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2014年9月15日月曜日

オヤヂ臭の起源 (oka01-jdrvcpwrssqexban)

先日タイ・バンコクの高架鉄道BTSを利用した時の事だ。電車がホームに到着し、ドアが開き、乗り込もうとしたら、中年男性三人組が唐突に降りてきてぶつかりそうになった。筆者はその瞬間、その人たちが日本人だと気付いた。日本人は東南アジアに居ると、風貌だけを見て即座に日本人だとわかる人が案外と少ないのだが、筆者はこの中年男性三人組と出くわした瞬間、風貌によらずに日本人だと気付いたのだ。 その理由については若干説明が必要であろう。

まずタイの人は周囲の人と衝突しそうになることが少ない。だがこの中年男性3人組は、電車到着時の「まず人が降りる」「そして人が乗り込む」という流れを完全無視しており、非常に間の悪いタイミングで降車、ニアミスを起こしていた。

筆者が見る限り、タイの人たちは周囲を非常によく見ている。車の運転も非常に用心深く、まるで後ろに目がついているかの様に、背後の車の動きにも的確な反応を見せる。日本人はしばしばタイに来ると、タイ人の運転が乱暴だという苦情を述べるが、これは往々にして、日本人が周囲に対する配慮が不十分で、タイ人が出している予告や合図を見逃している為に、周囲の運転者の動作が唐突に見えるからだ。実際には、前もって合図を出していたり、暗黙の了解が決まっていたりするため、運転は案外と丁寧だ。

そういう中では、彼ら中年男性3人組がしたような、周囲の流れを無視した挙動は非常に目立つ。

そして彼らが明らかに日本人だと筆者が直感した理由の極めつけは臭いだ。彼ら中年三人組は非常に汗くさかった。筆者はこの臭いを嗅いだ時、「久しぶりの懐かしいこの臭い」と感じた。日本ではよく耳にする 鼻にするこの独特な汗臭。 タイの人は汗臭い人がほとんどいないので、非常に特徴的に浮かび上がって見える。タイは高温多湿で頻繁に汗をかくので、人々は1日に2度3度と頻繁に風呂を浴びる習慣がある。そういう中にいると、日本的な汗臭い人はそれだけで非常に目立つ。



日本人中年男性は、何故臭いのか。この議論に入る前に、ここでいう「日本人」がどういうものなのか、きちんと定義する必要がある。

何故ならば、日本人は単一民族ではないからだ。

日本人は単一民族ではなく、無数の民族の混血だ。日本人の混血化の歴史は非常に古く、中国三国志の時代に高い統治能力を持って闘争の末に大陸から追い出される形で日本にやってきた中国人をはじめ、仏教や文字という最新技術を持って日本で幅を利かせようとしてやってきた技術者や、江戸時代よりも前の古くから交易船にのって、東南アジア・中国と日本の間を人々は行ったり来たりしていた。タイには古くから日本人街があり、日本人はこの日本人街を拠点として大陸との貿易を行って栄えてきた。

筆者の推論によると、『日本人』はいくつかの民族の衝突でできている。大きく分けて:

- 北方からやってくるアイヌ・イヌイットなどのモンゴロイド系
- 北方から来るロシア系白人
- 日本原住民=日本の東北地方に住む、氷河期に絶滅した縄文人の生き残り
- 朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人
- 朝鮮半島から渡ってきた中国の北京・東北の人
- 朝鮮半島から渡ってきた中国内陸の人たち?(唐の時代?)
- 琉球・奄美の人たち
- 琉球・奄美に船にのってやってきた人たち
- 交易船にのって渡ってきた潮州/福建/海南系の中国沿岸人
- 交易船にのって渡ってきたタイ・ラオ系人
- 交易船にのって渡ってきたクメール系人
- 交易船にのって渡ってきたベトナム系商人(ユアン人/ユエナン人とも?)
- 交易船にのって渡ってきたマレーイスラム系人
- スペイン・ポルトガルから布教の為に来たラテン系
- その他、大勢。

これらの民族分類は、恐らく大陸がそうであるように、その中で、更に細かく方言や気質の違いで住み分けが生まれている筈だ。

これらの民族が、日本で混ざり合い、恐らく上からみるとマーブル模様の様に、部分によって色の濃度が違ったり、部分によって色合いが異なったり、非常に複雑な混ざり具合になっている筈だ。

筆者は、東南アジアで各地を旅する度に、原住民を見て「この系の人は、日本でも見かける」と感じる。日本には様々な「日本人起源説」が存在するが、どれも決め手に欠けるとされる。恐らくだが、全ての説が正しい筈だ。日本人の起源として絶対に正しい事がひとつだけ言える。それは「日本人の起源は人によって違う」という事だ。

日本語に「単純なやつ」という表現がある。この「単純なやつ」という表現は一般的に、考え方や物の考え方に変則的な面が少なく、行動パターンが読みやすい人間のことを指していう。この定義を元に考えると、大陸の人間は全員例外なく「単純なやつ」だ。「単純なやつが少ない日本」… これは裏を返して考えると、何故日本人は単純でないのか、という考察の必要性に結びつくのではないか。

