヤは含まれないことが多い。

この方の店にはジョーロヴァーノ氏(※3)の直筆サインが置いてあったので、話を伺ったところ、ジョーロヴァーノ氏とは面識があるという。この方は、とても謙虚で感じのよい方だった。ジャズという音楽文化に理解がある方ではないか、と思う。

※3 ジョーロヴァーノ・アメリカのサックス演奏者。グーグル検索

だがどうもバンコクの日本人は、この辺の『バンコクのジャズキチ・コミュニティー』の方々とコミュニケーションがあまり良くない様に感じる。語学的な問題もあるかも知れないが、バンコクの案外とレベルが高いジャズキチの知識についていけないということもあるのではないだろうか。

バンコクのあちらこちらに『同士』は居るように見える。だがそれを組織する人が居ない。恐らく、僕は、自分でジャズ演奏家のコミュニティーを作るしかないのだろう。

その為には、知り合う機会が極度に限定されているこの状況を打開するだけでなく、どうしても閉鎖的になりがちなジャズ演奏者の人間関係を腐敗させない様、継続的な取り組みが必要ではないか、と思われる。

そこが課題だろう。



更新記録:
(Mon, 21 Sep 2015 16:34:29 +0700)

『礼儀』に関する部分を加筆訂正した。