日本人に「単純なやつ」が少ないのは、即ち、「日本人」の多くが、大陸各地のあちらこちらの民族の混血だからだろう。性質が全く真逆な人間同士が結婚して出来た子は、性質が全く真逆な要素が両立する、気質の混乱した子供になる。筆者は、タイにいてしばしば、勤勉で計画的な潮州人と、怠惰で無計画的なラオ人の間に生まれたハーフの方としばしば仲良くなるのだが、彼らが常に、自分の中で葛藤を持っているのが非常に興味深い。「今晩は遊びに行ってビールを飲もう。」「しかし明日の朝、客先とミーティングがあり、早く寝なければ怒られる。」「しかしビールは飲みたい。」「だが怒られると面倒だ。」と延々と葛藤している。この葛藤を見ると、筆者は非常に「日本的」と感じる。

混血度の低い潮州人は、こういう場合、迷わず仕事を取る。単純だ。混血度の低いラオ人は、こういう場合、迷わず遊びを取る。単純だ。「日本人」から見ると「そんなにはっきりと割りきってしまうと色々と問題も起こるだろうに」と感じるが、混血度の低い人は全く迷わない。「こうしなければ」「ああしなければ」という「あるべき姿」に自分を適応させることは、全く出来ない。 結果的に、その人が非常に苦手なこと、非常に得意なことがクッキリと浮かび上がる。彼らは全く変わらないばかりか、変わろうとすらしない、しかも、変わろうとしても絶対に変わらない。

だが混血人=この場合のラオ系と潮州系のハーフの人を見ると、状況にあわせ葛藤したり悩んだりしている「単純なやつ的でない」事が観察される。これが筆者には、非常に「日本的」に見える。これは間接的に日本人が、一般的に混血度の高い人が多いということの裏付けになっているのではないか。



バンコクでオヤヂ臭を放つ日本人。恐らくだが中国東北系の人たちの比率が高い人なのではないだろうか。

中国東北地方の様に寒くて乾燥した地域の中国人は、往々にして風呂に入る習慣がない。汗をかかないからだ。筆者がしばらく留学していた昆明は、中国の中でも高温多湿とされる地域だったが、それでも東南アジアや日本と比べると非常に乾燥した大陸的な気候で、風が冷たく爽やかだった。よって人々の風呂に入る習慣は少なかった。現地のアパートの給湯システムは一般的に貧弱で、極稀にしかお湯が出ない。必要がないからだ。多くの人は一日の終わりに足だけを洗って就寝する。風呂に入らないが、気候が乾燥しているので、人々は臭くない。

こういう乾燥した地域に適応した民族の遺伝が強い日本人は、高温多湿の日本に来ても、あまり風呂に入らないのではないだろうか。

恐らくだが、乾燥した地域に適応した民族は、しばしば脂症だ。 湿度の高い環境に適応しているタイ人の多くは乾燥肌で、寒くなるといつもすぐカサカサになる。脂症のタイ人というのはほとんど見かけない。 乾燥した地域に適応した民族が、タイや日本の様な高温多湿な環境に来ると、どうしてもベタベタして臭う。

なお中国人は必ず風呂に入る習慣がない、という訳ではない。中国人でも沿岸部に住む、潮州系・福建系の中国人は、筆者が見る限り風呂に入る習慣がある人が多いらしい。沿岸部が黒潮の影響で高温多湿だからだろうか。中国系でも内陸系と沿岸系で、風呂に入る習慣は違うようだ。 よってこの「ニッポンのオヤヂ臭」気質の来る場所は、恐らく沿岸部の風呂に入る中国人ではなく、内陸の中国人=風呂に入らない中国人である筈だ。



そしてこの話題に必ずつきまとうのが「必ずしもそうだとはいえない」という話だ。

混血度の高い人間は、往々にして、部分的な気質を持っている。顔つきは東南アジアだが、性格は中国的とか、性格は東南アジア系なのに顔つきは中国系と言ったように、顔つきと性格が一致しない「変な」人間になる

つまり「東南アジアっぽく風呂によく入るが、顔つきは中国的」とか「中国っぽく風呂に入らないのに顔つきは東南アジア的」という風に、性格と顔つきが一致しない人も多く生まれる筈ではないだろうか。

その結果として、大陸では民族的気質として観察される気質が、日本では「個人差」として認識され、そこに地域性などを持ち込んで分類する事を差別として避ける傾向があるのではないか。

だが、これらの気質には必ず起源がある。 このように日本外では、異民族同士が混ざり合うことは極めて稀なので、日本では個人の中で多様に混ざっている様々な気質が、大陸では個人として全く独立した気質として存在している。よってこれを見ると、非常に感覚的に日本人の民族混合比率を理解する事が出来るのではないか。

人と人の違いを知ることは差別ではない。むしろ人と人の違いを知らないことの方が、ずっと深刻な差別ではないか。人との違いを知らないことは、相手に対して、相手が自分と同じであることを期待したり、自分に対して自分が相手と同じであることを期待することにつながり、お互いがお互いを息苦しくする結果となるのではないだろうか。

このようにして気質の違いが生まれる原因を理解することで、人と人の違いを理解し、他人に対して自分で同じであることを強制することなく、他人と自分が違う状態のまま、お互いがお互いを尊重しあって一緒に生活していく、そういうことが複雑化した日本社会で生活する上で、大切なことではないだろうか。